制度・出来事
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「戦場のヴァルキュリアシリーズの用語一覧」の記事における「制度・出来事」の解説
第一次ヨーロッパ大戦 20世紀初頭、帝国と連邦の間で行われた大戦争。通称「一次大戦」。18世紀後期の産業革命以降、ラグナイト資源をめぐって帝国と連邦の対立は一触即発の緊張状態が続いていたが、帝国皇太子暗殺事件をきっかけに開戦。周辺諸国が次々に巻き込まれる大戦となった。大戦後期にはラグナイト資源を目当てに帝国軍がガリア公国にも侵攻するが、ベルゲン・ギュンター将軍の活躍でガリア軍が撃退。数年に及ぶ消耗戦により疲弊した帝国と連邦は、休戦条約を結んだ。新兵器として戦車が初めて実戦投入された戦争である。 作中では開戦と休戦の年は明示されていないが、ネームレス隊員のフェリクス(征暦1935年時点で21歳)がこの大戦で家族を失い、第7小隊員のイサラ(同16歳)誕生後に事故死した父親テイマーが戦後の死亡であることから、少なくとも21年前(1914年)以降に開戦、16年前(1919年)より前の休戦となる。 第二次ヨーロッパ大戦 征暦1935年に帝国と連邦の間で勃発した大戦。帝国が連邦との不可侵条約を一方的に破棄し、連邦の保護下にある3カ国を武力によって占領したことに対して、連邦側が宣戦布告をしたことで開戦した。圧倒的な軍事力と物量を誇る帝国は開戦から3ヶ月でヨーロッパの7割を支配下に置くが、同盟国間の足並みが揃わなかった連邦も同年3月より反攻作戦を開始。冬には停戦条約が締結されたが、あくまで一時的な停戦に持ち込んだに過ぎず、1937年時点でも膠着状態のまま全面戦争は継続中とされている。続々と新兵器が投入され、ヨーロッパ大陸全土を巻き込んだ史上最大の戦争。ガリア戦役 1935年に発生した帝国によるガリア侵略戦争。同年3月15日の宣戦布告から10月25日の休戦協定締結まで7ヶ月余に及んだため「7ヶ月戦争」とも呼ばれる。主に『1』『3』の舞台となった戦い。 ガリア内戦 1936年9月に武装蜂起した反乱組織「ガリア革命軍」のクーデターにより、1937年1月頃から本格化した内戦。同年12月21日の革命軍総統バルドレン・ガッセナールの戦死により革命軍が降伏勧告を受け入れて終結した。『2』で描かれている。 ノーザンクロス作戦 帝国首都の急襲を目的とした連邦軍の一大反攻作戦。1935年3月上旬に開始され、10月のジークヴァル会戦後までは概ね計画通り進んだが、例年より早過ぎる冬将軍の到来によって瓦解した。ただし、帝都侵攻作戦そのものは「キグナス作戦」に引き継がれる。最終的に、連邦の動員兵力は600万人、帝国兵や非戦闘員を含む犠牲者1000万人に達した。本作戦から始まる一連の戦いは後に、連邦側は「東部戦線」、帝国側は「大祖国戦争」と呼称された。キグナス作戦と共に『4』で描かれた作戦。 白鳥(キグナス)作戦 雪上巡洋艦3艦で構成されるキグナス艦隊が大氷洋を抜けて帝国首都を急襲する作戦。元々はノーザンクロス作戦のBプランとして極秘検討されていたが、本来の作戦が瓦解したことでキグナス作戦が本命、旧ノーザンクロス作戦が陽動となった。E小隊を乗せた2番艦センチュリオンがシュバルツグラードに突入するが、新型爆弾の起爆直前に停戦合意が伝えられた。 国民皆兵制度 国土が小さく国民の少ないガリア公国に存在する一種の徴兵制。ガリア独立戦争後に制定され、義務教育や高等学校で軍事教練が義務づけられるほか、大学には士官教練課程もある。有事には必要に応じて国民が動員され、正規軍将校がが大隊長・中隊長を務める義勇軍に編入される。動員体制は3段階で、第一次動員が15〜29歳の男女、第二次では30〜45歳の男性から選抜、第三次は第一・第二次の対象者全員が動員される。終戦後は多くは元の生活に戻るが、そのまま軍人になるものも珍しくない。なお、公国法の定めによると、義勇軍は外敵の侵略時にのみ召集されるため、内乱では徴兵できない。 コーデリアの告白 帝国と停戦した1935年10月25日にガリア全国民に対してコーデリア大公が行った告白。古代ヴァルキュリア戦争とダルクスの災厄についての事実を語り、更にランドグリーズ家が実はダルクス人の家系であることを明かした歴史的出来事。これに反発する貴族層を取り込み、主権奪取を狙うガッセナール家は「ガリア革命軍」を結成した。
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