大統領辞任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:43 UTC 版)
「アウグスト・ピノチェト」の記事における「大統領辞任後」の解説
ピノチェトは、大統領を辞任した後も、陸軍総司令官の座に留まり、隠然たる影響力を保持していた。また大統領に就任した反軍政派のエイルウィンが軍事政権時代の軍による人権侵害の真相究明を進めようとした際には、クーデターまがいの行動を起こして妨害したりもした。1998年に陸軍を退役した後には、大統領経験者がその職に就くことができる終身上院議員に就任した。 しかし、1998年に病気療養のために渡ったイギリスで、スペインの司法当局バルタサール・ガルソン判事の要請(チリ在住のスペイン人に対する弾圧の罪で)を受ける形でジャック・ストロー内相(当時)が拘束を指揮、逮捕した。拘束をめぐっては、国家元首を他国が裁くことの是非、チリとの外交関係悪化をめぐって論議が起こったが、イギリス政府は2000年3月2日、最終的に病気で裁判に出るのは無理だと診断されたためチリ帰国を認めた。 2000年には、チリの市民団体がピノチェトを告発し、事件を担当するサンティアゴ高裁のフアン・グスマン判事は、2000年12月1日にピノチェトを殺人及び誘拐罪で起訴。しかし、12月11日にチリの高裁が、12月20日には最高裁が、ピノチェトに対する精神鑑定が行われていないことを理由に、起訴を一旦無効とした。翌2001年1月29日に、グスマン判事はピノチェトに対する精神鑑定と事情聴取を行った上で、再起訴に踏み切った。しかし、2001年7月1日、サンティアