ツール・ド・フランスの軌跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 09:42 UTC 版)
「ベルナール・イノー」の記事における「ツール・ド・フランスの軌跡」の解説
1978年 初出場でステージ3勝をあげ総合優勝にも輝く 1979年 ステージ7勝、更にスプリント賞であるマイヨ・ヴェールも獲得し正に完勝であった。 1980年 ジロ・デ・イタリアを総合優勝しツールでも総合優勝が期待されステージ3勝をあげるも、右膝を痛め途中棄権する。この時、さすがのイノーも記者会見の重圧に耐えかね、夜闇にまぎれて宿舎を後にしている。 1981年 ステージ5勝をあげ総合優勝に輝く 1982年 ステージ4勝(シャンゼリゼ含む)をあげ4度目の総合優勝に輝く 1984年 ベルナール・タピが立ち上げた新チーム「ラ・ヴィ・クレール」に移籍し心機一転、総合優勝を目指すも前チームメイトでありイノーのアシストを務めていたローラン・フィニョン(ちなみに1983年は不参加であったイノーに代わり出場し見事総合優勝に輝いている)が立ちはだかりステージ1勝に留まった。総合は2位だったがフィニョンにはなんと10分半もの差をつけられていた。 1985年 この年、イノーは落車により鼻を痛め、呼吸困難になってしまうが、チームメートのグレッグ・レモンに「来年はレモンに優勝を譲る」と頼み込みレモンのアシストを受けステージ2勝をあげ総合優勝に輝く(この年を最後に2013年現在までフランス人の個人総合優勝者が出ていない) 。 1986年 前年のレモンのアシストに報いる為レモンのアシストに徹するかと思われたが、約束を反故にし第12ステージで単独で飛び出しリーダージャージであるマイヨ・ジョーヌを獲得する。しかし翌日のピレネーステージでレモンもアタックをかけ、前日の差を大幅に取り戻す。ここから二人の確執が噂され、協力するはずのチームメートで総合優勝を争うこととなる。 イノーに対しては前年の約束を反故にした批判と前人未到のツール6度目の総合優勝を見たいという期待があったが、結局世論はイノーに対して好意的に傾いていく。しかしすでに時代はグレッグ・レモンの時代になっており、後のステージでアタックをかけたレモンについていく事が出来ず、自転車の上で涙を流す。有名なラルプ・デュエズのステージでは二人は肩を組み共にゴールラインを切った。 これで二人は和解したのか、それとも見せかけだったのか、真相は二人にしかわからないが、結局イノーはステージ3勝と山岳賞を獲得し総合2位となり、レモンが総合優勝の栄冠に輝く。かねてからの宣言通りイノーはこの年限りで現役を退き、ここからグレック・レモンが一時代を築くこととなるのであった。
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