グラーツ市街の歴史地区とは? わかりやすく解説

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グラーツ市街の歴史地区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 13:49 UTC 版)

グラーツの市街-歴史地区とエッゲンベルク城」の記事における「グラーツ市街の歴史地区」の解説

グラーツ市街世界遺産登録面積は 71.970016 ha緩衝地帯 17.127012 ha)である。北はシュロスベルク周辺、南は州立博物館ヨアネウム(英語版)の少し先まで、東は市民公園の手前まで、西はムール川対岸一部地区までとなっている。 その範囲内に450件の建造物群が残るが、グラーツ始まりとなったシュロスベルクの城砦はもはやない。ナポレオン戦争結果成立したシェーンブルンの和約によって、城砦および付随する城壁撤去決まったからである。現在のシュロスベルクは公園として整備されており、市民嘆願によって破壊免れた鐘塔 (Glockenturm) と時計塔 (Uhrturm) だけが残る。時計塔13世紀建てられたものであり、16世紀現在のような外観になった旧市街主要な建造物群挙げておく。 画像名称(上段)と説明下段王宮王宮フリードリヒ3世居城だった建物で、現在は州知事官邸として利用されている。ただし、かつての姿をとどめているのは1499年建設階段塔 (Treppenturm) のみである。この階段塔には「ゴシック建築逸品二重の螺旋階段 (Doppelwendeltreppe) が残る。これはその名の通り、2本の螺旋階段組み合わせたもので、回りながら分岐合流繰り返す構造になっている(左画像参照)。 旧イエズス会神学校大公カール2世働きかけによる対抗宗教改革時期建物で、1572年起工された。この建物は後の様式による改築をされなかったため、ドイツ語圏にルネサンス様式導入され当初様式を今に伝えている。 グラーツ大学オーストリア大公国における知の拠点となった1585年創設大学であり、当初イエズス会管理したが、1773年に同会がいったん解散したのを機に公立大学となったロココ様式から古典主義様式移行する時期装飾調度品が残る。 グラーツ大聖堂グラーツ大聖堂1438年から1464年宮廷聖堂として建てられたもので、元々は後期ゴシック様式建物だったが、対抗宗教改革期にイエズス会士たちによって内装バロック様式変えられた。壁面には1485年の「災厄図」と呼ばれるフレスコ画残っている。それは、1480年グラーツ襲った3つの災厄、すなわち蝗害ペストトルコ軍表現しており、グラーツ現存最古絵画でもある。内部にはイエズス会士たちがマントヴァから持ち込んだ美し聖遺物箱なども残っている。 マウソレウム霊廟大聖堂隣接するマウソレウム皇帝フェルディナント2世の命を受けてイタリア人建築家ポミスが1614年から1633年建てたのである後陣の塔は1636年にピエトロ・ヴァルネグロが完成)。ファサード様式ルネサンス様式からバロック様式への移行期のもので、マニエリスム様式分類される内装を手がけたのはグラーツ出身で「ウィーン・バロック建築巨匠」のヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ (Johann Bernhard Fischer von Ehrlach) である。 ラントハウス(州庁舎)ラントハウス (Landhaus) は1557年から1565年建てられルネサンス様式建物であり、ルネサンス建築傑作評される。そのファサード地味なものだが、中庭美しさ特筆される(左画像参照)。手がけたのはドメニコ・デラッリオ(英語版)である。 武器庫武器博物館武器庫1642年にラントハウスに隣接して建てられた。当時度重なる侵略対応したもので、武器庫としては世界最大だったとも言われる。現在は博物館として当時の姿でそのまま保存されている。実用性だけでなく、そのファサードマニエリスム様式美し装飾施されている。 アッテムス館アッテムス伯爵の館1702年から1716年建てられ城館で、「グラーツで最も完璧なバロック宮殿」と評され、特にその正面装飾多様性と質の高さなどの点から特筆されている。 聖血教区教会聖血教区教会 (Grazer_Stadtpfarrkirche) はバロック様式改築され時期もあったが、19世紀後半に本来のゴシック様式復元され聖堂である。ただし、「おそらくこの町でもっとも優雅なもの」と評されるバロック様式鐘楼は、1780年から1781年建てられた。 聖母救済教会聖母救済教会 (Mariahilferkirche_) は「グラーツにおける最も美し宗教建築一つ」とも評される聖堂で、ピエトロ・デ・ポミスが1607年から1611年に建て、後にポミス自身がこの聖堂葬られた。ただし、現在の聖堂を飾る2本の優雅な塔はバロック様式で、ヨーゼフ・フーバー(英語版)が1742年から1744年に手がけたものである。

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