内親王時代
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1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王と同妃美智子夫妻(当時)の第三子(2男1女のうち第1女子)として誕生。体重2,250グラム、身長45.2センチメートルで未熟児だったが、健康状態は良好だった。夫妻にとって唯一の内親王(女子)であり、また「いずれは嫁ぎ皇籍から離れる身」という想定で教育された。特に1977年(昭和52年)から1987年(昭和62年)にかけて、毎年母娘2人で小旅行(皇室ゆかりの社寺・陵墓への訪問を含む)を行っていた。 1973年(昭和48年)、柿の木坂幼稚園に入園し、年少の1年間のみ通う。翌年からは学習院幼稚園に入園し、初等科から大学まで学習院に通学した。1989年(平成元年)に成人を迎え、祝賀行事も予定されていたが、祖父・昭和天皇の崩御により、翌1990年(平成2年)3月に延期された。 1992年(平成4年)、学習院大学文学部国文学科(現・日本語日本文学科)卒業。山階鳥類研究所非常勤研究助手になり、労働対価による給与を得た史上初の内親王となった。公務のかたわら研究活動を継続し、1998年(平成10年)から2005年(平成17年)まで山階鳥類研究所非常勤研究員。赤坂御用地と皇居の鳥類の研究を手がけ、その成果を元に平凡社より出版された『日本動物大百科』のカワセミの項目の執筆を担当した。また、福祉活動の面では盲導犬関連の公務に積極的に携わっていた。 兄の親王2人が妃を迎えて、1994年(平成6年)頃には自身の結婚報道が過熱し、記者会見で「報道された男性に迷惑がかかるため自粛して欲しい」と自ら要請した。 2003年(平成15年)1月ごろ、次兄の秋篠宮文仁親王の友人で幼少時から面識のあった東京都職員(現・都市整備局都市づくり政策部都市計画課長)の黒田慶樹と再会。2004年(平成16年)1月に求婚を受け承諾。同年2月に両親である天皇明仁及び皇后美智子(いずれも当時)に紹介した。12月30日に婚約を発表。当初11月に予定された婚約内定は新潟県中越地震に配慮して一度延期され、さらに大叔母にあたる宣仁親王妃喜久子の薨去に伴って再延期された。 2005年(平成17年)3月19日、納采の儀。また、同年10月21日、警視庁府中運転免許試験場にて運転免許試験を受け、普通免許(AT車限定)を取得。10月28日に、内親王として最後の園遊会に出席した。
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内親王時代
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1939年(昭和14年)3月2日午後3時55分、産気づいた香淳皇后は産殿に入り、午後4時35分に第5皇女(第7子、末子)を出産する。誕生時の身長は51.2cm(1尺6寸9分弱)、体重は3503g(935匁弱)であった。5時50分に父昭和天皇と対面し、6時50分には長姉・照宮成子内親王以下の姉宮達と対面した。守り刀は月山貞勝の作。御七夜の同月8日午前9時に浴場の儀、午前11時に百武三郎侍従長が皇后宮に遣わされて命名の儀が行われ、「清宮貴子」と命名された。 この称号と名は万葉集6巻1005番の山部赤人の雑歌に由来している。これは長兄・継宮明仁親王が明治天皇の「大教宣布」に由来した以外、和書を典拠とする命名としては初であった。ただし、叔父の三笠宮崇仁親王が創設した「三笠宮」の宮号も万葉集に由来する。 学習院大学文学部イギリス文学科在学中の1960年(昭和35年)3月10日、日本輸出入銀行員であった島津久永と結婚し皇籍を離脱した。久永は日向国佐土原藩主家の第14代当主である島津久範伯爵の次男で、学習院在学時代は長兄の皇太子明仁親王の学友でもあった。貴子内親王は結婚に伴い学習院大学を中途退学した(当時は、結婚のため大学中退した場合は卒業生として扱われた)。 貴子内親王と久永は、曾祖父島津忠義を同じくする又いとこ(はとこ)同士である。さらにこの婚姻は、旧宮家・旧華族の当主やその継嗣には当たらない「平民かつ次男」として、皇室典範制定以来、初の事例となった。皇太子明仁親王と正田美智子の結婚を機に、戦争責任論による昭和天皇の退位(明仁親王への譲位)を求める世論もあったが、貴子内親王と島津久永の婚約という慶事が間髪を容れず判明したことで、盛り上がることは無かった。
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