和歌及び漢詩
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歌人として『古今和歌集』『玉葉和歌集』『続拾遺和歌集』にそれぞれ1首ずつ入首したとされるが、『続拾遺和歌集』の1首は『万葉集』に採られている阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したもの。 仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」が百人一首にも選ばれている。この歌は『今昔物語集』や『古今和歌集』などに採録され、後者の「後序」によれば、天平勝宝5年(753年)帰国のために明州までやってきた仲麻呂が送別の宴で王維ら友人の前で日本語で詠った歌とされていて通説となっている。しかし、『唐大和上東征伝』では、蘇州から出発したはずで『古今和歌集』左注の明州は虚構だとの指摘がある。内容も、日中の過去と現在の月が二重写しになっていて、後の遭難でついに帰国することができなかった哀切が先取りされていて、不審との意見がある。紀貫之による創作との見解もある。繁原央は「必ずしも別れの席で歌を詠んだとは限らず、作り置きをしていたのではないか」という説を提唱している。また繁原は、仲麻呂の乗った船が難破したという情報を得た李白が「哭晁卿衡」と題する七言絶句の中で「明月不帰沈碧海」と詠み、仲麻呂を「明月」と喩えていることから、仲麻呂の詠んだ望郷歌に関する話も聞いていただろうとした。 現在、奈良県奈良市の平城宮跡東側にある奈良ロイヤルホテル敷地内には、この歌の歌碑がある。 また、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江市にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形であらわしたものが刻まれている。この絶句は仲麻呂本人の作として紹介されることがあるが、実際には1979年に西安の記念碑を建立するのに先立って、西安市の辦公庁外事処(外交部署)に勤務した鄧友民が、仲麻呂の和歌を絶句に翻訳したものであった。碑文に訳詩者の名が刻まれなかったため、建立後の長きにわたってこの詩が仲麻呂本人によるものという誤解を受けるようになったという。 望郷詩 原文書き下し文翹首望東天 首を翹(あ)げて東天を望めば 神馳奈良邊 神(こころ)は馳す 奈良の辺 三笠山頂上 三笠山頂の上 思又皎月圓 思ふ 又た皎月(きょうげつ)の円(まどか)なるを 『全唐詩』巻732には、仲麻呂が帰国時に作った五言排律「銜命還国作」を収録している(作者名は「朝衡」)。なお、この詩は、王維が朝衡(晁衡:仲麻呂)に贈った送別の詩 “送秘書晁監還日本國”へのお返しに作ったものと言われている。 送秘書晁監還日本國 王維 原文書き下し文通釈積水不可極 積水(せきすい)極(きわ)む可(べ)からず 水が深く積もった海は極める事はできないのだから 安知滄海東 安(いずく)んぞ滄海(そうかい)の東を知らん どうして青い大海原の東を知る事ができようか 九州何處遠 九州何れの処か遠き 世界では、どこが(日本より)遠いのだろうか 萬里若乘空 萬里空に乗ずるが若(ごと)し 万里の道を(馬車に)乗って空を行くようなものだろう 向國惟看日 国に向って惟(た)だ日を看る 日本国に向かうにはただ(東方の)太陽を見て 歸帆但信風 帰帆(きはん)但だ風に信(まか)す 帰りの船はただ風まかせ 鰲身映天黑 鰲身(ごうしん)天に映じて黒く 大海亀の身体は天に黒々と映えて 魚眼射波紅 魚眼(ぎょがん)波を射て紅(くれない)なり 魚の眼は赤々と波間に光る 鄕樹扶桑外 郷樹(きょうじゅ)扶桑(ふそう)の外 故郷の樹木は(日の出る神木のある)扶桑の外にあり 主人孤島中 主人(しゅじん)孤島の中(うち) あなたは絶海の孤島にいる 別離方異域 別離(べつり)方(まさに)異域なりて 別れては、まさに異郷となってしまうが 音信若爲通 音信(おんしん)若為(いかん)か通ぜん 便りをどのようにして通じることができるだろうか なお、極玄集においては九州何處所と記され、この場合「あなたが帰ると言う九州は何処にあるのですか?」という解釈になる。 銜命還国作 晁衡 原文書き下し文通釈銜命將辭國 命(めい)を銜(ふく)み将(まさ)に国を辞せんとす 皇帝陛下の命令を受けて今から国を出ようとしている 非才忝侍臣 非才ながら侍臣を忝(かたじけの)うす 才はなかったが。ありがたく陛下にお仕えしてきた 天中戀明主 天中明主を恋(おも)い 陛下は天下から賢明な君主として慕われ 海外憶慈親 海外慈親を憶(おも)う 海外からは、慈悲深い親のようにおもわれている 伏奏違金闕 伏奏(ふくそう)して金闕(きんけつ)を違(さ)り 陛下に伏して奏上して、宮殿を辞するお許しを得た 騑驂去玉津 騑驂(ひさん)して玉津(ぎょくしん)を去らんとす 馬車に乗り、立派な港から旅立つ 蓬萊郷路遠 蓬莱(ほうらい)郷路(きょうろ)は遠く 日本へ帰る道は遠いが 若木故園鄰 若木故園の隣(となり) 未熟な若木のような日本は、立派な園である唐の隣にある 西望懷恩日 西を望み恩を懐かしむ日 西を望んで、陛下のご恩を懐かしむ日があり 東歸感義辰 東へ帰って義に感ずる辰(とき) 東の日本に帰って、義に感謝する時もあろう 平生一寶劍 平生(へいせい)一宝剣 私が平素から大切にしていた一振りの宝剣を 留贈結交人 留め贈る交を結びし人に 親しく交わった友に贈ろう また、仲麻呂が難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句が「哭晁卿衡」である。 原文書き下し文通釈日本晁卿辞帝都 日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し 日本の晁衡卿は帝都長安を離れ 征帆一片遶蓬壷 征帆一片(せいはんいっぺん)蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る 帆を張った舟は蓬莱の島々をめぐって行った。 明月不帰沈碧海 明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み 明月のような君は青い海に沈んで帰らず 白雲愁色満蒼梧 白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ 白雲がうかび、愁いが蒼梧に満ちている なお、蒼梧は、江蘇省連雲港市の海上雲台山が唐宋時代に呼ばれていた地名である。
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