偏諱授与の風習とは? わかりやすく解説

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偏諱授与の風習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:52 UTC 版)

「諱」の記事における「偏諱授与の風習」の解説

偏諱(へんき)は避けるだけではなく貴人から臣下への恩恵付与として偏諱与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる鎌倉時代には、4代将軍藤原頼経から5代執権北条時頼6代将軍宗尊親王から8代執権北条時宗(時頼の嫡男)への偏諱など、下の字につく場合もままあったが、時代が下るにつれて主君へのはばかりから偏諱は受ける側の上の字となる場合がほとんどとなった室町時代には重臣嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身偏諱与えることが広く見られるようになった一字拝領ともいう)。特に足利将軍一字拝領することはよく見られ畠山満家細川勝元などの守護大名から赤松満政のような近臣にも与えられた。従って、武家において偏諱授けということは直接的な主従関係の証となるものであり、主君自分の家臣に仕えている陪臣偏諱授けることが出来なかった。実際に有馬晴純(義純)が少弐氏との被官関係を残したまま、将軍足利義晴から偏諱授与されたことが後日問題となった例がある(『大舘常興日記天文8年7月8日・同9年2月8日両条)。しかし、これも戦国時代以降では陪臣立場でも(主君将軍臣下)を介する形で)将軍等から間接的にその偏諱を受ける現象生じている(後述参照)。一方で公家でも近衛家九条家二条家のように将軍から偏諱を受ける家も現れた。 戦国時代から安土時代には外交手段として一字貰い受けることもあった(織田信長長宗我部信親など)。桃山時代には、豊臣秀吉積極的に大名の子息に「秀」の字を与えている。結城秀康徳川秀忠家康次男三男)、宇喜多秀家毛利秀元伊達秀宗などがそうである。 江戸時代になると主君から家臣への偏諱授与の風習は氾濫した。しかし将軍家偏諱受けられる家は、徳川御三家以外は福井藩越前松平家福井藩主家)・加賀藩前田氏)・福岡藩黒田氏)・米沢藩上杉氏)・仙台藩伊達氏)など四品国持大名などの特定の藩の当主歴代(の世嗣も含む)や二条家などに限られ、特に選ばれ人物のみに与えられる特権格式表れ見なされるようになったこのため各藩や一族の支藩分家などの当主与えられる例は極めて稀であり、特に選ばれ一代などを除き代々与えられる例はない。一部例示するが、徳川家光の「光」から徳川光圀徳川光友徳川家綱の「綱」から徳川綱重徳川綱吉徳川綱吉の「吉」から柳沢吉保徳川吉宗徳川吉宗の「宗」から徳川宗春徳川家治の「治」から徳川治済上杉治憲徳川家斉の「斉」から徳川斉昭島津斉彬徳川家慶の「慶」から徳川慶喜松平慶永などと、枚挙にいとまがない女性でも偏諱慣習みられる。それは女性朝廷官位を得るのに際して与えられる位記に諱を書く必要があることから、父親ないし近親者から偏諱を受けるといったことである。北条時政の娘・北条政子正しく平政子)、近衛前久の娘・前子(中和門院)、豊臣秀吉正室・吉子(高台院)などの多くの例がある。 稀ではあるが、弟が兄に対して偏諱与える例もあった。これは(長幼の序考え方でいうなら兄が上で弟が下の立場ではあるが)兄が庶子であるが故に弟が嫡男もしくは上の立場となり、兄弟扱い逆に(弟が兄、兄が弟として)扱われていることによるのである例えば、室町幕府6代将軍足利義教庶子で僧となっていた清久(せいきゅう)は、のち還俗する際に、異母弟第8代将軍となっていた足利義政から「政」の字の授与受けて足利政知改名している。また、水戸藩4代藩主徳川宗堯庶長子であった松平頼順初め、弟で同藩の第5代藩主となった徳川宗翰から「翰」の字を与えられ松平翰鄰(もとちか)と名乗っていた。 また、賜った1字(偏諱)は授与受けたその人物し用いることができない」という規定全くない。その具体例としては以下のものが挙げられる九州戦国大名大友義鎮(宗麟)から「鎮」の字の授与受けた蒲池鎮漣以降の子孫・支流蒲池氏)が「鎮」の字を代々用いようになった例。 大友義鑑重臣戸次鑑連の子孫が「鑑」の字を代々用いようになった立花氏の例。 陶晴賢戦国武将室町幕府第12代将軍足利義晴大内晴英(宗麟の実弟、のちの大内義長)→陶晴賢足利義晴より1字を受けた武田信玄(晴信)の家臣一部に「晴」のつく人物みられる山本晴幸勘助)、秋山晴近(虎繁・信友)、甘利晴吉(昌忠・信忠)、春日虎綱(別名に晴昌、晴久)、米倉晴継など)。(但し、実際に名乗っていたかは確実ではない。) 長尾輝景戦国武将室町幕府第13代将軍足利義輝上杉輝虎謙信)→長尾輝景徳川慶喜家歴代当主江戸幕府第12代将軍徳川家慶徳川慶喜(同第15代将軍初代)2代徳川慶久3代徳川慶光4代徳川慶朝京極氏通字北条高時佐々木高氏京極氏代々こうした事例により、前述の「武家において偏諱授けということは直接的な主従関係の証となるものであり、将軍等から偏諱授かった大名等が自分の家臣(陪臣)にそのままその字を授けることが出来ない」といった原則戦国時代以降では通用しなくなっていることが証明されている。 また、偏諱与えられても実際に使用できるかどうか別問題であり、相良頼房足利義輝偏諱得て義陽」と称した時に隣国大国である大友宗麟身分不相応であるとして反発したために義陽家中に対してさえ旧名の頼房を用いざるを得なくなったが、後に島津義久と宗麟の関係が悪化する大友宗麟相良氏味方つなぎとめるために先の抗議取り消したために公称できるようになったという経緯がある。

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