カリストラテ・サリアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > カリストラテ・サリアの意味・解説 

カリストラテ・サリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/23 04:56 UTC 版)

კალისტრატე სალია
カリストラテ・サリア
生誕 1901年8月26日
死没 1986年7月25日
国籍
研究分野
出身校
主な受賞歴
  • フランス科学アカデミー賞
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

カリストラテ・ゾシメス・ゼ・サリアグルジア語: კალისტრატე ზოსიმეს ძე სალიაグルジア語ラテン翻字: Kalistrate Zosimes dze Salia1901年8月26日1986年7月25日)は、ジョージア歴史学者言語学者カルトヴェリ学グルジア語版を専門とする。カレ・サリアグルジア語: კალისტრატე სალიაグルジア語ラテン翻字: Kale Salia)とも表記。

生涯

1901年にジョージア西部サメグレログルジア語版ツァレンジハグルジア語版村で誕生。地元の村の学校とズグディディで初等教育を受け、1919年にハシュリの高校を卒業。1920年にトビリシ国立大学に入り、社会民主党に入党。1921年、赤軍の侵攻グルジア語版によりジョージアがロシア帝国に占領されると、サリアは投獄された。1922年、メテヒ刑務所に収監されていた政治犯62人とともに国外追放処分となった。サリアはドイツに渡り、ベルリン大学のドイツ語研究所で学んだ。その後1924年にフランスへ渡りパリ大学で歴史学と言語学を専攻、1927年に学士号を取得した。

サリアはパリで妻ニノ・クルツィカシヴィリグルジア語版と出逢った。彼女はワルシャワ大学歴史学部出身の医師であった。ニノの支援により、カリストラテは学術研究に専念することができた。1948年、妻ニノとともに、カルトヴェリ学グルジア語版を専門とする雑誌『ベディ・カルトリザグルジア語版』を創刊。サリアはジョージアの歴史と文学に関する著作物を出版し、外国の百科事典にジョージア関連の記事を寄稿した。1980年に発表した著書『ジョージアの国家の歴史』は、フランス科学アカデミーの賞を受賞した。サリアはジョージアの多数の学者、作家、著名人が執筆した書物を所有した。サリア夫妻はフランス語、英語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、スペイン語、ラテン語、その他の言語で書かれた1,400冊を超える貴重な書籍をジョージア国立文書館グルジア語版に寄贈した。後世、同館内にはサリアの名を付けた図書館が開設され、現在でも多くの人々がこの図書館を利用している。

1984年、雑誌『ベディ・カルトリザ』の最終号が発行。間もなく1986年にパリで死去した。遺言によりサリアの遺骨はジョージアの地に移され、トビリシディデュベ廟グルジア語版に埋葬された。

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  カリストラテ・サリアのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カリストラテ・サリア」の関連用語

1
ニノ・サリア 百科事典
38% |||||

2
6% |||||

3
2% |||||

カリストラテ・サリアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カリストラテ・サリアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカリストラテ・サリア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS