再選、選挙違反事件
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杉浦の実弟の杉浦矩康は1986年の総選挙後、兄の公設第一秘書となった。その年の清和会の忘年会で先輩秘書から裏金づくりを教えられる。自身の給料やボーナス、就職斡旋の謝礼金などを3年がかりでこつこつと貯め、議員会館の机の引き出しに1,300万円を蓄えた。 杉浦矩康と岡崎高校時代の同窓生で、岡崎中央魚市場社長の鈴木康夫は1986年の総選挙では選挙事務所で書類整理などを行っていた。1988年の市長選で選対幹部が分裂すると、矢作町出身の鈴木は杉浦から「康ちゃん」「康夫くん」と地元のことを一切任されるようになった。そして1989年11月頃、岡崎市議の間で「杉浦はケチで面倒見が悪い」との悪評が流れているのを聞き、買収工作を計画。東京の矩康に電話し「議員さんにモチ代でも」と持ちかけた。 1989年12月5日、海部内閣は閣議で年末年始の政治日程を決定。年が変われば衆議院議員の任期は残すところ半年余しかなくなり、次期衆院選は「翌年2月3日公示、2月18日投票」との観測が強まった。12月中旬、鈴木は矩康から1,300万円を受け取り、これを選挙買収の原資とした。12月下旬にかけ、後援会事務局長として、保守系市議に対し一人当たり30万円または50万円の現金を配って歩いた。すぐに突き返した議員も複数いたが、金を受け取った市議20人は洋服代や娘の結婚資金、借金返済、自身の後援会幹部への歳暮代などに充てた。集票活動に使った者は一人もいなかった。同年12月下旬、杉浦は約1千万円をかけ、岡崎市牧御堂町の縦横100メートルの敷地にプレハブ2階建てと平屋建ての計3棟の事務所を建てた。他陣営は「日本一大きいのでは」と揶揄した。 1990年1月9日、後援会常任役員会が開かれた。選対の委員長には、1980年の内田事件で逮捕され、1984年の市議選で返り咲いた石川新平市議が就いた。石川ら幹部が「中根鎭夫後援会」と「杉浦正健後援会」が合同で開く新年会の案内文を配ったとき、医師で後援会会長の岩瀬敬司が「ちょっと待った。そんなことは聞いとらんぞ」と突然声を荒げた。新年会は結局「中根鎭夫後援会」の単独主催となるも、選挙前の大事な集まりのはずの新年会が後援会長の耳に入ってなかった事実に関係者の多くは不安を覚えた。1月16日に開かれた選対婦人部の会合で石川は「兵隊は上官の命令には『はい』と言って従うものだ」と口上を述べたあと、役職のリストを配布。婦人部長の欄には、杉浦の高校時代の恩師で、小学生バスケットボールの指導者として知られる愛知県女子体育連盟会長の矢田香子の名前があった。公示後も陣営内のちぐはぐぶりは続く。2月13日朝、矢田の自宅に「今日午前10時から婦人部の総決起大会があります。挨拶してください」という電話が入るが、矢田が大会の開催を聞いたのはその日が初めてであった。 こうした背景の中で発言力を増していったのが、前市議会議長の河澄亨だった。河澄は総選挙を翌春の自らの県議選の基盤づくりに利用せんとする意図があり、前回杉浦の擁立に尽力した反河澄派の市議らを選対中枢部から排除。陣頭指揮に立ち、選対を牛耳った。河澄に対する反発は強かったが、陣営では宮川達、広瀬倉吉、村松武ら河澄派の市議5人を「五奉行」と呼び、別格扱いした。 旧愛知4区の中でとりわけ「金食い選挙」ぶりが目立ったのが杉浦陣営であった。1月下旬、岡崎、西尾の両市で総決起大会が開催。岡崎会場では100人以上の女性にペンライトを振らせ、ビデオカメラを使ってステージの両脇に演説者のアップを大画面で映し出した。西尾会場では開会前の余興として手品師や演歌歌手のショーを企画した。1台約8万円で約50台のバスを借り切り、両会場で約4000人を動員し、会場の入口でパンと牛乳が入った袋を参加者に配った。支援者のタクシー会社ではポスターが横一列に何十枚も張られ、通行人を驚かせた。 同年2月18日、総選挙実施。社会党新人の川島實がトップで初当選。杉浦は得票数3位で再選。翌2月19日、買収申込みの疑いで鈴木康夫が逮捕される。2月22日から3月19日にかけて、被買収の疑いで市議13人が逮捕され、市議7人が書類送検された。3月5日、杉浦矩康が買収の疑いで逮捕された。「市長選のしこりで杉浦から去って行った初当選時のベテラン選対連中が、もしそのまま残っていたら、こんな素人選挙はしなかったろうに」「これほど市議が大量に捕まるのは、選挙を知らない鈴木が〝オキテ〟を破って、あからさまにしゃべっているからだ」と支援者は悔しさをにじませた。 実弟の杉浦矩康と後援会事務局長の鈴木が逮捕されたにもかかわらず杉浦は連座制の適用を受けなかった。連座制を規定する公職選挙法251条の2は「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者」を対象としているが、改正前の事件当時は「公職の候補者」とのみ記されていた。また、この言葉を字義どおりに解釈する最高裁判所昭和35年2月23日判決があったことから、買収工作時点で杉浦は「公職の候補者」に当たらず、丹羽兵助と同様に起訴を免れた。 同年3月30日、ユートピア政治研究会の会合が開かれる。生気を失った杉浦に対し同情的な議員もいたが、同僚たちが一様に不思議がったのは「たいして票にならない」市議への買収の効果であった。ある国会議員は取材に対し「本気で買収するなら、まじめに選挙をやっている人に渡して末端にまいてもらう」とコメントした。 同年9月25日までに17人の市議が辞職し、11月4日にその補選が行われた(翌1991年にさらに2人辞職)。 1993年7月の総選挙は、社会党現職の川島に4,100票差で敗れ落選。
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