司馬金龍夫妻合葬墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 06:23 UTC 版)
琅邪康王司馬金龍と鮮卑貴族の第一夫人の欽文姫辰の合葬墓が1965年、山西省大同市の東南約6.5km、石家寨村の西南にて現地の農民が井戸掘りの最中に偶然発見され翌年にかけて緊急発掘が行われた。副葬品には保存の良い5幅の漆塗り屏風や大量の陶俑が含まれていた。漆塗り屏風の絵画は『女史箴図』と共通性の高い純漢族風の意匠で、陶俑の多くは遊牧民風の衣装を纏った北族風のものであった。 第一夫人の欽文姫辰は鮮卑禿髪部の出身で父は南涼第三代の君主景王禿髪傉檀の息子禿髪破羌(漢名は源賀)。母は西秦第三代の君主文昭王乞伏熾磐の娘。二人の間に司馬延宗・司馬纂・司馬悦の三人の息子を儲けた。この第一夫人没後に金龍は匈奴の北涼第三代の君主哀王沮渠牧犍と北魏太武帝の妹の武威公主のあいだの娘を夫人とし司馬徽亮が生まれた。
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