モンゴルのグルジア侵攻とは? わかりやすく解説

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モンゴルのグルジア侵攻

(モンゴル帝国のグルジア・アルメニア侵攻 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 02:26 UTC 版)

モンゴルのグルジア侵攻、すなわちモンゴルによるグルジア王国の征服英語: Mongol conquests of Kingdom of Georgiaグルジア語: მონღოლთა ბატონობა საქართველოში)は、当時グルジア人自身によって統治されていたグルジア王国アルメニアZakarid Armenia)、そしてコーカサスの諸地域が13世紀を通じてモンゴル人の勢力によって数度にわたって侵略され、大規模な襲撃をうけた歴史事象を意味する。


注釈

  1. ^ ムハンマド2世その人は、1220年末にカスピ海に浮かぶ小島アバスクン島英語版ですでに死去していた。
  2. ^ アッパー・スヴァネティに残る聖堂や住居、塔などの建造物群は、1996年UNESCO世界遺産世界文化遺産)に登録されている。
  3. ^ マルクス主義歴史学者の何人かはグルジアがイルハン朝を撃退し、独立国になったと主張している。しかし、一次資料が存在せず、1327年以後のグルジアでは公開された歴史叙述の記録がない。1336年から1353年にかけて、グルジアはイルハン朝の国内的な抗争に際しては中立を貫いていた。
  4. ^ ジャライル族のシャイフ・ハサンは、チョバン朝の創始者シャイフ・ハサンとは別人。タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグはチョバンの婿で本名をシャイフ・ハサンといい、ジャライル朝の創始者となった。チョバン朝の創始者シャイフ・ハサン・クーチャクはチョバンの孫にあたる。まぎらわしいので前者を大シャイフ・ハサン、後者を小シャイフ・ハサンと呼ぶことがある。

出典

  1. ^ Timothy May-Chormaqan, p.47
  2. ^ Grigor of Akanc-The history of the nation of archers, (tr. R.P.Blake) 303
  3. ^ Kalistriat Salia. History of the Georguan Nation. p. 210 
  4. ^ Thomas T. Allsen-Culture and Conquest in Mongol Eurasia, p.84
  5. ^ George Finlay- The history of Greece from its conquest by the Crusaders to its conquest by the Ottomans, p.384
  6. ^ a b Wakhusht, Sak'art'velos istoria, p.276
  7. ^ Bayarsaikhan Dashdondong - The Mongols and the Armenians (1220-1335), p.43
  8. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.281-282
  9. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.282-283
  10. ^ a b c d 北川誠一「二つの太陽に灼かれて」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.72-77
  11. ^ a b c d e f g ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.283-289
  12. ^ a b c J.M.ロバーツ『ビザンツ帝国とイスラーム文明』(2003)pp.156-159
  13. ^ a b c d e f ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.289-291
  14. ^ ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.291-292
  15. ^ ドーソン『モンゴル帝国史1』(1968)pp.296-298
  16. ^ 井谷 他(2002)pp.130-135
  17. ^ a b 「アッパー・スヴァネティ」『世界遺産の旅』(1999)p.160
  18. ^ 川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年、pp. 136-140.
  19. ^ 本田實信「ガザン・ハンの税制改革」『モンゴル時代史研究』1991年、pp. 287-290.
  20. ^ チョルマグンの幕僚では大小二名の「チャガタイ」がいた事が知られている。このうちアヴァクの投降に関わったのは、グルジア王国側の年代記に「チョルマグン隷下の万戸長の「チャガタイ」」として言及されている人物は、アルラト部族出身のボオルチュ・ノヤンの親族であった『集史』等「大チャガタイ」と呼ばれた人物と同一と考えられる。(北川誠一「チョルマガン・タマチ軍の対外活動」『西南アジア史研究』45、1996年、pp. 29-30. )
  21. ^ 北川誠一「モンゴル帝国のグルジア征服」『オリエント』40-2、1997年、pp. 70-73.
  22. ^ 本田實信「阿母河等処行尚書省」『モンゴル時代史研究』1991年、pp. 110-118.
  23. ^ 北川誠一「モンゴル帝国のグルジア征服」『オリエント』40-2、1997年、pp. 75-78.
  24. ^ wilāyat-i Gurjistān とは、より正確には「グルジスターンの管轄・監督領域」程の普通名詞的な用法であり、「ウィラーヤティ・グルジスターン」という固定的な呼称が存在した訳ではない。イルハン朝後期の資料であるハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニーの『心魂の歓喜(Nuzhat al-Qulūb)』地理篇はイルハン朝の領域を20程に区分するが、『心魂の歓喜』ではそれぞれの地域の呼称は、wilāyatや複数形 wilāyāt 以外にも、mulkやmamlakat、mamālik、diyār、bilād 等の様々な呼称が適宜地名に前接する形で用いられている。グルジア方面を扱った「第6章 アブハーズ及びグルジスターン地方の叙述(Bāb-i Shashum:dar dhikr-i bilād-i Abkhāz wa Gurjistān)」では、「アブハーズ及びグルジスターン地方bilād-i Abkhāz wa Gurjistān)」とあり、「都市」(balad)の複数形である bilād が用いられている。
  25. ^ ドーソン『モンゴル帝国史2』(1968)pp.221-228
  26. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史2』(1968)pp.228-232
  27. ^ The Turco-Mongol Invasions and the Lords of Armenia in the 13-14th Centuries, R. Bedrosian's Ph.D. Dissertation (Columbia University, 1979)
  28. ^ The Caucasian Borderland. (Excerpts from A lecture by WED Allen delivered at the meeting of the Royal Geographical Society, London, on May 4, 1942
  29. ^ W. Barthold, ' Die persische Inschrift an der Mauer der Manucehr-Moschee zu Ani ', trans.and edit. W. Hinz, ZDMG, Bd. 101, 1951, 246;
  30. ^ Spuler, Die Mongolen in Iran, p. 121;
  31. ^ ZDMG, Bd. 101, 1951, 246.
  32. ^ Tea Tsitlanadze, Tea Karchava, Giorgi Kavtaradze - Towards the Clarification of the Identity and Sphere of Activities of the Missionaries who Visited the Orient and Georgia in the 14th century,p.187
  33. ^ Ta'rfkh-i Shaikh Uwais (History of Shaikh Uwais), trans. and ed. J. B. van Loon, The Hague, 1954, 56-58.
  34. ^ PETER JACKSON and Lockhart - THE CAMBRIDGE HISTORY OF IRAN, vol.6, p.97
  35. ^ a b c 北川誠一「コーカサスのパックス・モンゴリカ」『コーカサスを知るための60章』(2006)pp.78-82





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