加速器開発の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 15:13 UTC 版)
初期の加速器は粒子の加速に高電圧を利用するものであった。1928年にRolf Widerøeが線形加速器の実験に成功して、その論文に触発されたアーネスト・ローレンスとDavid H. Sloanにより線形加速器を製造されたものの、当時の高周波電源の周波数では加速が不十分だったので、1931年に高周波の電場と磁場による軌道の保持を使った円型の加速器サイクロトロンが開発され、1934年にローレンスは特許(アメリカ合衆国特許第1,948,384号)を取得した。 1944年に位相安定性原理を加速に用いるシンクロトロンが誕生。1952年に強収束の原理が発見、粒子を加速するエネルギーはそれまでの1 - 10万倍になった。 初期の加速器では粒子を固定標的に当てて出てくる粒子を調べていたが、エネルギー効率が悪かったため2つの粒子をそれぞれ正面から衝突させるようになる。この方法で、エネルギーがより反応へ向けられることとなった。 日本では1933年に、当時は台北帝国大学教授だった荒勝文策がアジアで初めてコッククロフト・ウォルトン型加速器を作り、原子核人工変換の実験を成功させ、続いて大阪帝国大学の菊池正士も成功した。1936年に大阪大学でサイクロトロンの建設が始まり、1938年に完成、理化学研究所の仁科芳雄博士らが1937年から陽子サイクロトロンを建設した。第二次世界大戦前・戦中に日本国内に設置されたサイクロトロンは理化学研究所に大小2台、大阪大学に1台、京都大学に1台(建設中)あったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦でGHQの指示によりサイクロトロンが破壊された。当時の部品で現存するのは、「ポール・チップ」と呼ばれる磁極として使われた鉄製円盤(直径約1メートル、厚さ約0.15メートル、重さ約250キロ)1枚のみである。今まで部品は全て廃棄されていたと思われていたが、京都大学の研究者が保管し続けていたという。 1951年5月に来日したローレンスの助言により同年12月、科研(理研)で小型サイクロトロンの建設が始まり、翌1952年12月に運転を始めた。東北大学の北垣敏男による機能分離型強収斂の提案がなされる、これにより理論上100億電子ボルト(10GeV)以上の出力が可能になった。1961年に完成したのが東京大学原子核研究所の7億eV(700MeV)電子シンクロトロン。電子シンクロトロンは1966年には13億eV(1.3GeV)に到達。1971年に高エネルギー物理学研究所(KEK、現・高エネルギー加速器研究機構)が発足し、陽子シンクロトロンの建設を開始。そして1976年、120億eV(12GeV)の陽子シンクロトロンが完成した。 1986年に完成したKEKのトリスタン電子・陽電子コライダーはそれぞれの粒子を250億eV(25GeV)まで加速して衝突させ、重心系衝突エネルギー500億eV(50GeV)に到達した。1988年から世界で初めて超伝導加速空洞を大規模に導入し、1989年にはビームエネルギー320億eV(32GeV)を達成した(なお超伝導加速空洞はトリスタン実験以来、様々な大型粒子加速実験装置で採用されることになった)。 1994年にKEKのトリスタン電子・陽電子コライダーの後続であるKEKB加速器(B-Factory)の建設が開始、1999年に完成。現在に至る。
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