ピョートル1世以降のロシア帝国
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「ロシアの歴史」の記事における「ピョートル1世以降のロシア帝国」の解説
ロシアの動乱時代はコサックの助力を得て終息し、1613年にミハイル・ロマノフによってロマノフ朝が開基した。 17世紀の終わりに、ピョートル大帝が即位すると、彼の強い指導力のもとロシアは旧弊を打破し、近代国家としての装いを急速に調えはじめる。まず、オスマン帝国と争い、アゾフ海に進出、さらにスウェーデン・バルト帝国と大北方戦争を戦い、バルト海沿岸を獲得、そこを「西欧への窓」と位置付け、首都サンクトペテルブルクを建設し、そこを帝都とした。ピョートル大帝以後は、貴族同士の争いが熾烈となり、国政は停滞したが、エカチェリーナ2世の登場で、啓蒙主義に基づいた近代化がはかられた。 一方で農奴の反乱「プガチョフの乱」は徹底的に鎮圧した。またエカチェリーナ2世は領土拡大に熱心で、いわゆる「ポーランド分割」をオーストリア帝国、プロイセン王国とともに行い、ポーランド東部を獲得した。 また南方でも、オスマン帝国との戦争(露土戦争)などにより領土を黒海沿岸やクリミア半島まで拡張しただけではなく、サファヴィー朝との境のコーカサス地方にも侵略、これを併合した。現在まで続くチェチェン紛争の原因となる。 さらにアメリカ独立戦争にも干渉し、加えてアラスカ、千島にも進出し、アダム・ラクスマンと大黒屋光太夫とともに日本の江戸幕府に使者を送り、交易を要求した。日本との北方領土を巡る外交戦争の始まりでもあった。 19世紀に移ると、アレクサンドル1世はフランス革命に際して対仏大同盟に参加する。1812年のナポレオン1世のロシア遠征に際しては、これを撃退し、1814年のウィーン会議後には神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。 次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。国内の不満をそらすために、対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争、エジプト・トルコ戦争に干渉し、「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。しかし、聖地管理権をめぐってオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、「南下政策」は頓挫する(東方問題)。 クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となった。ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。 その一方対外政策で、清朝との間ではアイグン条約を1858年に、北京条約を1860年に締結、極東での南下政策を推進した。さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。しかし、この運動は農民から広い支持を得られなかったことから、ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が暗殺されることになった。 アレクサンドル2世死去後、継承したアレクサンドル3世は無政府主義運動を徹底的に弾圧した。その後、ニコライ2世の治世ではヴィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。さらにシベリア鉄道の敷設も行われた。 外交面では中央アジアを舞台にイギリスとグレート・ゲームを演じ、中央アジア進出が手詰まりに陥ると極東での「南下政策」を展開した。極東方面では清朝の満洲に進出し、遼東半島を足がかりに朝鮮半島への進出を企図したが、ロシアの南下を防止するべくイギリスと日英同盟を締結した日本と衝突する。1904年に日露戦争が勃発した。 当初ロシア帝国は国力において圧倒的に優勢だったが、満州を舞台に行われた陸戦では奉天会戦の敗北で日本軍の奉天進出を許し、海上でも極東に派遣されたバルチック艦隊が日本海海戦で完全壊滅したため、制海権を握ることは出来なかった。日露戦争さなかの1905年の1月22日の「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネストが頻発し(ロシア第1革命)、ロシア帝国の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義(ツァーリズム)」も著しく動揺した。一方、日本側も経済的に戦争継続が困難になったため、両国が手詰まりに陥ったことを反映して翌1905年にはアメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約が締結され、満州の利権獲得を断念し、南樺太を日本に割譲することで戦争は終結した。日露戦争の敗北により、事実上、極東での「南下政策」は失敗した。 日露戦争後、極東を諦めてバルカン半島に外交政策を転じたロシアはイギリス、フランスと三国協商を結び、ドイツ帝国と対立する。汎スラヴ主義を掲げ、オーストリア・ハンガリー帝国と対峙するセルビアを支援することで、バルカン半島における影響力を維持しようとした。
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