グラーツ市街の歴史地区
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「グラーツの市街-歴史地区とエッゲンベルク城」の記事における「グラーツ市街の歴史地区」の解説
グラーツ市街の世界遺産登録面積は 71.970016 ha (緩衝地帯 17.127012 ha)である。北はシュロスベルク周辺、南は州立博物館ヨアネウム(英語版)の少し先まで、東は市民公園の手前まで、西はムール川対岸の一部地区までとなっている。 その範囲内に450件の建造物群が残るが、グラーツの始まりとなったシュロスベルクの城砦はもはやない。ナポレオン戦争の結果成立したシェーンブルンの和約によって、城砦および付随する城壁の撤去が決まったからである。現在のシュロスベルクは公園として整備されており、市民の嘆願によって破壊を免れた鐘塔 (Glockenturm) と時計塔 (Uhrturm) だけが残る。時計塔は13世紀に建てられたものであり、16世紀に現在のような外観になった。 旧市街の主要な建造物群を挙げておく。 画像名称(上段)と説明(下段) 王宮王宮はフリードリヒ3世の居城だった建物で、現在は州知事官邸として利用されている。ただし、かつての姿をとどめているのは1499年建設の階段塔 (Treppenturm) のみである。この階段塔には「ゴシック建築の逸品」二重の螺旋階段 (Doppelwendeltreppe) が残る。これはその名の通り、2本の螺旋階段を組み合わせたもので、回りながら分岐と合流を繰り返す構造になっている(左画像参照)。 旧イエズス会神学校大公カール2世の働きかけによる対抗宗教改革の時期の建物で、1572年に起工された。この建物は後の様式による改築をされなかったため、ドイツ語圏にルネサンス様式が導入された当初の様式を今に伝えている。 グラーツ大学オーストリア大公国における知の拠点となった1585年創設の大学であり、当初はイエズス会が管理したが、1773年に同会がいったん解散したのを機に公立の大学となった。ロココ様式から古典主義様式に移行する時期の装飾や調度品が残る。 グラーツ大聖堂グラーツの大聖堂は1438年から1464年に宮廷聖堂として建てられたもので、元々は後期ゴシック様式の建物だったが、対抗宗教改革期にイエズス会士たちによって内装がバロック様式に変えられた。壁面には1485年の「災厄図」と呼ばれるフレスコ画が残っている。それは、1480年にグラーツを襲った3つの災厄、すなわち蝗害、ペスト、トルコ軍を表現しており、グラーツ現存最古の絵画でもある。内部にはイエズス会士たちがマントヴァから持ち込んだ美しい聖遺物箱なども残っている。 マウソレウム(霊廟)大聖堂に隣接するマウソレウムは皇帝フェルディナント2世の命を受けて、イタリア人建築家ポミスが1614年から1633年に建てたものである(後陣の塔は1636年にピエトロ・ヴァルネグロが完成)。ファサードの様式はルネサンス様式からバロック様式への移行期のもので、マニエリスム様式に分類される。内装を手がけたのはグラーツ出身で「ウィーン・バロック建築の巨匠」のヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ (Johann Bernhard Fischer von Ehrlach) である。 ラントハウス(州庁舎)ラントハウス (Landhaus) は1557年から1565年に建てられたルネサンス様式の建物であり、ルネサンス建築の傑作と評される。そのファサードは地味なものだが、中庭の美しさは特筆される(左画像参照)。手がけたのはドメニコ・デラッリオ(英語版)である。 武器庫(武器博物館)武器庫は1642年にラントハウスに隣接して建てられた。当時の度重なる侵略に対応したもので、武器庫としては世界最大だったとも言われる。現在は博物館として当時の姿でそのまま保存されている。実用性だけでなく、そのファサードはマニエリスム様式の美しい装飾が施されている。 アッテムス館アッテムス伯爵の館は1702年から1716年に建てられた城館で、「グラーツで最も完璧なバロック宮殿」と評され、特にその正面の装飾が多様性と質の高さなどの点から特筆されている。 聖血教区教会聖血教区教会 (Grazer_Stadtpfarrkirche) はバロック様式に改築された時期もあったが、19世紀後半に本来のゴシック様式に復元された聖堂である。ただし、「おそらくこの町でもっとも優雅なもの」と評されるバロック様式の鐘楼は、1780年から1781年に建てられた。 聖母救済教会聖母救済教会 (Mariahilferkirche_) は「グラーツにおける最も美しい宗教建築の一つ」とも評される聖堂で、ピエトロ・デ・ポミスが1607年から1611年に建て、後にポミス自身がこの聖堂に葬られた。ただし、現在の聖堂を飾る2本の優雅な塔はバロック様式で、ヨーゼフ・フーバー(英語版)が1742年から1744年に手がけたものである。
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