アンシュルスとオーストリア州の成立
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「ナチス・ドイツ統治下のオーストリア」の記事における「アンシュルスとオーストリア州の成立」の解説
詳細は「アンシュルス」を参照 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは当初オーストリアを併合する意図はなかったが、1938年3月13日の進駐(オットー作戦)によって熱烈な歓迎を受けたため、即時の両国統合に方針転換したといわれる。同日、ヴィルヘルム・ミクラス大統領辞任後のオーストリア政府を掌握していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルト首相は1934年の連邦授権法に基づき、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」を決議し、発布した。この法律は憲法違反であるという指摘も行われているが、ともかくドイツ国とオーストリア第一共和国の統合と、オーストリアがドイツ国の「州」となることが合法化された。同日、ドイツにおいても「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」が公布され、オーストリアがドイツの州であることが定められ、4月10日に国民投票を行うことが定められた。 成立した「オーストリア州」はオーストリアという国家を清算する業務を与えられ、1939年9月30日に清算を完了し、帝国大管区に再編される予定であった。3月15日には連邦政府に代わって4人の大臣からなるオーストリア州政府が成立した。さらに帝国総督(国家代理官)が設置され、ザイス=インクヴァルトが総督に就任した。一方で、統合に関する措置を行うドイツ中央政府の側でも諸官庁の権限が競合していた。当初内務省の「ドイツ帝国とオーストリア再統一実施のための本局」が統合業務の権限を有していたが、4月23日に、オーストリアにおける国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のリーダーであるヨーゼフ・ビュルケルが「ドイツ帝国とオーストリア再統一のための帝国全権委員」(国家弁務官)に任命された。ビュルケルは総統に直属し、総督や州政府に対しても命令する権限を持っていた。 オーストリア州は法制上もオーストリア州(ドイツ語: Land Österreich)と定義されていたにもかかわらず、公式には「オストマルク(ドイツ語: Ostmark)」と呼称されていた。
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