アンシュルスの幻想と呪縛からの脱却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:08 UTC 版)
「アンシュルス」の記事における「アンシュルスの幻想と呪縛からの脱却」の解説
20世紀におけるドイツの領土の変遷(英語版)第一次世界大戦後(戦間期) ヴェルサイユ条約 (1919年) シレジア蜂起 (1918年–1919年) ポーランド回廊設置 (1919年) ザール盆地地域返還 (1935年) ラインラント進駐 (1936年) オーストリア併合 (1938年) ミュンヘン会談・ズデーテン併合(1938年)ベーメン・メーレン保護領設置 (1939年) メーメル地方再併合(英語版) (1939年) 第二次世界大戦 大ドイツ主義 ナチス・ドイツによるポーランド併合(英語版) テヘラン会談 (1943年) ヤルタ会談 (1945年) 第二次世界大戦後 ポツダム会談 (1945年) ズゴジェレツ条約(英語版) (1950年) ワルシャワ条約 (1970年) ドイツ最終規定条約 (1990年) ドイツ・ポーランド国境条約 (1990年) 領土・国境線 旧ドイツ東部領土(回復領)オーデル・ナイセ線 (1945年–現在) 隣接国 ポーランドの領土の変遷(英語版) バルト三国の領土の変遷(英語版) 表 話 編 歴 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)とドイツ国家社会主義労働者党の主導で実現した独墺合邦は、オーストリア人の民族意識に重大な影響を与えた。 実は、「第一共和国」と称されたこの時期のオーストリアにあって、オーストリアへのプロテスタントの侵入を危惧する一部のカトリック保守派を除けば、ほとんどのオーストリア国民にとってドイツとオーストリアの統一は悲願であった。それは大ドイツ主義に基づく発想で、社会民主党のカール・レンナーや対立する保守派のドルフス、シュシュニックにも共通した考えであった。あくまでも彼らは(それぞれの立場から見た)「ドイツの伝統の継承者」と自負するオーストリアが異質なナチスによって飲み込まれて行くことに対して反対し続けていたのである。 そして、当時の彼らには独自の国家として「オーストリア」が存在し続けることや「オーストリア」という国家に愛国心を持つことなどは全く思いもよらないことであった。なぜなら、オーストリアの人々が愛国心を抱いていた対象は、あくまで大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家か、或いは彼らがかつて実際に暮らしていた1918年以前のハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)に向けられたものであったからである。例えば、「第一共和国」は成立から1919年まで正式な国名として「ドイツ=オーストリア共和国」(Republik Deutschösterreich)を採用していたし、「第一共和国」時代のオーストリアの国歌だった「ドイツ・オーストリア、汝壮麗の国よ(ドイツ語版、英語版)」(1920年〜1929年)で「ドイツ=オーストリア」、「終わり無き祝福あらんことを(ドイツ語版、英語版)」(1929年〜1938年)で「ドイツの地」(Deutsche Heimat)という詞を歌っていた。従って、実際にドイツ軍がオーストリアに入ってしまうと、「大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家」への愛国心から、一転して合併に賛成する投票行動に出てしまったのである(カール・レンナーが併合直後にナチスは嫌いだがオーストリアとドイツの合併は必要であると発言して、ヒトラーから「彼も今回の併合そのものは支持している」と誤解を受けて政治犯収容所送りを免れたという説があるほどである)。 だが、オーストリア人の「統一ドイツ」に対する期待とは裏腹に、オーストリア人は現実の独墺合邦で一方的な犠牲を強いられた。当時のドイツではナチスが強制的同一化政策を全国で実施しており、ナチス・ドイツ統治下のオーストリアではその一環としてハプスブルク帝国以来のオーストリアを根本的に否定する政策が取られた。オーストリア州の行政機関はオストマルク法により1939年4月から7つの帝国大管区へと再編され、帝国大管区を総称する「オーストリア(エスターライヒ)」と言う地名は、1940年にプロパガンダ的な名称(Propagandabezeichnung)の「オストマルク」(オストマルク帝国大管区群)、更に1942年にドナウ=アルプス帝国大管区群(Donau- und Alpenreichsgaue)へと改称させられた。また、合併直後、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や反ナチス的愛国主義者、知識人などが逮捕され、収容所に送られるか、処刑された。粛清の嵐はオーストリア軍にも及び、最後まで合併に反対し続けたヴィルヘルム・ツェーナー(Wilhelm Zehner)将軍が暗殺された他、「サウンド・オブ・ミュージック」で有名なゲオルク・フォン・トラップ少佐のようにオーストリアから亡命する者もいた。ナチス・ドイツのオーストリア統治は、政治的にも経済的にもドイツ本土への従属性を強化する一方、オーストリア人をドイツ人の中でも落ちこぼれの「二流市民」として扱う結果となった。このため、ユダヤ人抹殺(ホロコースト)など、ドイツ人が直接関りたくない仕事などに動員されたり、その一方でドイツ人としてのアイデンティティ確立のために、自ら積極的にナチスに忠誠を誓う者もいた。またナチス親衛隊の特殊部隊であるフリーデンタールの指揮官オットー・スコルツェニーもオーストリア出身である。そもそも、ヒトラー自身がオーストリア出身者であった。 第二次世界大戦とドイツによる支配の中で、オーストリア人は自分達がドイツ人ではなくオーストリア人であるというナショナル・アイデンティティーを初めて抱くことになった。また、連合国は1943年にモスクワ宣言を発表し、オーストリアを「ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の自由国」であるとする一方、オーストリアの戦争に対する責任追及はオーストリア自身がどの程度解放に関与したのかに影響されるとした。そのため、大戦末期のウィーン攻勢敗北でドイツ軍がオーストリアから撤退し、連合国軍の分割占領下でカール・レンナーを首班として再度オーストリアを再興することになった時、もはや「ドイツ系オーストリア」という単語は過去の呪縛でしかなく、オーストリア人によるオーストリア国家の建設へと動き出すことになる。何より冷戦開始に伴い、ドイツと同様に東側・西側両陣営による分割の危機さえあったオーストリアを単一の国家として再建させるためには、あくまでもオーストリアは「ドイツによる侵略の最初の犠牲者」という立場でいなければならなかった。このため第二次世界大戦における「オーストリア人の戦争責任」の問題は、戦後長年にわたってオーストリア国内ではタブー視され、この問題が本格的にオーストリア国内で議論されるようになるのは冷戦終結後のことである。 なお、1955年のオーストリア再独立の際に連合国とオーストリアが調印したオーストリア国家条約では、オーストリアとドイツの合併は永久的に禁止されている。また、欧州連合による欧州統合が進められ、オーストリアとドイツはもちろんのこと、他の欧州諸国との国境の意味合いまでもが失われつつある現状において、ドイツと合併する必要性も既にない状態である。ただし一方では、2000年から2006年までオーストリア国民党(キリスト教社会党の後身)のヴォルフガング・シュッセルがドイツ民族主義を唱える極右政党オーストリア自由党と連立を組むなど、オーストリア国内ではドイツ民族主義が台頭してきている。2013年にオーストリア国民を対象として行われた世論調査では、4割がナチス政権下の生活はそこまで悪くなかったとし、6割が強い人が政府を動かすべきであり、5割以上がナチス党が再び認められれば非常に高い確率で議席獲得すると信じているという結果が出るなど、「『ドイツ人』か『オーストリア人か』」という問題やナチスに対する評価は今でもオーストリアに影を落としている。
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