ケープタウン大主教:1986-1994
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:32 UTC 版)
「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「ケープタウン大主教:1986-1994」の解説
ケープタウン大主教(英語版)フィリップ・ラッセル(英語版)が、自身の退任を1986年2月に発表した後、Black Solidarity Groupはツツを後任として擁立する計画を立てた。この会議の当時、ツツはジョージア州アトランタでマーティン・ルーサー・キング2世平和賞を受賞していた。ツツの名前はマイケル・ナッター(英語版)と共に並べられたが、両者ともこのノミネートについての戸惑いを表明した。投票において、ツツは聖職者たちと信徒たちの3分の2の票を確保し、その後主教会議で全会一致で承認された。ツツはケープタウン大主教としても最初の黒人であった。一部の白人聖公会信徒は、彼の選出に抗議してこの教会を去った。聖ジョージ殉教者大聖堂(the Cathedral of St George the Martyr)での叙任式には、1,300人以上の人々が列席した。式の後、ツツはグッドウッド(Goodwood)にあるケープ・ショーグラウンド(the Cape Showgrounds)で、10,000人の野外聖餐を執り行い、その場にアルバーティーナ・シスル(英語版)とアラン・ボエサク(英語版)を政治的演説のために招いた。大主教になると彼はこの地位のために用意されたビショップスコート(英語版)の公邸に移った。彼のこの行動は違法であった。なぜならば、国家が「白人地区(white area)」と定めた地域に居住する公的許可を求めなかったからである。彼はこの家を改装するための資金を教会から取得し、その隣地に子供たちの遊び場を設置し、ビショップスコートに水泳用プールを開いて、どちらも教区民に解放した。ツツはビショップスコートでInstitute of Christian Spirituality(英語版)を設立するためイギリスの祭司(priest)フランシス・カル(英語版)を招いた。その後Institute of Christian Spiritualityはツツの家の敷地内の建物に移動した。これらのプロジェクトにより、ツツの聖職者としての職務[訳語疑問点]のための経費が聖公会予算の大部分を占めるようになっていき、ツツは海外からの寄付の呼びかけを通じて予算拡大を希求した。一部の聖公会信徒たちは、ツツの浪費に批判的であった。 大主教としてのツツの業務は、彼の政治的行動主義と定期的な海外行脚とも相まって、膨大な作業量となった。ツツはこれを執行役員ンジョンゴンクル・ンドンガネ(英語版)とナトール(Nuttall)の助けを借りて管理した。ナトールは1989年にはケープ州の首席司祭(dean)に選出された。教会の会合で、ツツは合意形成を促すリーダーシップモデルを採用することで、多数決ではなく全会一致による決定という伝統的なアフリカの習慣を引き出し、教会内の競合するグループの妥協を確実なものにしようとした。彼は聖職から女性を排除することをアパルトヘイトに例えて批判し、聖公会で女性を聖職者にすることを認めさせた。彼はまた、上級聖職者にゲイの男性を任命したほか、当時はまだ公に発言することはなかったものの、同性愛者の司祭に禁欲を求める教会は非現実的だと個人的に非難した。ボエサクとスティーヴン・ナイドゥー(英語版)と共に、ツツは黒人の抗議者たちと治安部隊の間の衝突の仲介に取り組む教会指導者の1人となった。実例としては、1987年のANCゲリラアシュリー・クリエル(英語版)の葬儀での衝突を回避するために行動した。1988年2月、政府はUDFを含む17の黒人、および人種混合組織を禁止し、労働組合の活動を制限した。教会指導者たちは抗議行進を組織したが、それも禁止された後、Committee for the Defense of Democracyを組織した。これらのグループの結集が禁止されたとき、ボエサクとナイドゥーは聖ジョージ大聖堂でこれに代わる儀式を組織した。 あなたがたは既に負けている!我々は好意をもって言おう。あなたがたは既に負けている!我々はあなたがたをこちら側に、勝利の側に招待する。あなたがたの信念は不公正である。あなたがたが守っているものは根本的に弁護不可能である。何故ならそれは悪だからだ。それは疑問の余地なき悪だ。それは不道徳だ。疑問の余地なき不道徳だ。非キリスト教的なものだ。だから、あなたがたは敗北するだろう!徹底的に敗北するだろう! デズモンド・ツツ 政府に対する1988年の演説。 1988年3月、彼は(シャープビル副市長殺害で)死刑判決を受けたシャープビル・シックス(英語版)の訴訟について取り上げた。原則として死刑に反対し、助命を求めた。ツツはアメリカ、イギリス、ドイツの政府代表者に電話をかけ、この問題についてボータ政権に圧力をかけるよう促し、個人的にもボータにテュインヒュイス(英語版)の彼の自宅で面会し、この問題について議論した。2人はうまくいかず、口論となった。ボータはツツがANCの武装闘争を支持していると非難した。ツツは彼らが暴力を使うのを支持しておらず、ANCの非人種的、民主的な南アフリカという目標を支持していると述べた。最終的には死刑判決は減刑された。 1988年5月、政府はツツに対する非公式なキャンペーンを立ち上げた。これには国家安全保障会議(英語版)の戦略コミュニケーション部門(Stratkom wing)が部分的にかかわっていた。治安警察は反ツツ・スローガンのチラシとステッカーを印刷し、黒人失業者に金を払って、ツツが空港に到着した時に抗議させた。交通警察はノマリゾ・レアの自動車免許更新が遅れたという理由で逮捕し、独房に閉じ込めた。治安警察は反アパルトヘイトの教会指導者に対する暗殺の試みを組織したが、後に彼らはツツの知名度が高すぎたため、彼に対してはそれを実行しなかったと主張している。 ツツは政府に対する市民的不服従行為に関わり続けていた。この行為には多くの白人たちもまた参加し、このことにツツは励まされた。1989年8月、彼は聖ジョージ大聖堂で「Ecumenical Defiance Service」を組織し、すぐ後にはケープタウンの人種隔離が行われているビーチでの抗議に参加した。UDF設立6周年を記念してツツは聖ジョージ大聖堂で「service of witness」を行い、9月には治安部隊との衝突で殺害された抗議者を記念した行事を執り行った。彼はケープタウン全域にわたる抗議行進を組織し、新しい大統領フレデリック・ウィレム・デクラークはこれに許可を与えることに同意した。これには様々な人種を含む推定30,000人の人々が加わった.。この抗議行進が許可されたことに触発されて、南アフリカ全土での同様のデモが行われた。10月、デクラークはツツ、ボエサク、フランク・シケーネ(英語版)と面会した。ツツはこれに「我々は耳を傾けられた」と感動した。1994年、ツツの更なるツツの著作集「The Rainbow People of God」が出版され、それに続き翌年にはアフリカ大陸全土からの祈りにツツの解説を添えた「An African Prayer Book」が出版された。
※この「ケープタウン大主教:1986-1994」の解説は、「デズモンド・ムピロ・ツツ」の解説の一部です。
「ケープタウン大主教:1986-1994」を含む「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事については、「デズモンド・ムピロ・ツツ」の概要を参照ください。
- ケープタウン大主教:1986-1994のページへのリンク