シュルレアリスム・共産主義
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「バンジャマン・ペレ」の記事における「シュルレアリスム・共産主義」の解説
ペレは帰国後に官報印刷局の校正係として働く傍ら、再びシュルリアリスムの運動に参加した。ブルトンはシュルレアリストの政治的・文学的立場を明確にするために1930年に『シュルレアリスム第二宣言』を発表したが、デスノス、アントナン・アルトーらを除名するなど内部対立が深刻化し、新たにサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、ルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール(フランス語版)らを加えて『シュルレアリスム革命』の後続誌『革命に奉仕するシュルレアリスム(フランス語版)』 を創刊したばかりであった。また、アラゴンは同年にサドゥールとともにハルキウで開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会にシュルレアリストを代表して参加したのを機に、社会主義リアリズムに転向し、ブルトンと決別した。 1932年3月には国際革命作家同盟のフランス支部「革命作家芸術家協会(フランス語版)」が結成され、ペレ、アラゴンのほか、ブルトン、デスノス、エルンスト、バルビュス、ジッド、ロマン・ロラン、ロバート・キャパ、ウジェーヌ・ダビ(フランス語版)、ジャン・ゲーノ、ジャン・ジオノ、アンドレ・マルロー、ポール・ニザンらが参加した。また、アクション・フランセーズなどの右派・極右勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動して起こした1934年2月6日の危機への抗議として結成された反ファシズム知識人監視委員会(委員長ポール・リヴェ(フランス語版)、副委員長アラン、ポール・ランジュヴァン)にも参加している。この活動はファシズム勢力に対抗する人民戦線の結成につながった。ペレはさらに、ナヴィルとレイモン・モリニエ(フランス語版)が率いる共産主義者同盟に加入しようとしたが両者間の分裂もあって拒否され、1935年にフランス社会党 (SFIO) から除名されたトロツキストによって結成され、ナヴィルが党首を務めるインターナショナル労働党 (POI) に入党した。 一方、この頃のシュルレアリストの活動としてメディアで大きく取り上げられたのは、1933年10月に、両親を殺害したかどで無期懲役刑を言い渡された18歳の女性ヴィオレット・ノジエール(フランス語版)のための小冊子を刊行したことである。この小冊子にはペレ、ブルトン、エリュアール、クルヴェル、モーリス・アンリ(フランス語版)らによるテクストのほか、ダリ、エルンスト、アルプ、タンギー、マルセル・ジャン(フランス語版)、ジャコメッティ、マグリットの作品、そして表紙にはマン・レイの写真が掲載された。1935年4月末から5月にかけて、ブルトンとともにスペイン領カナリア諸島を訪れ、テネリフェ島のサンタ・クルスで行われたシュルレアリスム展に参加した。ペレはここでブルトンが提示した「客観的偶然」の理論に基づいて、後に論考「ペレの話を聞く」(1943年)を発表することになる。 1935年6月にパリで開催され第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)では、アラゴンがソ連代表イリヤ・エレンブルグの協力を得て事務局を務め、ソ連からはエレンブルグのほかイサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加したが、エレンブルグと対立したブルトンが同会議から追放され、このことが間接的な原因となって結核を患っていたクルヴェルが自殺するなど多くの問題が重なった。さらに、ブルトンの代わりに彼の演説原稿を読み上げたエリュアールは、「仏ソ相互援助条約(フランス語版)の締結および仏ソ文化協力に反対した」と誤解された。この結果、コミンテルンおよびスターリンのソ連を支持する共産主義者らとシュルレアリストらの決別は決定的なものとなり、これに対してシュルレアリストらは「シュルレアリストが正しかった時代から」と題する共同声明を発表した。 ペレは、共産党員として作家芸術家協会の機関誌『コミューン(フランス語版)』の編集長、共産党の機関紙『ス・ソワール(フランス語版) (今夜)』の編集長を歴任したアラゴンとは対立的な立場にあった。1935年10月に、それまで仲違いしていたブルトンとジョルジュ・バタイユ が革命知識人闘争同盟「コントル・アタック(反撃)」を結成した。反資本主義、反議会主義を唱え、労働者に、資本家や国家主義者たちに対する反撃を準備するよう呼びかけるこの組織は、翌36年5月に機関紙『コントル・アタック手帖』を刊行。ペレは、コントル・アタックの集会に参加し、『コントル・アタック手帖』にも寄稿したが、この機関紙は創刊号をもって終刊となり、バタイユらはシュルレアリスト・グループと決裂した。 1936年には代表作『私はこのパンは食べない』、『私は浄化させる』を発表。いずれもエルンストの作品(前者はエッチング、後者はフロッタージュ)が掲載されている。
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