司馬遼太郎の事実誤認と影響とは? わかりやすく解説

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司馬遼太郎の事実誤認と影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「司馬遼太郎の事実誤認と影響」の解説

歴史作家司馬遼太郎は、1968年小説坂の上の雲』の連載を開始した頃から、自分戦時中学徒動員により予備士官として戦車第1連隊配属され経験顧みて次の時代小説ではノモンハン事件取り上げよう考えて取材開始した。その取材過程で、「もっともノモンハン戦闘は、ソ連戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本旧式歩兵とのと肉の戦いで日本戦車一台参加せず中略事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた八九式戦車団が、雲霞のようなソ連BT戦車団に戦い挑んだのである」「日本軍貧乏性なのでうんと砲身が短い57mm砲を搭載させた八九式中戦車作ったが、ノモンハンでまったく役に立たず発狂した中隊長出たほどだった。慌てた日本軍九七式中戦車制式戦車切り替えて生産開始した」「ソ連軍日本軍前に縦深陣地作って現れた。(日本軍は縦深陣地理解しておらず)全兵力に近いものを第一線配置して絹糸一本の薄い陣容突撃した日本軍あたかも蟻地獄落ちていく昆虫のような状態に置かれた」などと考えその結果、「日本ノモンハン大敗北し、さらにその教訓活かすことなく2年後太平洋戦争始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説書けなくなった」などと、知人作家半藤一利後日語り、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件作品化断念した経緯があるとされる。 しかし、司馬知識は、日本軍戦車ノモンハン参戦時期や、九七式中戦車開発経緯生産開始時期、「縦深攻撃」と「縦深防御」の違いなどで事実誤認がある。八九式中戦車第2次ノモンハン事件当初から戦場投入され逆に事件終わり頃には損害大きいという理由ノモンハン離れて原隊復帰していた。また、九七式中戦車昭和12年1937年皇紀2597年)に制式採用され、下記年度別生産台数表の通りノモンハン事件のあった昭和14年1939年)には八九式中戦車大きく上回る数がすでに生産されていた。ノモンハンでは、戦車第3連隊吉丸連隊長)に連隊長車を含め4輌の九七式中戦車配備されて、戦闘参加していた」。また、縦深陣地についても、ノモンハン事件戦闘で、日本軍ソ連軍の縦深陣地強攻して大損害を被ったという局面少なく、むしろ8月ソ連軍攻勢時にフイ高地ノロ高地などに日本軍構築した陣地ソ連軍強攻して大損害を被っている。特に井置捜索隊守ったフイ高地については、歩兵陣地が数線の掩体壕構成され、さらにその奥に機関銃陣地速射砲陣地構築されているといった縦深配置築かれていた。さらに速射砲陣地については、予備陣地も4~5個を設けて砲撃の度に陣地変更して敵の攻撃をかわすといった非常に巧妙な造りとなっており、司馬認識明らかに事実誤認であったソ連軍ノモンハン多用したのは、縦深防御ではなく縦深攻撃であった圧倒的な機甲戦力による縦深攻撃は、特に8月大攻勢時に威力発揮し日本軍第23師団壊滅させた。続く第二次世界大戦独ソ戦)におけるバグラチオン作戦がその集大成となったとされている。司馬は、防衛庁戦史室を訪ね協力取り付けて段ボール1箱分のノモンハン事件に関する防衛庁戦史秘蔵資料の提供を受けるなど、50歳代10年わたってノモンハン事件のことを取材調査しているが、なぜこのような事実誤認をしていたかは不明である。 日本軍年度別戦車生産台数戦車1937年1938年1939年1940年1941年合計九五式軽戦車80 53 115 422 685 1,355 八九式中戦車29 19 20 0 0 68 九七式中戦車0 25 202 315 507 1,049 年間109 97 337 737 1,192 2,472 司馬ソ連軍がほぼ損害受けていなかったと思い込んでいたようで、その認識基づいてハルハ河をはさむ荒野は、むざんに日本歩兵殺戮のような光景呈していた」「この局地的な対ソ戦は、世界史上でもめずらしいほどの敗戦だった」などと考えていた。日本軍歩兵一方的な殺戮されたというのも司馬ノモンハン事件取材進めていた1960年から1970年代には明らかでなかったソ連軍情報公開される従い否定されている。 司馬ノモンハン小説書けなくなったいきさつとして、司馬内面的な問題だけではないとする指摘もある。司馬ノモンハン事件調査進めていく中で、ノモンハン事件責任を取らされて予備役行きとなり、戦後長野県上山田温泉温泉宿経営していた歩兵第26連隊長の須見新一郎大佐知り合った連隊長解任経緯から軍中央の参謀不快感抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部批判的であった司馬意気投合している。須見は謹厳実直陸軍軍人ながら、明確に日本陸軍作戦用兵に対して批判的であり、司馬小説構想うってつけの人であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説書こう決めて熱心に上山田温泉通いをしていた。そんな中で、1974年の『文藝春秋正月号で司馬参謀本部参謀伊藤忠商事副社長だった瀬島龍三対談し、それが記事となった。須見は、中央のエリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島対談した司馬に対して「あんな不埒な奴にニコニコ対談し反論せずにすませる作家信用できん」と激高し今まで取材内容使用するのはまかりならん絶縁状司馬送り付けている。絶縁状送り付けられた司馬は、須見を主人公のモデルとする構想挫折したため、ノモンハン事件小説が書くのが困難となってしまった。後に司馬はこの時を振り返りもしぼくがノモンハンを書くとしたら血管破裂すると思う」と述べるほど追い詰められている。ノモンハン事件ではないが、司馬自分戦車兵時代の話を、同じく司馬原作テレビドラマ梟の城』の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、これも撮影困難として挫折した経緯がある。

※この「司馬遼太郎の事実誤認と影響」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「司馬遼太郎の事実誤認と影響」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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