司馬遼太郎への反論と乃木肯定論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
「乃木希典」の記事における「司馬遼太郎への反論と乃木肯定論」の解説
これに対し、乃木の行動を肯定する論説として、 福田恆存「乃木将軍は軍神か愚将か」『中央公論』第85巻第13号、1970年12月、 80-103頁。 福井雄三「『坂の上の雲』に描かれなかった戦争の現実」『中央公論』第119巻第2号、2004年2月、 61-72頁。 などが発表された。特に、司馬遼太郎の主張に対する反論として、桑原嶽『名将 乃木希典(第五版)』(中央乃木会、2005年)および別宮暖朗『旅順攻防戦の真実』(PHP文庫、2006年)があり、以下のように述べて乃木の判断を肯定している。 乃木は、当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文をすべて読破した理論派であった。 日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない。 乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、戦況を手に取るように見える距離である。よって、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた。 第3軍に大本営より手渡されていた旅順の地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山などの堡塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える。 旅順要塞に対して残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった。 児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている。また児玉自身、作戦立案を第3軍参謀に行わせており、それを承認した上で攻撃を開始しており、彼自身の立案だった訳でもない。 別宮暖朗は、乃木率いる第3軍が第1回総攻撃による被害が大きかったことを受けて、第2回総攻撃以降は突撃壕を掘り進めて味方の損害を抑える戦術に転換していることを評価すべきと主張する。欧州各国陸軍も第1回総攻撃と同様の方法を採っていたのであるから、日露戦争当時にこの戦術を採用した乃木は評価されるべきである、という主張である。 元防衛大学校教授・桑田悦は、乃木であればこそあの時期に旅順を攻略できたと述べており、大阪青山短期大学准教授・福井雄三も、精神的プレッシャーに強く平常心を失わずに部下を奮い立たせた乃木を評価している。
※この「司馬遼太郎への反論と乃木肯定論」の解説は、「乃木希典」の解説の一部です。
「司馬遼太郎への反論と乃木肯定論」を含む「乃木希典」の記事については、「乃木希典」の概要を参照ください。
- 司馬遼太郎への反論と乃木肯定論のページへのリンク