ツール・ド・フランス史上に残る山岳王
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「リシャール・ヴィランク」の記事における「ツール・ド・フランス史上に残る山岳王」の解説
1992年にツール・ド・フランス初出場。第2ステージでマイヨ・ジョーヌを奪取。1993年にR.M.Oからフェスティナへ移籍。1994年のツールでは、アルプス越え区間の第15ステージを勝利。山岳賞部門において、マルコ・パンターニに149ポイントの差をつけ、初の受賞。総合5位に食い込む。1995年のツールでは、クラウディオ・キアプッチ以下を圧倒して2度目の山岳賞。総合9位となった。 しかし、ここまでのツールといえば、ミゲル・インドゥラインの連覇時代。山岳コースでは率先してアタックをかけるヴィランクだったが、反面、インドゥラインのペースメーカー的な存在に利用されていた側面もあった。 しかし1996年のツールでは、インドゥラインに往時の走りが見られなかったことが起因となり、総合優勝争いが大混戦となった。この年は第7ステージから第18ステージまで、延々と山岳コースが設けられたことも手伝い、ヴィランクにとってみれば、山岳賞はもちろん、総合優勝も期待されたが、デンマークのビャルヌ・リース、ドイツのヤン・ウルリッヒという、ドイツテレコム勢にうまくレースをコントロールされ、終盤に総合3位に浮上するのが精一杯だった。しかし、山岳賞部門では、リースらを抑えて、3年連続の受賞を果たした。 1997年のツールでは、若きドイツテレコムのエースであるウルリッヒの才能溢れる走りに圧倒され、逆に得意の山岳コースで次第にウルリッヒに引き離されていった。それでも、総合2位を確保し、4年連続の山岳賞を手中にした。
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