司馬遼太郎らによる毀損
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
乃木を無能・愚将であるとする主張が広まったのは、日本陸軍従軍経験のある作家・司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』および『殉死』によるところが大きい。いかし、司馬作品の多くはあくまでも「大衆小説」であり、小説とするために史実を意図的に変えているもの(虚構の記述)もある。 司馬は『坂の上の雲』および『殉死』において以下のように述べ、旅順における乃木を批判している。 旅順攻囲戦当時、要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識であったが、乃木は第1回総攻撃においてこれを採用しなかった。 ヴォーバンの戦術論(近代要塞に対する攻撃方法)に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった。 乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された。 第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山および東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった。 早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み、本来不要な旅順要塞全体の陥落にこだわった。 旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった。 乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた。 この他、自身が陸軍少尉として日露戦争に従軍した宮脇長吉(後に大佐、衆議院議員)は、「乃木大将はほんとうに戦争がへただった」と語っていたという。 また文学者のドナルド・キーンは、「明治天皇は乃木希典が嫌いだったと思う。乃木を学習院長に任命したが、これは名誉ある仕事なのか。乃木は教育者として強い信念があったわけでもない」と述べ、司馬の「乃木愚将論」に同調した。
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