トラブル史
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「8時だョ!全員集合の歴史」の記事における「トラブル史」の解説
この番組については、本質的には舞台コントとして入念に練り込まれた笑いこそが最大の売りであり、アドリブや出演者に起きるアクシデントの演出で笑いを取る事は一貫して是としなかった。 ただし、16年間という長期間に渡り生放送・公開放送で続けられた番組であったため、コントやコント以外でも、放送中のトラブル・アクシデントや出演者を巡る出来事は数多く発生している。本項ではこれらについて記述する。 1970年7月2日、加藤が交通事故を起こし、約1か月の謹慎。この間、仲本が加藤のいじられ役を代行。 1974年、小田原市民会館でオープニングが終わってCMに入った時に回り舞台を動かし反転させて裏に控えていたセットを表へ出そうとしたが、スイッチを入れても全く動かず、何とか場をつなげようとしてちょうどトイレへ行こうとしていたピーターをいかりやが呼び止めて予定されていた歌を歌うよう要請。オープニング後のCM明けに急遽歌のコーナーという異例の放送となったが、ピーターの歌の間に回り舞台を総点検、改めてスイッチを入れたら舞台が動いてコントのコーナーに入ることが出来た。 1977年5月14日、探検隊コント(サブタイトルは「ドリフの地上最悪の山」)の途中、ピストルの火花が小道具の蛇に着火し炎上。すぐに消し止められ負傷者も無かったが、場内(取手市民会館)の非常ベルが鳴り、その時点でコントは中止となった。蛇のスプレー塗装を本番直前にしたため、ピストルの火花がまだ乾燥しきっていない塗料に引火したのが原因であった。 1980年9月、いかりやが声帯ポリープの手術を受けた都合で、13日と20日の放送に声を出さずに出演した。13日放送のオープニングで、仲本が鉄琴で「ピンポンパンポーン」と鳴らした後、「長らく世間に迷惑をかけたいかりやが声を出せない」旨を知らせた。「8時だョ!」のかけ声は加藤、「おいっすー!」「行ってみよう!」のかけ声と前半コントのツッコミ役は志村、少年少女合唱隊の司会は仲本、後半の進行役は高木と他メンバーが持ち回りでいかりや役を代行した。 1981年2月18日、仲本と志村が番組プロデューサーの居作と共に競馬のノミ行為で任意の事情聴取を受け書類送検されたことが発覚、約1か月に渡り謹慎。仲本と居作は略式起訴され罰金刑となる(志村は賭け金が小額だったこともあり起訴猶予処分)。この期間中、いかりや、加藤、高木の3人で番組やコントを進行した。仲本と志村の代わりに椅子などを使う形でコントを進行し、場がしらけると加藤が松村和子の『帰ってこいよ』を歌っていた。また、この間に新しいギャグ、加藤の「5秒前、4、3、2、1、デーン」と高木の「ピップエレキバン」が生まれた。この間、視聴率が平常に比べ10%アップしていた(不祥事発覚後初放送の同年2月21日の放送時は47.6%であった)。また仲本・志村復帰後、学校コントで「英語で“馬”は?」と聞かれた仲本が「もうやってません」と答え、志村が突っ込む自虐ネタもあった。 3月14日、ゲストが坂道の上にある一軒家に駆け上がるコント「陽の当たる急な坂道」で、細川たかしがアキレス腱を切断し、長期入院を余儀なくされた。後に復帰したものの、仕事量が激減した細川は後日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演した際、萩本欽一に「仕事ないの?じゃあ毎回来る?」といわれ、同番組にレギュラー出演することとなった。このことがきっかけで、当時のシングル曲「北酒場」を『欽どこ』で毎回歌うこととなり、それにより大ヒットとなった。「北酒場」および「欽ちゃんのどこまでやるの!?」も参照 6月27日、前半コントの「脱獄コント」の際、大根と志村そっくりの人形をギロチンで切るギャグを放送したが「残酷すぎる」との理由で、TBSや系列各局に抗議電話が殺到。