シュルレアリスム運動
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1926年(大正15年)慶應義塾大学文学部教授に就任、英文学史などを担当。『三田文学』を中心に「PARADIS PERDU」を仏文で発表するなど批評活動を開始し、講義の後には佐藤朔、上田敏雄、上田保、三浦孝之助などの学生がしばしば自宅に押しかけて深夜まで芸術論を交わすようになる。1927年(昭和2年)に瀧口修造を介して雑誌『山繭』の同人となり、石丸重治、堀辰雄を知り、仏詩「メーラ」を寄稿。12月に日本初のシュルレアリスム詩誌『馥郁タル火夫ヨ』を刊行。翌年、春山行夫と共に季刊誌『誌と詩論』を創刊、更に『超現実主義詩論』を刊行した。 1930年(昭和5年)に『シュルレアリスム文學論』、英文詩集『Poems Barbarous』を出して同時期にジョン・コリアが「His Monkey Wife」を出版。 妻と離婚後、1932年(昭和7年)に桑山冴子と結婚。1933年(昭和8年)百田宗治編の『尺牘』創刊号に「ギリシア的抒情詩」四篇を発表。これが注目を浴び、詩集『Ambarvalia(アムバルワリア)』で詩壇の萩原朔太郎、室生犀星の称賛を受け、詩誌『詩法』の創刊に参画し、詩論を発表する。1935年(昭和10年)に『曲水』を脱退した西村月杖らが新興俳句運動に参加し、俳句と詩の統合を指標とした俳誌『句帖』が主宰されると、俳句会に室生犀星、萩原朔太郎、百田宗治の4名で月交代で選者をつとめる。 しかし、1937年(昭和12年)日中戦争が勃発したので詩作の発表をやめ、学術研究に没頭した。東洋の古典を読み漁り、『古代文学序説』の執筆に集中。翌年に国家総動員法成立に伴って、シュルレアリスムが弾圧を受け、西脇の影響を受けた詩人たちが所属する「神戸詩人クラブ」に属する詩人14名が検挙される「神戸詩人事件」が起こった。太平洋戦争の勃発後は、蔵書三千冊を千葉県に移動保管させ、1944年から1945年にかけて、家族と共に郷里の小千谷市へ疎開、長岡市が大空襲を受けるのを目撃した。小千谷での疎開中、戦時中の物品欠乏から東山と号して水墨画を描くに至る。
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シュルレアリスム運動
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「ルネ・シャール」の記事における「シュルレアリスム運動」の解説
1929年末にシャールはパリに越し、ブルトン、ルイ・アラゴン、ルネ・クルヴェルらに会ってシュルレアリスムの運動に参加。ブルトン、アラゴンらが1924年に創刊した『シュルレアリスム革命』誌に寄稿した。同誌は1929年に終刊となったが、シャールは『シュルレアリスム第二宣言』が発表された第12号に「主体の信仰告白」と題する詩を掲載した。シュルレアリスムに新たな表現の可能性を見いだそうとするシャールの「宣言」である。シュルレアリストが行った数々の挑発的なパフォーマンスのうちでも、シャールは特にブルトンとともに1930年2月14日、エドガール・キネ大通り(フランス語版)に開店したばかりのバー「マルドロール」の「襲撃」を先導した。シュルレアリストらが崇敬するロートレアモンの『マルドロールの歌』に因んだ店名であり、彼らの意に反してシュルレアリスムを自称したからである。店内で殴り合いになり、ブルトンは打撲傷を受け、シャールは鼠蹊部に切り傷を負った。同じく1930年の7月には『シュルレアリスム革命』の後続誌『革命に奉仕するシュルレアリスム(フランス語版)』が創刊された。これは、唯物史観(マルクス主義、ロシア革命)を支持しながらも、共産党の方針や権威主義を批判したブルトンの「第二宣言」を反映するものである。同誌は1933年5月の第6号で終刊となったが、シャールはこのほとんどに寄稿している。 1930年はさらに3冊の詩集が発表された。『秘密の墓』、『工事中徐行』、そしてシャールの作品のなかで最もシュルレアリスム的とされ、サルバドール・ダリの版画が掲載された『アルティーヌ』である。『秘密の墓』には挿絵・写真が12枚(各ページに1枚ずつ計12ページ)掲載され、うち1枚は代母ルイーズ・ロズの写真を使ったブルトン、エリュアールとの合作コラージュである。『工事中徐行』はブルトン、エリュアールとの合作詩集であり、書名は文字通り工事現場近くの立て看板から採られたものであり、5日にわたって3人で移動しながら「偶然」に任せて書いた即興詩である。一方、詩集『アルティーヌ』に登場する女性「アルティーヌ」は、故郷のソルグ川で溺死したローラ・アバや一時期知り合ったが消え去った女性といった実在の女性に神秘的な体験を重ね合わせた存在として、この後翌1931年発表の「ローラ・アバのマナ」、『正義の行為は消え果てている』所収の「ローラ・アバの亡霊」にも登場し、従来の文学伝統における理性や合理主義を排して、神秘や幻想を描こうとするシャールのシュルレアリスムを象徴している。
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