ツール・ド・フランス総合優勝
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「ヴィンチェンツォ・ニバリ」の記事における「ツール・ド・フランス総合優勝」の解説
2014年、ツール・ド・フランス初制覇を懸け出場。しかし、開幕前はクリス・フルームとアルベルト・コンタドールの2強に注目が集まっており、ニバリは「第3の男」の位置付けだった。もっとも、ニバリは今シーズンツールに向けてフランス国内で開催されるステージレースを走ってきたが、特にこれといった成績を残すことができなかったことも影響していた。が、9つの山岳を超える丘陵コースである第2ステージの最終盤にアタック。後続集団は牽制ムードになり、ニバリは逃げ切り勝利を飾りマイヨ・ジョーヌも獲得。ところが石畳を走る第5ステージ途中にフルームが両手を骨折しリタイア。もう1人のライバル、コンタドールは第8セクターのエンヌヴラン・ポンティボーで遅れだす。MTB出身のニバリが快調に石畳を進む一方、コンタドールは更に遅れていき、最終的にニバリはステージ3位に入りリードを拡大したものの、コンタドールはステージ優勝したラース・ボームから2分54秒も遅れてフィニッシュ。総合でもトップ10圏外となった。ヴォージュ山脈を前にした第9ステージの終了後にニバリはトニー・ガロパンにマイヨを譲ったものの、続く第10ステージでステージ2位に15秒差をつけ優勝しマイヨを奪取する。コンタドールは1級山岳プティ・バロンの下りで落車し右脛骨を骨折。リタイアとなった。その後の第13ステージではフルームに代わりスカイのエースとなっていた暫定総合2位のリッチー・ポートが大失速。ポートの失速を傍目にニバリは残り7km地点でアタック。すぐに先頭を走るラファウ・マイカとレオポルド・ケーニッヒに合流、残り3kmでアタックしたわけでもなくニバリが抜け出すとそのまま押し切って3勝目をあげる。総合でも2位に浮上したアレハンドロ・バルベルデに対し3分37秒差をつけた。第18ステージでは残り10kmでアタックした昨年のブエルタ覇者のクリス・ホーナーに唯一合流。昨年そのブエルタでホーナーに惜敗したニバリはペースが上がらないとしてすぐさまホーナーを千切り、先頭を行くミケル・ニエベも残り8kmで追い抜き独走。今大会4勝目をあげ、総合2位ティボー・ピノに7分10秒もの差をつけ勝負の第20ステージへ。個人TTを得意とするニバリはこの日もライバルたちを一蹴。トップから1分58秒遅れのステージ4位に入り、結果的に逆転で総合2位を獲得したジャン=クリストフ・ペローに対し7分37秒もの圧倒的な差をつけイタリア人として1998年のマルコ・パンターニ以来16年振りの個人総合優勝を成し遂げ、同時に史上6人目のグランツール完全制覇達成者となった。
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ツール・ド・フランス総合優勝
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「カルロス・サストレ」の記事における「ツール・ド・フランス総合優勝」の解説
2008年のツール・ド・フランスでは、アルプス越えステージで劇走。第15ステージでは総合上位選手が多数いた中で常に集団を引っ張り、ラルプ・デュエズがゴールの第17ステージでは、残り約13kmほどの地点から単独でアタックをかけてそのままトップでゴール。待望のマイヨ・ジョーヌに袖を通した。20ステージの個人タイムトライアルではライバルのカデル・エヴァンスに逆転されるのではないかとの見方も有力であったが、同僚のタイムトライアル世界王者ファビアン・カンチェラーラによる情報面の全面バックアップを受けたサストレは予想外の好タイムを出してマイヨ・ジョーヌを維持。最終ステージを無事に走り終え、個人総合優勝を成し遂げた。この時はおしゃぶりを持っていなかったが、バイクのフレームに小さくおしゃぶりのマークがペイントされていた。