からい‐せんりゅう〔からゐセンリウ〕【柄井川柳】
柄井川柳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 02:35 UTC 版)
からい せんりゅう 柄井 川柳 | |
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国書刊行会『誹風柳樽全集』(1924)より柄井川柳 | |
生誕 | 柄井 勇之助 1718年 |
死没 | 1790年10月30日(数え73歳没) |
別名 | 八右衛門 |
職業 | 前句付けの点者・名主 |
柄井 川柳(からい せんりゅう、享保3年(1718年) - 寛政2年9月23日(1790年10月30日)[1])は、江戸時代中期の前句付けの点者。名は正通。幼名勇之助。通称は八右衛門[1]。
概要
柄井家は代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主の家系で、川柳は宝暦5年(1755年)に家を継いで名主となった[1]。はじめは、談林派俳諧の点者であったといわれるが、宝暦7年(1757年)以前の俳歴は定かではない[1]。宝暦7年8月25日(1757年10月7日)前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行している[1]。これ以降、月3回5のつく日に句合を興行している[1]。宝暦12年10月15日(1762年11月30日)の句合には総句1万句を超し、その流行ぶりがうかがえる[1]。明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された『誹風柳多留』で川柳万句合の人気が高まり、他の点者を圧倒して江戸第一の点者となる[2]。本書は史上初めての前句を全て省いた前句付集であった[1]。その結果、一句で意味が分かる一句立ちの句が「川柳」と呼ばれるようになった[要出典]。寛政2年(1790年)9月23日、死去[1]。辞世の句は「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳」であったと伝えられている[要出典]。
2世川柳と3世川柳は初世川柳の息子で[1]、4世以降は社中から後継者が選ばれ、川柳号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれている[3]。
初代川柳の出題は前句付の14字題と冠付のみであり[1]、総句高に対する番勝句の比率は低かった[1]。「あたらしい趣向むすべば手柄多し」(『柳多留』十六編)と新しい趣向を好み[1]、選句眼にも優れていたため[1]、上級武士も含め江戸における前句付作者に好まれた。
「川柳発祥の地」の碑
柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地に「川柳発祥の地」の碑がある。平成19年(2007年)川柳発祥250年を記念して、東京都台東区蔵前4丁目37(三筋二丁目交差点の南東角)に建立された[4]。刻まれた碑文は、以下の通り。
宝暦7年(1757年)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝寺門前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、遂には文芸の名をもって呼ばれ、今日に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって後学相諮り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めんと祈念するものなり。平成19年(2007年)8月25日、川柳250年実行委員会
脚注
関連文献
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- 鈴木勝忠 『柄井川柳 無作の指導者』〈日本の作家〉新典社、1982年。ISBN 4787970313。
- 『初代川柳選句集』千葉治校訂 岩波文庫、1960
- 芳忠淳著 尾藤一泉編『柳のしおり 九世柄井川柳・前島和橋をたずねて』玄武堂出版 2005
関連項目
柄井川柳と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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