ツール・ド・フランスの創設へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/21 03:27 UTC 版)
「アンリ・デグランジュ」の記事における「ツール・ド・フランスの創設へ」の解説
1894年に起こった、ドレフュス事件をきっかけに、親ドレフュス派が発行していたスポーツ新聞、『ル・ヴェロ』に対抗するため、反ドレフュス派が1900年にスポーツ紙『ロト』を発行することになり、その編集長にデグランジュが任命された。当時、ル・ヴェロはスポーツ新聞としてはフランス最大の発行部数を誇っており、その地位を奪うべく考案されたのがツール・ド・フランスであった。 ツール・ド・フランスの原型となるもの考案したのは、1902年11月、当時26歳で、ロトの自転車競技編集部のチーフであったジェオ・ルフェーヴル。フランス一周を6日間で走破するレースをぶちまけた。この提案をルフェーヴルとともに上層部に提言したところ、経理担当役員のヴィクトル・ゴデが「これはおもしろい!」と乗り気になった。1903年1月19日、ロトは同年7月に第1回を開催することを発表した。 しかし当初、デグランジュはツール・ド・フランスを懐疑的に見ており、記念すべき1903年7月1日のスタート日にも顔を見せていない。第1回のレース責任者は、ルフェーヴルが務めている。というのは、デグランジュは当初、ピレネー山脈の山岳コースを導入すべきと主張していたが、参加予定の選手たちから、「熊が出たらどうするんだ!」と言われ、却下されたことに起因する。その2年後、デグランジュの提案を受け入れる形で、山岳コースが設けられた(ちなみに、ピレネー山脈がコースに取り入れられたのは1910年からである)。
※この「ツール・ド・フランスの創設へ」の解説は、「アンリ・デグランジュ」の解説の一部です。
「ツール・ド・フランスの創設へ」を含む「アンリ・デグランジュ」の記事については、「アンリ・デグランジュ」の概要を参照ください。
- ツール・ド・フランスの創設へのページへのリンク