苦手だったタイムトライアルを克服している事から、脚質はクライマーからオールラウンダーに変化していると思われる。 その後、北京オリンピック・個人ロードレース(49位)の参加を経て、初制覇をかけてブエルタ・ア・エスパーニャに出場。同郷であるアスタナ・チームのアルベルト・コンタドールとの「頂上対決」が話題となったが、総合優勝を狙える力を持つリーヴァイ・ライプハイマー、アンドレアス・クレーデンがアシストにつく形となったコンタドールに対し、シュレク兄弟らが不在でアシスト陣が手薄となったサストレにはレース前からチーム力に差が見られた。山岳コースで単独アタックするシーンも幾度か見られ苦戦を強いられたが、健闘し総合3位となった。 2009年、新生サーヴェロ・テストチーム(Cervélo Test Team)の立ち上げに参加する。。 ジロ・デ・イタリアでは、区間2勝(第16、19ST)を挙げ、総合4位。 連覇をかけて挑んだツール・ド・フランスでは、得意の山岳ステージで振るわず総合17位に終わった。 2010年 ジロ・デ・イタリア総合8位 ツール・ド・フランス総合20位 ブエルタ・ア・エスパーニャ総合8位。 2006年に続く2度目の年間3大グランツールの全完走を果たした。 2011年は所属チームの解散もあり、フットオン・セルヴェットの後継チームであるジェオックス - TMCへ移籍。 ツアー・オブ・チンハイレイク 総合3位 ブエルタ・ア・エスパーニャにおいて、自らは総合20位に入り、またチームがフアン・ホセ・コーボが総合優勝を果たしたことなどが要因となって総合時間賞を獲得したことが契機となり、ブエルタ閉幕の4日後にあたる9月15日、現役引退を表明した。
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ツール・ド・フランス総合優勝
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「ブラッドリー・ウィギンス」の記事における「ツール・ド・フランス総合優勝」の解説
2012年 パリ〜ニースでは、リーウ・ウェストラと第5ステージ以降接戦を演じ、最後の個人タイムトライアルでウェストラを2秒差下し(区間優勝)、総合8秒差で総合優勝。 ツール・ド・ロマンディでは、ルイス・レオン・サンチェスとの競り合いとなったが、最終第5ステージの個人タイムトライアルでサンチェスから総合首位の座を奪い取って総合優勝。 クリテリウム・デュ・ドフィネでは、得意の個人タイムトライアルでの快走に加え、山岳ステージでも大崩れしない走りを見せ、2年連続の総合優勝を決めた。 6回目の出場となったツール・ド・フランスでは、プロローグの個人タイムトライアルで、ファビアン・カンチェラーラに次いで2位に入り、その後、第6ステージまでカンチェラーラに次ぐ総合2位を堅持。そして中級山岳とはいえ、ゴール地点が1級カテゴリである第7ステージにおいて、チームメイトのクリス・フルームの強力な登坂力を利して 区間3位に入り、同ステージ終了後、マイヨ・ジョーヌをカンチェラーラから奪取した。そして、第9ステージの個人タイムトライアルで、ツール・ド・フランスとしては自身初勝利となる区間優勝 を果たし、この時点で総合2位に浮上したカデル・エヴァンスに1分53秒の差をつけ、山岳ステージが始まる中・後半戦を迎えることになった。そして、第10ステージからはじまったアルプス山脈超えステージで、エヴァンスが不調 や不運なトラブル に見舞われたこともあって総合首位の座を不動のものとし、続くピレネー山脈超えステージでも、フルームの登坂力を利しながら、総合3位に浮上したヴィンチェンツォ・ニバリを第17ステージで完封。そして第19ステージの個人タイムトライアルも完勝 し、イギリス国籍選手として初めてツール・ド・フランスで総合優勝を果たした。加えて、オリンピックのトラックレースの金メダリストがツールを制するのも、これが初めて である。
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