内観法の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 04:34 UTC 版)
はじめ吉本は企業経営をしながら自宅で希望者に内観をさせていたが、1953年(昭和28年)、事業から引退し、大和郡山市に内観道場(のちの内観研修所)を設け内観指導に専念する。昭和30年代には教誨師となり、刑務所や少年院での内観普及に尽力し、1960年(昭和35年)ころには有力な矯正手法として全国各地の矯正施設で採用される。死刑囚ややくざの親分が改心するなど、大きな効果を上げ、マスメディアでも取り上げられた。その過程で、宗教色を払拭してゆく(矯正施設での宗教行為は憲法で禁止されている)。矯正界では内観が宗教に当たるのか当たらないのかで議論があったが、1960年(昭和35年)の法務省主催の全国刑務所所長会同で「内観は宗教に当たらない」という結論が出された。 また1965年(昭和40年)ごろから医学界に導入された。福島県須賀川市の開業精神科医・石田六郎、岡山大学精神神経科教授奥村二吉らが内観療法の先駆者である。心療内科の草分け、九州大学教授・池見酉次郎も関心を持った。心理学者では京都大学教授・佐藤幸治、信州大学教授・竹内硬、東京大学教授・村瀬孝雄、大阪大学教授・三木善彦らが注目した。また学校教育界や企業教育の世界にも広がった。 試行錯誤の末、内観三項目が成立したのは1967年(昭和42年)である。昭和40年代前半に現在「吉本原法」と呼ばれる内観のスタイルが完成する。1978年(昭和53年)には日本内観学会が設立されている。 その後、全国、さらには外国にも内観研修所が設けられるようになった。吉本自身は自らは創始者と呼ばれることを嫌い「わては内観のチンドン屋です」と講演などで話していた。 吉本は死の直前まで研修所で面接に当たり、1988年(昭和63年)8月1日、肺炎で死去する。遺体は奈良県立医科大学に献体された。
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