翌日の新聞の社会面で報道された。 1983年6月4日、前半コントの「民宿コント」で、爺さん役の加藤が建てつけの悪い押し入れの襖を勢いよく閉めるとその衝撃で隣のトイレのセットまでもが傾き、中に入っている婆さん役の志村がその弾みで壁を突き破って外へ飛び出すという流れで、本来なら傾いた状態で止まるはずのトイレのセットが完全に倒れ、うつぶせに倒れた志村を直撃する形になった。志村はほぼ無傷で済んでおり、やがて加藤と高木が持ち上げたセットの下から自力で抜け出し、その後もコントは続行された。 1984年6月16日、生放送の開始時刻直前(2、3秒前)に、その日の会場ホール(入間市市民会館)が突然停電になり会場内の照明が消えるという事態が起きた。停電中は真っ暗な中で懐中電灯を点灯させゲストを紹介した(実際に停電になったのは会場内の照明のみで、テレビカメラやマイクロフォンなどの放送機材には、会場外の中継用電源車から電力が供給されていたため、完全に放送不能となる事態だけは回避された)。番組冒頭で真っ暗になった会場を映し「8時だョ!おっ!」の掛け声の後、通常通りタイトルロゴを出した。いったん電気は復旧して、いかりやの「8時だョ!ちょっと遅れたかな?」と掛け声を行った後にまた停電となった。その時にバックバンドの一部のファンファーレが鳴り、他メンバーはようやくステージに上ることができた。その後、ID画像や番組開始の遅れによるテロップを出し、その間やむを得ずスポットライトでステージを照らし、いかりやが「8時9分半だョ!」の掛け声を掛けた後、少し早いペースで1番のみ演奏された。エンディング時では会場の電源の不備によるお詫びとテロップを出した。視聴率は通常より10%アップした(26.2%)。この日の『オレたちひょうきん族』はプロ野球中継のために休止しており、普段はひょうきん族に流れていた視聴者層がたまたまチャンネルを合わせていた視聴者も多かった。この停電が安全・セキュリティに危惧を及ぼし、後に同番組の放送がTBSのGスタジオのメインになったことについて影響したといわれる。 9月14日、高木がリハーサル中にアキレス腱を断裂し、その後約4か月間活動休止(負傷翌日の放送には番組冒頭でラジカセから再生された録音メッセージが放送された)。 スタッフの細かいミスもよくあり、公開放送ゆえにそれもそのまま放送されていた。1972年6月24日、広島県の東洋工業(現・マツダ)体育館からの公開生放送のエンディングが、タイムキーパーが進行表を読み違えたために混乱した。 1984年10月27日の放送で、前半コント終了の音楽が鳴っているにもかかわらず、なかなかセットが撤収されず、やっとセットが撤収しはじめた時にバンドのゲイスターズのメンバーが走っている姿が放映された(スタッフのミスで、終了数分前には座っていなくてはいけないが、連絡ミスでメンバーの9割が遅刻。しかし、演奏開始には間に合う)。 また、セット転換時のミスや仕掛けの不具合については、高木、仲本、加藤、志村がアドリブでギャグにして処理することも見られたが、生放送のため時間を切迫させる要因になった。時間の切迫については、植木等がゲスト出演した回でも、後半コントに出演した植木が予定になかったアドリブを挟んだために、いかりやが「だからそういうことするなって言ってるでしょ!」と植木をたしなめたことがあったなど、非常にシビアであった。 このほか、過激な内容のコントにPTAが問題視して番組に抗議する事態が度々発生した。上記の火事騒動、停電騒動、仲本と志村の謹慎は三大事件と呼ばれている。またDVD『TBSテレビ放送50周年記念盤 8時だョ!全員集合 2005』の特典映像として火事騒動・停電騒動・1983年6月の「民宿コント」でのハプニング時のハイライト映像が収録されている。
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