司馬遼太郎の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:27 UTC 版)
賞罰的県名説は、司馬遼太郎『街道をゆく』の連載第68回『野辺地湾』での言及によって広く知られるようになったとされている。『野辺地湾』は、八戸から青森方面へ向かう途上の海岸沿いで南部領と津軽領との境界を示す塚を見つけたという内容である。その中で、戊辰戦争の戦後処理で小南部領が岩手県から切り離されて青森県に編入されたことを「権力の感情的ないやがらせ」と評価し、その類例にあたる全国的な方向性として賞罰的県名説に言及している。 『街道をゆく』は出典を明記していないことが多く、賞罰的県名説についても『府藩県制史』を参照して論じたのかどうか明らかでない。「官軍側」として挙げている事例が『府藩県制史』の「忠勤藩」と一致しない(鳥取藩が含まれず、福井藩を官軍側としている)ことから、直接に参照した可能性は低いと考えられる。 『府藩県制史』の「曖昧藩」に相当する「日和見藩」としては金沢藩のみを挙げており、「金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした」と述べて、改称の直接理由が県庁移転であることや「石川」が郡名であり金沢も含まれることには言及していない。 また、『府藩県制史』に無い論理展開として、奥羽地方では秋田県を除いて「かつての大藩城下町の名称としていない」と述べている。ただし、個別事例への具体的な言及は「とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ太平洋側の僻村の福島に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている」と述べているのみである。秋田県以外の奥羽地方の現存県には、郡名に改称された岩手県、宮城県と、大藩城下町以外に県庁が置かれた青森県、山形県、福島県とがあるが、主要な「朝敵藩」の藩名が結果的に県名として残らなかったという側面のみに着目して、これらを同列のものと扱っていることになる。
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