司馬鄴を奉じる
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洛陽が陥落して以降、涼州へ避難する民が日夜に渡って相次ぐようになった。張軌は上表し、秦州・雍州からの流民を姑臧の西北へ移す許可を求めた。また、武威郡を分割して新たに武興郡を設置し、武興・大城・烏支・襄武・晏然・新障・平狄・司監などの県を編入した。さらに西平郡を分けて新たに晋興郡を設置し、晋興・枹罕・永固・臨津・臨障・広昌・大夏・遂興・罕唐・左南などの県を編入し、移民を居住させた。 312年3月、太府主簿馬魴は張軌へ「四海は傾覆し、乗輿(天子)も帰らぬものとなってしまいました。明公は全州(涼州の全て)の力で平陽(漢の本拠地)へ向かえば、必ずや万里の遠方すらも全て靡き、戦わずして勝利出来るでしょう。一体何を憂慮して、行動を起こされないのですか。今そこ出師を命じ、帝室を翊戴すべきです」と述べた。張軌は「これこそ我が想う所である」と述べ、これに同意した。 この時、秦王司馬鄴が関中に入り、漢軍に対抗して長安奪還の攻防を繰り広げていた。これを受け、張軌は関中一帯へ速やかに檄を飛ばし「主上は危機に遭遇し、流賊の下へ遷幸してしまった。普天(天下)は分裂し、率土(大地)は気を喪っている。秦王(司馬鄴)は天賦の資質があり、聡明であり仁徳に溢れている。また、すぐれた機略と武断をもって天命に応じている。世祖(司馬炎)の孫の中でも、今や王は一番の年長であるから、我ら全ての晋人よ、食土の同士(晋より食邑を与えられている諸侯)よ、占卜により時期を見定め、誠心誠意力を尽くし、明道も険道も心を同じくするのだ。まずは吉日を選んで秦王に位を継がせるべきである。今、前鋒督護宋配に歩兵・騎兵2万を与えて長安に向かわせている。乗輿(天子)を護衛し、左右の賊を撃退するのだ。西中郎将張寔には中軍3万を、武威郡太守張琠には胡人の騎兵2万をもって絶え間なく続かせ、仲秋の中旬には臨晋において合流せん」と宣言した。 4月、関中の諸将らは漢軍を長安から撤退させ、司馬鄴を雍城から長安へ奉迎した。 9月、西晋の秦州刺史裴苞・東羌校尉貫与は険阻な地に拠り、涼州と朝廷の往来を断絶していた。その為、張軌は宋配・張寔に裴苞討伐を命じた。同時期、西平出身の王淑と曹祛の残党である麹儒らは、かつて福禄県令であった麹恪を盟主に推戴して反乱を起こした。彼らは西平郡太守趙彝を捕らえると、東方にいる裴苞らと呼応した。その為、張寔は軍を反転させて反乱鎮圧に向かい、これらを撃破して麹儒らを誅殺した。また、左督護陰預は陝西において裴苞を攻撃し、これを大破して柔凶塢まで敗走させた。張寔は麹儒らの反乱の主犯格であった600家余りを移住させた。 同月、秦王司馬鄴が皇太子に立てられると、使者を涼州へ派遣して張軌へ拝し、驃騎大将軍に任じて位を司空に進ませ、開府儀同三司を授け、西平郡公に封じて3千戸を加える旨を告げたが、張軌はまたも固辞した。その後も司馬鄴は重ねて使者を送り、以前授けた官位(車騎将軍・開府儀同三司)を受けるよう改めて命じたが、張軌は一向に応じなかった。左司馬竇濤は張軌へ「周旦(周公旦)は曲阜に封じられると辞退せず、斉望(呂尚)は営丘に封じられると命を受けました。これは国家の明確な法によって、殊勲者を顕彰したからです。天下が崩壊して皇輿(天子)が流亡しましたが、涼州は辺境とは言えども匡衛(補佐して護衛する事)を忘れませんでした。そのため、朝廷は心を傾け、再三に渡りこの嘉命(報賞)を授けているのです。どうか朝廷の意思に従い、群心を満たされますように」と述べたが、それでも張軌は従わなかった。 同年、金城郡太守胡勗が謀反を起こすと、張軌は督護宋毅・治中令狐瀏を派遣して討伐を命じた。だが、胡勗が降伏を請うたので、討伐を中止して罪に問わなかった。 また同年、麹儒の残党らは乱を起こしたが、張寔が兵を率いてすぐさま平定した。 313年4月、平陽において懐帝が処刑されると、司馬鄴がその位を継いだ。愍帝(司馬鄴)は再び使者を派遣し、鎮西大将軍に任じて侍中を加え、再び開府儀同三司を与えて西平郡公に封じ、位を司空に進める旨を告げたが、張軌はまたも固辞した。 同年5月、漢の劉曜が北地を侵略して長安に迫ったので、張軌は参軍麹陶に騎馬3千を与え、長安の防衛に当たらせた。
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