司馬騰との攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)
漢建国より以前の8月、并州刺史司馬騰は劉淵打倒のため、鮮卑拓跋部と同盟を結んだ。これにより、拓跋部の大人拓跋猗㐌・拓跋猗盧・拓跋禄官は騎兵10万余りを率い、劉淵打倒を掲げて出撃した。その軍が西河郡・上党郡へ襲来すると、劉淵は軍を繰り出してこれを迎え撃ったが、抗する事が出来ずに敗北を喫した。 同年12月、司馬騰はさらに将軍聶玄を派遣して劉淵を攻撃させた。聶玄軍が大陵まで進出すると、劉淵はこれを迎え撃って大いに破った。さらに劉淵は勝ちに乗じて進撃し、劉曜を派遣して太原・泫氏・屯留・長子・中都を続けざまに陥落させた。また、冠軍将軍喬晞を西河へ侵攻させ、介休を陥落させて県令賈渾を討ち取った。 305年、司馬騰は司馬瑜・周良・石尟らを派遣して劉淵を攻撃させ、司馬瑜らは離石の汾城を攻撃拠点とした。これを聞いた劉淵は武牙将軍劉欽を初めとした六軍を派遣し、司馬瑜らを迎え撃たせた。劉欽は敵軍と四度交戦を行うといずれも打ち破り、軍を整えてから凱旋した。 6月、漢軍が晋陽を守る司馬騰を攻撃すると、司馬騰は拓跋部の大人拓跋猗㐌に救援を求めた。拓跋猗㐌はこれに応じて軽騎数千を率いて到来し、漢軍はこれに敗れて将軍綦毋豚が戦死した。 この年、離石は大飢饉に見舞われたために、劉淵は拠点を黎亭に移し、邸閣一帯から食糧をかき集めさせた。また、太尉劉宏・護軍馬景に離石を守備させ、大司農卜豫には彼らへ穀物を供給させた。 306年末、司馬騰は漢の勢力拡大を大いに恐れ、抗戦を諦めて并州の2万戸余りの領民を率いて山東に南下した。その為、劉琨が後任の并州刺史となった。12月、劉琨が并州に到来すると、劉淵は前将軍劉景を使持節・征討大都督・大将軍に任じ、板橋において迎撃させたが、劉景は返り討ちに遭った。劉琨は無事に晋陽へ入城を果たすと、以降はこの地を拠点として漢軍に対抗するようになった。
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