佐々による八丈小島初回調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「佐々による八丈小島初回調査」の解説
八丈小島のバクを調査するため、佐々は同僚の加納六郎(1920年 - 2000年)を誘い1948年(昭和23年)7月、東京竹芝桟橋から5日に1便あった八丈島行き貨客船の藤丸(初代)に乗船し、ほぼ1日をかけて八丈島に到着するが、八丈小島への定期船はひと月に2便しかなく、次回の出港は5日後だと分かり、八丈島の民宿に滞在することになった。 八丈島の人々は東京大学の学者が2人も来たことを不思議に思い、佐々らに来島目的を尋ねると「八丈小島のバク」の調査のためだと分かり仰天する。八丈島の人々は八丈小島を単に「小島」と呼んでおり、「バクは昔からある恐ろしい病気で高熱を出したり足が醜く太くなる」、「バクが怖いからみんな小島へは近づかない。月に二度の連絡船で役場の職員とか郵便局の人が行くだけだ」、「トコブシやテングサを採る海女も、あの島の近くでは仕事もしないし上陸もしない」、「小島に生まれたものだけが罹る遺伝病だ」など、八丈島の島民はバクの恐ろしさを佐々に語った。 これらのバクに対する当時の人々の認識は医学的根拠のないものであり、バク、すなわちリンパ系フィラリア症は遺伝病でもなければ、人から人へ直接感染する病気でもない。しかし昭和20年代前半の当時、フィラリアという病気の原因は一般的には認識されておらず、医療関係者の間でも八丈小島のバクは日本国内の他のフィラリア流行地と同様にバンクロフト種のフィラリアと考えられていた。また、専門家による調査は長期間途絶えており、佐々は小島のバクについて八丈島の人々からの話を聞き及ぶにつれ、何としても小島へ渡りその正体を確認しなければならないと強く感じ始めていた。 5日後の朝、八丈小島への船は予定通り出航することになった。八丈島の八重根港で乗船待ちする佐々のもとへ、民宿のおかみが今届いたばかりだという電報を持って駆け付けた。電報には「アメリカイキキマル スグモドレ」と書かれていた。今戻ったら八丈小島へ渡るチャンスは何時になるか分からず佐々は迷った。八丈島から本土へ戻る定期船はこの日の午後に出航する。当時八丈島と本土を結ぶ定期船は5日に一便であったが欠航になる可能性もあり、このまま八丈小島へ渡れば本土へ戻れるのは少なくとも2週間後であった。加納は本土へ戻った方が良いのではと佐々に促したが、何よりもバクへの探求心が勝った佐々は電報を破り捨てて海に捨て八丈小島行きの船に乗ったという。 船は2時間半で八丈小島北西側にある鳥打村の船着場に着いた。島の中腹にある村の人々は接岸する船に気が付くと積まれた物資を受け取るため一斉に船着場へ駆け下りてきた。島民らが積荷を降ろす中、佐々と加納は大きな荷物を背負い島の岩場へ上陸すると、5人ほどの島の子供たちに囲まれ、興味深そうに来島目的を尋ねられ「バクを調べに来た」ことを伝えた。すると子供たちは驚き、自ら進んで2人の荷物を持つのを手伝い、鳥打村への道案内役を買って出て、すれ違う村人や畑仕事をする人たちに「このおじさんたちはバクを調べに来た」と大きな声で喧伝してくれたという。佐々と加納は子供たちから「バクのおじさん」と名付けられた。持参した大きな荷物の中身は顕微鏡や試験管、試薬、精製水の入ったビンなどが入っていた。高熱が出て最後は足が太くなるという都の職員の話からフィラリア症に見当を付けていた佐々は、フィラリア症検査に必要な器具一式を用意して来ていた。 八丈小島には電話などの通信機器がなく、事前の協力要請ができなかったため、佐々は鳥打村の村長への挨拶とバク調査の協力をお願いしようと村長の家の場所を尋ねたが、子供も大人も「村長」という言葉の意味を知らず、怪訝な顔をしたという。八丈小島の2か村は前年の1947年(昭和22年)10月に施行された地方自治法によって名主制度から村長制度へ変わったばかりで、島民たちにとって「村長」を意味する言葉は長年使用していた名主(なぬし)のままであった。 夏休み前の平日にもかかわらず小学生くらいの子供たちが昼間から遊んでいた。不思議に思い聞いてみると、「1人しかいない小学生担当の先生がバクになってしまったので今日は休校だ」という。子供たちに案内され名主の家へ向かい鳥打村の集落へ入っていった。どの家も強風を避けるための頑丈な石垣とツバキの木々に囲まれている。その家々の間を歩いていくと、ある家の中が外から見え、そこで佐々はバク症状を起こしている患者を初めて目にした。蒸し暑い7月の日中にもかかわらず、布団に包まり歯をガタガタさせて震えていたのである。これはリンパ系フィラリア症の症状のひとつ、熱発作であり八丈小島ではミツレルと呼ばれる症状であった。 名主の家に到着すると、意外にも名主は40歳という若い男性であった。佐々と加納の来島目的を知ると、島の長老らが名主の家に集まりバクについて語り始め、「わしがバクの親分だ」と自称する高齢の男性は、研究のためならと自らすすんで写真を撮らせてくれたという。この老人の左足は右足の3倍ほど太くなっていた(右、画像1参照)。 長老らの話を要約すると、まず、島の人間はほとんど全員が15歳くらいになるまでに熱発作を起こす。この熱は数日で下がるが再び熱発作を起こし、何年間にわたって何度も繰り返す。やがて熱発作が出なくなると今度は足が徐々に太くなる。太くなった足の皮膚が傷つくと、傷口が赤く腫れて膿んで傷が治りにくくなる。治りにくいことを島民たちは経験的に知っているため、日常生活で傷が付かないよう常に注意しているという。 続いて佐々は長老にバクの原因を訪ねると、「水が悪いからだ」と答えた。集落の高台にバク池という小さな池があり、水道のないこの島ではこの池から水を汲んで利用していたという。それがつい最近、各家庭にコンクリート製の水溜めが作られ、家の屋根などから樋を引いて利用し始め、これでバクがなくなるかもしれないと島民は期待した。だが、やはりバクはなくならないという。 佐々と加納はこのような話を聞きながら、出されたお茶の湯呑の中に煮えたボウフラが数匹入っていることに気が付いた。加納は佐々の耳元で「これはフィラリアでしょうね」とささやき、佐々も黙って頷き、バクの正体はフィラリアに間違いないと確信した。
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