俳誌『シブキ』
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1905年(明治38年)5月25日、創刊号が発行。編集兼発行人:西村兵太郎(号笑波)発行所:喜多郡長浜町長浜甲六三六番地しぶき会出版部印刷所:西宇和郡八幡浜町四四河野活版所定価:一部七銭 『シブキ』の存在は、後世しばらくの間確認されていなかった。この俳誌が出版されていることは、愛媛大学の和田茂樹名誉教授が指摘していたが、教授が終戦直後古本屋で手に入れた一冊(第二巻 第五号)のみしか見つかっていなかったためである。ところが、1978年(昭和53年)5月、長浜高等学校の重松省三教諭が松山市垣生の村上霽月邸にて12冊を発見した。これにより、現存する『シブキ』は、以下の12種である。 明治三十八年六月発行 第一巻 第二号 明治三十八年七月発行 第一巻 第三号 明治三十九年二月発行 第一巻 第八号 明治三十九年三月発行 第一巻 第九号 明治三十九年五月発行 第一巻 第十号 明治三十九年六月発行 第一巻 第十一号 明治三十九年七月発行 第一巻 第十二号 明治三十九年九月発行 第二巻 第一号 明治三十九年十月発行 第二巻 第二号 明治三十九年十一月発行 第二巻 第三号 明治四十年 一月発行 第二巻 第四号 明治四十年 二月発行 第二巻 第五号(重複) 1894年(明治27年)、松山に発足した松風会が俳句会を続けており、正岡子規がこれを指導した。そして新派俳句、日本派俳句の『ホトトギス』が明治30年創刊され、翌年東京へ移った。子規の死後も地方俳壇、なかでも松山は子規の残した松風会を中心に、村上霽月、野間叟柳、仙波花叟、森田雷死久などが俳句に情熱を注いで盛んに句会が催され、盛り上がりをみせていた。ところが、その作品発表の場としての俳誌がなかった。句会は各地で催されるが、印刷して公にするものが、地方には無かったのである。『シブキ』の発刊は、その穴を埋めるものとなった。 森西幽軒は「近々出版せらる、と聞きしより、寤寐猶忘る能はざりし雑誌しぶきは、今や親しく我梧上に相見ゆる事となれり。勿論初刊の事とて僅々四頁に過ぎざる一小冊子なれば未だ其主張綱領の那辺に存するやは得て聞くべからずといへども文学趣味の擯斥追日酷ならんとするの秋、雄々しく呱々の声を、若かも愛する我西予の一角に挙げしは、已に業に多とする所なり、何んぞ歓迎せずして可ならんや」と記している。 第一巻第九号には石川蘆月が内藤鳴雪翁を東京の自宅に訪ねて、「翁曰く地方で雑誌発刊はなかなか容易な事ではない」「ホトトギスのむかしは松山であるが、売数三百部に足らず為に廃刊とまでなりかかったを虚子らが協議の上、子規子に頼み、東京に移すことになったが、すると今迄三百部売れなかった雑誌が一躍三千部の売数になって、今年などの初刷は五千部以上の売高だ。田舎で発刊するの困難はこれで分る。君等もしっかりやり給へ」などの記事がある。 投句者及び撰者の中で注目すべき人物には、次のような人がいる。 内藤鳴雪、島田五工、村上霽月、野間叟柳、仙波花叟、森田雷死久、峰青嵐、越智村雨、宮脇榎村、山田案史、末光蛙人、木原魚鱗、などである。
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