再選と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 23:23 UTC 版)
再選されたペロンとエバ夫人(1951年) ペロン時代に建設されたアラス・ビル マヨ広場の惨劇の犠牲者 1952年に再選したものの、同年7月に国民からカリスマ的な支持を受けた妻、エバが癌にかかり死亡すると国民からの支持をなくし、さらに離婚法の制定はこれまでペロンに対して強い支持を与えていたカトリック教会との関係を悪化させペロニスタによる教会の焼き打ち事件まで誘発した。 遂に1955年6月16日には反ペロン派によるクーデター未遂事件(マヨ広場の惨劇(スペイン語版))が起き、更に9月16日には海軍と陸軍が起こした軍事クーデター(自由革命(スペイン語版))により大統領の職を追われ、独裁者仲間のアルフレド・ストロエスネル大統領が国を治めるパラグアイ経由で、同じく軍事独裁者のフランシスコ・フランコ将軍が君臨するスペインに亡命した。その後、亡命先のスペインでナイトクラブ歌手のイサベルと再婚する。 ペロンはフランコと同様に反共主義者だったものの、亡命したマドリードから当時アメリカともソビエト連邦とも対立していた中華人民共和国の指導者である毛沢東に共感して手紙で連帯を呼びかけてペロニスタの青年団を中華人民共和国におくっており、後に妻のイサベルらも正義党の代表団として中華人民共和国に派遣した。
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