司馬遼太郎の事実誤認と影響
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「ノモンハン事件」の記事における「司馬遼太郎の事実誤認と影響」の解説
歴史作家司馬遼太郎は、1968年に小説『坂の上の雲』の連載を開始した頃から、自分の戦時中に学徒動員により予備士官として戦車第1連隊に配属された経験を顧みて、次の時代小説ではノモンハン事件を取り上げようと考えて取材を開始した。その取材の過程で、「もっともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず(中略)事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた八九式戦車団が、雲霞のようなソ連のBT戦車団に戦いを挑んだのである」「日本軍は貧乏性なのでうんと砲身が短い57mm砲を搭載させた八九式中戦車を作ったが、ノモンハンでまったく役に立たず、発狂した中隊長も出たほどだった。慌てた日本軍は九七式中戦車を制式戦車に切り替えて生産を開始した」「ソ連軍は日本軍の前に縦深陣地を作って現れた。(日本軍は縦深陣地を理解しておらず)全兵力に近いものを第一線に配置して、絹糸一本の薄い陣容で突撃した。日本軍はあたかも蟻地獄に落ちていく昆虫のような状態に置かれた」などと考え、その結果、「日本はノモンハンで大敗北し、さらにその教訓を活かすことなく、2年後に太平洋戦争を始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説は書けなくなった」などと、知人の作家半藤一利に後日語り、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件の作品化を断念した経緯があるとされる。 しかし、司馬の知識は、日本軍戦車のノモンハン参戦時期や、九七式中戦車の開発経緯・生産開始時期、「縦深攻撃」と「縦深防御」の違いなどで事実誤認がある。八九式中戦車は第2次ノモンハン事件の当初から戦場に投入され、逆に事件の終わり頃には損害が大きいという理由でノモンハンを離れて原隊に復帰していた。また、九七式中戦車は昭和12年(1937年・皇紀2597年)に制式採用され、下記の年度別生産台数表の通り、ノモンハン事件のあった昭和14年(1939年)には八九式中戦車を大きく上回る数がすでに生産されていた。ノモンハンでは、戦車第3連隊(吉丸連隊長)に連隊長車を含め4輌の九七式中戦車が配備されて、戦闘に参加していた」。また、縦深陣地についても、ノモンハン事件の戦闘で、日本軍がソ連軍の縦深陣地を強攻して大損害を被ったという局面は少なく、むしろ8月のソ連軍攻勢時に、フイ高地やノロ高地などに日本軍が構築した陣地をソ連軍が強攻して大損害を被っている。特に井置捜索隊が守ったフイ高地については、歩兵陣地が数線の掩体壕で構成され、さらにその奥に機関銃陣地や速射砲の陣地が構築されているといった縦深配置で築かれていた。さらに速射砲陣地については、予備陣地も4~5個を設けて、砲撃の度に陣地変更して敵の攻撃をかわすといった非常に巧妙な造りとなっており、司馬の認識は明らかに事実誤認であった。ソ連軍がノモンハンで多用したのは、縦深防御ではなく縦深攻撃であった。圧倒的な機甲戦力による縦深攻撃は、特に8月の大攻勢時に威力を発揮し日本軍第23師団を壊滅させた。続く第二次世界大戦(独ソ戦)におけるバグラチオン作戦がその集大成となったとされている。司馬は、防衛庁戦史室を訪ね協力を取り付けて、段ボール1箱分のノモンハン事件に関する防衛庁戦史室秘蔵資料の提供を受けるなど、50歳代の10年にわたってノモンハン事件のことを取材、調査しているが、なぜこのような事実誤認をしていたかは不明である。 日本軍年度別戦車生産台数戦車名1937年1938年1939年1940年1941年合計九五式軽戦車80 53 115 422 685 1,355 八九式中戦車29 19 20 0 0 68 九七式中戦車0 25 202 315 507 1,049 年間計109 97 337 737 1,192 2,472 司馬はソ連軍がほぼ損害を受けていなかったと思い込んでいたようで、その認識に基づいて「ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた」「この局地的な対ソ戦は、世界史上でもめずらしいほどの敗戦だった」などと考えていた。日本軍歩兵が一方的な殺戮されたというのも、司馬がノモンハン事件の取材を進めていた1960年から1970年代には明らかでなかったソ連軍の情報が公開されるに従い否定されている。 司馬がノモンハンの小説を書けなくなったいきさつとして、司馬の内面的な問題だけではないとする指摘もある。司馬はノモンハン事件の調査を進めていく中で、ノモンハン事件で責任を取らされて予備役行きとなり、戦後に長野県上山田温泉で温泉宿を経営していた歩兵第26連隊長の須見新一郎元大佐と知り合った。連隊長解任の経緯から軍中央の参謀に不快感を抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部に批判的であった司馬と意気投合している。須見は謹厳実直な陸軍軍人ながら、明確に日本陸軍の作戦用兵に対しては批判的であり、司馬の小説の構想にうってつけの人物であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説を書こうと決めて、熱心に上山田温泉通いをしていた。そんな中で、1974年の『文藝春秋』正月号で司馬は参謀本部元参謀で伊藤忠商事の副社長だった瀬島龍三と対談し、それが記事となった。須見は、中央のエリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島と対談した司馬に対して「あんな不埒な奴にニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん」と激高し、今までの取材内容を使用するのはまかりならんと絶縁状を司馬に送り付けている。絶縁状を送り付けられた司馬は、須見を主人公のモデルとする構想が挫折したため、ノモンハン事件の小説が書くのが困難となってしまった。後に司馬はこの時を振り返り「もしぼくがノモンハンを書くとしたら血管が破裂すると思う」と述べるほど追い詰められている。ノモンハン事件ではないが、司馬は自分の戦車兵時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ『梟の城』の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、これも撮影困難として挫折した経緯がある。
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