サイクロトロンの建設
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1935年、理化学研究所に原子核と放射線生物学を研究するために三井報恩会、東京電燈株式会社、日本無線電信株式会社等の寄付で原子核実験室が設けられた。1937年に仁科が主導して日本で最初の26インチ小サイクロトロンが完成した 。少し遅れて大阪帝国大学でも24インチサイクロトロンが完成した。京都帝国大学でも建設が計画されていた 。 理研(理化学研究所)では小サイクロトロンを使用した研究が盛んに行われるようになり、数々の成果が得られた。具体的には研究者グループが手分けして周期律表上の元素を、軽および中重核種、希土類核種、重核種に分け、中性子で照射して放射性核種の性質を調べた。ウラン237の存在を発見した。またウラン235の対称核分裂を発見した。また、他のグループはカイコに中性子とガンマ線の混合放射線を当てて生物への影響を調べた。 仁科は小サイクロトロンが完成するころから、より高エネルギーの粒子ビームが得られる大サイクロトロンの建設を構想していた(この頃はどれ位の大きさにするかまだ決まっていなかったが、その後60インチに決まった)。そのころカリフォルニア大学のアーネスト・ローレンスのもとに留学している嵯峨根遼吉から、ローレンスも大型サイクロトロンの建設を計画している、という情報がもたらされた。サイクロトロンの主要部分である電磁石は日本で注文するよりアメリカの海軍工廠に2台まとめて注文する方が安くなることが判ったので、ローレンスに依頼して理研の分を一緒に注文してもらうことになった。当時、60インチのサイクロトロンは世界最大であり、カリフォルニア大学と理研の2台のみであった。 電磁石は1938年中頃理研に到着し、1939年頃一応組み立てが終了したが、予期したような性能が出なかった。ローレンスのところでは既に完成していたので、情報を得るため1940年、理研から矢崎為一(やさきためいち)、渡辺扶生(わたなべすけお)、飯盛武夫(飯盛里安の長男)の3名がローレンスのもとに派遣された。当時は既に日米関係の悪化が始まっていたため、ローレンスには会えなかった。サイクロトロンの見学は許されたが設計図のコピーをもらう約束も取り消しになった。(当時ローレンスはS-1ウラン委員会の重要な役割を担っていた。)ただし、助手を通じてサイクロトロンの概念設計図と加速機構を論じた論文が与えられた。 理研では3人が持ち帰った情報をもとに大改造を行うことになった。性能が出なかった理由は、真空技術が未熟なため、加速函の真空度が良くなかった(帰国に際しキニー型ポンプを1台購入し、デッドコピー がすぐに発売された)ことのほか、最大の理由は、小サイクロトロンと同じように半円形空洞電極(形状が"D"に似ていることからDeeと呼ばれる)と発振機のグリッドをトランスを介して電磁的に結合したため、十分な電圧をかけられなかったためである。小サイクロトロンでは、粒子(陽子や重陽子)の速度が比較的低かったので、相対論的な質量の増加を考慮に入れる必要が無かったが、大サイクロトロンの場合は、粒子の速度が大きくなってくると、相対論的な質量の増大が無視できなくなり、加速電圧に対して粒子の位相が遅れてくる。遅れがπ(パイ)に達するともはや加速できなくなる。これを回避するためにはDeeにより高い電圧をかけなければならないが、小サイクロトロンの時と同じ方法では困難なので、λ/4同軸共振管の先端にDeeを取りつける構造を取ることにした。この構造はコロンビア大学のダニング(J.R. Dunning)とアンダーソン(H.L. Anderson)が考案したものである。 1943年11月頃から調整に入り、1944年2月15日、空気中に引き出したプロトンビームが紫色に光るのを肉眼で確認できるまでになった。それ以後も調整を続け、7月頃から実際の研究を始めた。これらはニ号研究の一部を成していた。その頃行われた研究は次のとおり。ただ、研究の準備段階のためか、素粒子の先端研究には程遠かった。この当時の素粒子の研究は高エネルギー反応である宇宙線にまだ頼っていた時代である。 題目研究者放射性同位元素の夜光塗料への応用 新間啓三 アルファ線源として人工ポロニウムの研究 杉本朝雄 中性子による U-235 の存在比の測定 山崎文男 熱中性子による U-235 分裂の研究 新間啓三 U によるおそい中性子の捕獲の研究 田島英三 U による熱中性子の吸収の研究 杉本朝雄 1945年4月13日の東京大空襲で理研の大部分の施設が被災した。仁科氏の家も被災したため、被害を免れた理研の研究室に居を移した。大サイクロトロンは被災を免れ、運転を続けたが8月15日の終戦とともに停止した。同年11月、大小2台のサイクロトロンはGHQによって東京湾に投棄された。GHQによるサイクロトロンの投棄のいきさつは福井崇時が詳述している。 米軍は大型サイクロトロンを軍事利用と誤解して破壊した。仁科がこれに落胆している写真が残っている。
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