シュルレアリスム運動からの離反
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「ロベール・デスノス」の記事における「シュルレアリスム運動からの離反」の解説
一方で、上述の共産党入党をめぐってシュルレアリスム運動内に分裂が生じ、他方で、デスノスのジャーナリズム活動や彼の詩の叙情的な傾向がブルトンらに批判されたことから、デスノスは次第にシュルレアリスムから離れて行った。こうした分裂は、1929年にシュルレアリスムの政治的な立場を明確にした第二宣言が発表されたときに決定的なものとなり、デスノスのほか、アルトー、スーポー、レリス、マッソン、ピカビアが脱退した。 1930年にはジョルジュ・バタイユを中心に元シュルレアリスト20人が参加して、ブルトンと彼を中心とするシュルレアリスムを批判する小冊子『死骸(英語版)』が刊行された。20人のうち5人は、これもバタイユとトロカデロ民族学博物館(現人類博物館)の副館長ジョルジュ・アンリ・リヴィエール(フランス語版)によって1929年4月に創刊された考古学、美術、民族誌学の学術雑誌『ドキュマン(フランス語版)』の寄稿者であった。ブルトン批判の『死骸』寄稿者、かつ、『ドキュマン』誌寄稿者であったシュルレアリスム離反者は、デスノス、レリスらである。とはいえ、デスノスは、この頃、民族学者としても活躍し始めていたレリスと違って、『ドキュマン』誌に頻繁に寄稿していたわけではない。しかも、同誌は早くも翌1930年に終刊となった。
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