中国における「天下」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 10:16 UTC 版)
殷の時代には世界としての「天下」はいまだ成立していなかったと考えられている。周の時代に人格的な天の概念が成立すると、それにあわせて「天下」概念の萌芽が見られる。「四方」「万邦」という用語がそれで、「四方」というのは王朝成立の対象領域で、その経営の中心は周王のいる中国であり、その周囲にある異民族のいる土地のことである。「万邦」というのは「民」と「疆土」のことで、「民」は異民族も含めた民、疆土にも異民族の土地が含まれていた。周王は天命によりこの「万邦」を「受け」たとされた。 周の後期(春秋・戦国時代)には、周に封建されていた諸侯が各自の国内・周辺地域に対する政治支配と同化を進めた。また異民族自体が周に封建され、諸侯として大国化する例も見られた。これにより多くの国に共通の文化圏、経済圏が形成され、黄河中流域を中心に「中国」概念も拡大された。『春秋左氏伝』『国語』などには「天下」の用法が確認される。 秦によって、周の支配していた地域が政治的に一元化されて統合されると、現実の政治世界に対応する明確な地理概念として「天下」概念は顕在化した。秦の統一は「天下の統一」であり、中国が天下を統一したということは中国の拡大であった。漢代になると、この「中国=天下」概念が現実の冊封関係に影響されて変容し、周辺諸民族をも含めた現代的意味での世界として「天下」概念が成立した。冊封関係とは、周辺国家の首長を皇帝の臣下として君臣関係を取り結ぶもので、このことにより周辺国家の首長の支配下にある地域は、観念的に皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられた。 南北朝時代には一時中華の内部に複数の皇帝が出現し、天下の政治的分裂という現象が見られたが、唐の時代には中華帝国の皇帝は北方遊牧民族の諸国に対しても「大可汗」として君臨した。タラス河畔の戦いに代表されるように、西方で匹敵するイスラーム帝国と軍事的衝突や交易など交渉があったが、唐朝はかつての秦漢帝国と異なり、その天下概念には匈奴のような対等国は基本的には存在しなかった。 ところが宋の時代には、北方に遼・金の強大な王朝が出現し、宋は圧迫されて北方の帝国と国家同士の擬制的な血縁関係(たとえば宋を兄、遼を弟とするような外交関係)を結んだ。この時代の高麗なども両王朝に両属する形を取り、天下は全く二分されていた。空前絶後の支配領域をもったモンゴル帝国、大元ウルスは再び中国を統一したが、その統治においても、政治上南人(元南宋の民、江南の人士)と漢人(元金の民、華北の人士)は区別されていた。このことは天下の政治的分裂が元の統治下において解消されなかったことを示している。その後明王朝は秦漢帝国の理念に近い形で「中国」を統合するが、その天下はほぼ明王朝の支配領域と同義であり、世界大の広がりを持ったものではなかった。 明末に朱子学に対する批判が起こると、「修身斉家治国平天下」(『大学』)という儒教思想にも変化が起こった。明末清初の王夫之は『大学』のあげる「平天下」はつまるところ国を治めるための思想(すなわち「治国」)を述べるに過ぎず、天下の次元には通用しないものであると述べて、これを尊重する朱子学を批判した。一方明王朝の滅亡により本来的には夷狄であるはずの清王朝が中国を支配するという現実世界での華夷の逆転も「天下」概念に大きく影響した。同時代の顧炎武は明の滅亡は「亡国」であるが「亡天下」ではなく、夷狄の王朝である清が皇帝となっても、中華の文明が維持される限り天下は継続するものであるという考えを述べた。このように「天下」概念に対する検討・批判が加えられたが、このころの「天下」はいまだに中華帝国を中心として捉えられている。 皇帝を中心とする華夷秩序に理念づけられ、朝貢と冊封によって外国との関係を維持していた「天下」概念が変容するのは、1793年イギリスの外交使節マカートニーが派遣されたころからである。マカートニーは主権平等主義に立つヨーロッパ外交に基づいて清と条約を結ぶことを望んだが、清は中国を「地大物博」(土地が広く物産が豊かなこと)と述べ、恩恵を与える朝貢貿易ならまだしも対等貿易は不要であると突き返した。やがて19世紀にはいるとアヘン戦争が起こり、敗北した清朝はイギリスなどと片務的な不平等条約を結んだが、清朝としては清側に片務的であるのは皇帝の恩恵的配慮によるものであるからだという説明がされた。アヘン戦争後も依然として、清朝はヨーロッパ諸国を従来の「天下」概念の中で捉えようとしていたと見ることができる。 アヘン戦争後も清朝の外交姿勢が変化しないことを不満としたイギリスは、フランスとともに第2次アヘン戦争をおこして中英天津条約を締結し、その条文内で中国とイギリスをともに「自主の邦」として並列的に位置づけることを明文化することに成功した。この結果、清朝は従来の華夷秩序に基づいてヨーロッパ諸国と外交することが不可能となり、新たに総理衙門を設けて対ヨーロッパ外交をおこなうこととなった。 ヨーロッパ諸国が主導して形成した近代外交体制は、基本的に主権平等主義に基づき、対等国同士の外交という形式を取っていたため、この外交体制の拡大とともに華夷秩序も徐々に変容あるいは解体されることとなった。現実の外交関係においては、日清戦争での敗戦によって朝鮮が冊封関係から離脱し、そのことにより冊封と朝貢に基づく清朝の外交秩序は終焉を迎えた。「天下」概念もこの影響を受けて、従来の華夷秩序に基づくものから変容した。19世紀後半の清の駐英大使であった薛福成は、中華と夷狄を区別する「華夷隔絶」の「天下」から中華と外国が対等に関係を維持する「中外連属」の「天下」へと転換したと述べている。
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