主要な建造物群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:24 UTC 版)
ボルガル遺跡はタタールスタン共和国首都カザンの南方、約200 kmに位置する。最初に登録を勧告した時点のICOMOSの勧告書(ICOMOS 2000)および2012年のロシア当局の推薦書(Russian Federation 2012)を元に、主要な遺跡群を挙げる。ただし、前述のように世界遺産としての価値は物質的側面よりも精神的側面が強調されている。ICOMOSはこの遺跡で真正性を示すのは「立地、精神、感覚」(location, spirit, feeling) のみとしており、その最終的な判断でも、かつての文化伝統を伝えるという観点での「物質的な証拠が残っていない」と位置づけた。また、第38回世界遺産委員会の審議では、委員国であったカザフスタン代表が考古遺跡としても物質的価値を持つと主張したものの、他の委員国の同意を得られずに、議論の末に意見を撤回している。 名称(仮訳)英語名建設時期 カテドラル・モスク(テトラゴン) The Cathedral Mosque (Tetragon) 13世紀半ば(14世紀までに2度改築) カテドラル・モスクはテトラゴン(四角形)の異名どおり、45 x 46 mとほぼ正方形の平面プランで、時代ごとに異なる用途で使われた。この建物は後述する北の霊廟、東の霊廟、ハーンの宮殿などとともにジョチ・ウルス時代の中心地をなした建物だが、当時のまま残るのは床や壁などの一部である。 北の霊廟(修道院の貯蔵庫) The North Mausoleum (Monastery Cellar) 1430年代 北の霊廟はブルガール貴族の霊廟で、カテドラル・モスク北側の正面にある。カテドラル・モスクが改築されたことにあわせ、それと繋がる形で建造された。18世紀には修道院の建物として使われていた。石灰岩製で表面に凝灰岩が使われており、13 x 18 m の方形のプランである。当時のまま残るのは部分的な要素のみである。1960年代末に修復事業が行われ、その後は古い碑文の展示館として使われている。 東の霊廟(聖ニコラオス聖堂) The East Mausoleum (Church of St. Nicholas) 1330年代 東の霊廟もブルガール人貴族の霊廟であり、北の霊廟と似通った様式である。凝灰岩と石灰岩を使用しており、カテドラル・モスクの東の正面にある。18世紀に聖ニコラオスを記憶するロシア正教会の聖堂に転用された。1960年代末、北の霊廟とほぼ同じ時期に修復事業が行われた。 生神女就寝聖堂 The Church of the Dormition 1732年 - 1734年 生神女就寝聖堂は地域的なアレンジが加わったバロック建築の聖堂で、遺跡中心部に位置し、その鐘楼などが遠目にも目立つ。1730年代にカザンの商人の寄付によって、より古い時代の遺跡を建材の一部にして建てられた聖堂で、部材には学術的な評価対象となっているアラビア語やアルメニア語の碑銘が組み込まれている。1965年から2009年までに計4度にわたる修復工事が実施されており、1970年代以降は歴史や考古学を主題とする博物館に転用されている。 白の館 The White Chamber 1340年代 白の館の名前は、石灰岩で建てられたこと(ただし一部はレンガ製)と内装の石灰プラスターによる。33 x 17 m の公衆浴場 (bath house) だった建物で、控えの間などを含めていずれも方形の部屋だが、その大きさを変える形で仕切られている。中央アジアに見られた浴場の様式を土台にしつつもアレンジが加えられており、ヴォルガ・ブルガールの技術水準を伝えるものとなっている。白の館は14世紀ブルガール建築の傑作と目されている。 赤の館 The Red Chamber 15世紀 赤の館も公衆浴場だったL字型の建物で、ヴォルガ川左岸にあった。その遺跡は1938年から1940年に調査されたことがあるものの、石囲いをした上で埋め戻されて土中にある。赤の館には床下暖房の遺構なども残っており、白の館同様、かつてのヴォルガ・ブルガールの技術水準を伝えるものと見なされている。この館の名前は内壁の色にちなんでいる。 東の館(ハーンの宮殿あるいは公衆浴場) The East Chamber (Khan's Palace or Bath-House) 13世紀半ば - 14世紀初頭 東の館は 39 x 19 m の平面プランの建物で、白の館や赤の館に類似した公衆浴場の遺構だが、ボルガル遺跡の公衆浴場の中では最も古く、また規模も最大である。外壁などは石灰岩製で、内壁は小石で飾られているが、この館は19世紀に石材の調達場として持ち去られてしまった部分もある。 黒の館 The Black Chamber 14世紀半ば 黒の館はカテドラル・モスクから400 m に位置する遺構で、中心部分が現存している。石灰岩で建てられ、内装にはプラスターとアラバスターが活用されている。ハーンの宮殿だった建物であり、ボルガル遺跡に残る建造物のうち、国政に関する建物としてはかなり古い部類に属する。ただし、ドームも含め、21世紀に入ってから改装された要素が大きい。 ハーンの霊廟 The Khan's Shrine 14世紀初頭から半ば ハーンの霊廟は14世紀に建てられた廟で、それが位置する辺りはかつて墓所であった。小ミナレット(後述)からは北 15 m に位置する。最初に建てられたのは14世紀初頭だが、14世紀半ばに廟として整えられた。8.5 m 四方の平面プランを備えた石灰岩製で、四角い廟に丸いドームが載る様式は、かつて東方のイスラム諸国ではよく見られた様式であった。1968年から2006年までに3度の修復工事が実施されている。 小ミナレット The Lesser Minaret 14世紀 小ミナレットは14世紀に凝灰岩と石灰岩で建てられた高さ10 mほどのミナレットである。4.8 m 四方の立方体の土台の上に円柱が載る形になっており、内部には45段の階段がある。ボルガル遺跡に残る建造物群の中では、建設当初の姿を伝える唯一の遺構とされている。1968年から1970年に修復工事が実施された。 大ミナレット The Great Minaret 推薦書・勧告書に記載なし 大ミナレットは小ミナレットのモデルになった高さ 24 m の建物で、高さの違いはともかく、その姿は似通っていたと考えられているが、1841年に倒壊した。原因となったのは、トレジャーハンターたちが土台の地面を掘り返したことによる、一種の地盤沈下である。その崩れた資材もすぐに持ち去られてしまい、ほとんど残らなかった。1827年の図画をはじめ、18世紀から19世紀の資料に基づいたとする復元が2000年になされたが、前述したように、この復元がきちんとした根拠を持っているのかどうかという点が、世界遺産登録にあたって最初に問題となった点であった。ロシア当局は推薦書において、この復元がヴェネツィア憲章にも則ったものであり、19世紀に失われた考古景観を復活させたものであると主張したが、受け入れられるには至らなかった。 この遺跡地域では様々な建物が現代に追加されており、2012年には記念宮 (Memorial Sigh) が建てられた。
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