俳歴
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俳句は高浜虚子に師事し、大正3年5月より『ホトトギス』に投句。博多俳人の指導につとめ、大正14年には清原枴童の俳誌『木犀』の創刊に末永感来、角菁果らと共に協力する。昭和5年には『木犀』を継承。 昭和9年に『ホトトギス』の同人となる。昭和16年には福岡県下ホトトギス系俳誌5誌、『無花花八幡』・『数の子門司』・『やまたろ筑後』・『櫟(くぬぎ)大牟田』・『木犀』合併の俳誌『冬野』の主宰となる。 昭和43年にはKBC福岡放送文芸部俳句壇の担当となる。 句風は滑稽味にあふれ軽妙。
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俳歴
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1993年、俳句雑誌「ホトトギス」投句開始 稲畑汀子、廣太郎に師事。1998年、日本伝統俳句協会賞、花鳥諷詠賞を受賞。2002年「ホトトギス」同人。2009年、村上鬼城賞正賞を受賞。 2011年俳句雑誌「ひろそ火」を創刊主宰。現在 群馬県俳句作家協会副会長、NHK学園俳句講座講師、日本伝統俳句協会会員、俳人協会会員、日本文藝家協会会員 他。
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俳歴
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1957年2月9日、京都市岡崎に産まれ、すぐ京都市郊外の乙訓郡向日町大字鶏冠井小字大極殿(現、向日市鶏冠井町大極殿)に移住。本名は尋郎(ひろお)。向陽幼稚園(西山浄土宗総本山光明寺が母体の私立)、向陽小学校(町立)を経て、高槻中学校・高等学校(私立)、二浪ののち、1977年、関西大学文学部哲学科へ進学。1981年、関西大学中退。 1973年、高校2年の冬より俳句を書き始め、波多野爽波に師事、爽波主宰の月刊俳句誌「青」に投句。また、1974年、同級生らと「童(がき)俳句集団」を結成。1977年、「がきの会」と改称し、俳句同人誌「東雲」を創刊。がきの会には、田中裕明、上田青蛙、小豆澤裕子らの他、一時的には、中田剛、武藤尚樹、中里夏彦らが在籍、また、波多野爽波を名誉会長、茨木和生を名誉会員として迎え、毎号俳句の寄稿を得ている。(1980年1月の9号まで続く)。 1979年秋、「青」三百号を期に、田中裕明、上田青蛙とともに、はりまだいすけ、山本洋子、原田暹より、編集を引き継ぎ、編集長に就任。1980年、角川俳句賞最終候補。同年暮、爽波との意見対立により編集長を辞任し、「青」退会。 1981年、就職のため東京へ転居、宇佐美魚目の助言により石寒太に会い、同人誌「無門」に参加。今井聖、筑紫磐井、正木ゆう子らを知る。また、その後夭折した安土多架志(高槻高校の先輩)を知る。「無門」はその後寒太主宰誌「炎環」となり、一時、編集長となるが、作句意欲の衰えにより、自然退会。1996年、今井聖の誘いを受け、聖主宰誌「街」の創刊同人として参加(後述の同人誌「里」創刊まで在籍)、山下知津子らを知る。同年より、爽波門下が集う「洛」(椹木啓子発行・島田刀根夫=牙城の父=編集)に投句(1999年12月終刊まで在籍)。1998年、夏石番矢の誘いを受け、番矢代表の超俳句同人誌「吟遊」に、創刊準備号(No.0)よりNo.9まで在籍。 1999年3月、長野県佐久市新子田へ転居。2000年3月に個人紙「肘」を創刊し、信州での俳句生活を本格化させる。2001年4月、新子田公民館にて里俳句会第一回句会を持つ(「肘」は2002年5月、22号で終刊)。2002年6月、「里俳句会通信」創刊。2003年4月、月刊俳句同人誌「里」創刊。 また、2002年より2011年まで、俳句朗読の会「朗読火山俳」を主導(全10回)。 2015年3月、兵庫県尼崎市へ転居。2019年4月、「里」同年1月号(通巻第190号)を出し、以後、雑誌は休刊状態となる。「里」は2021年9月復刊。 なお、存命中ではあるが、京都市洛西区の勝持寺(花の寺)門外の花の寺霊園に墓石を建立している。
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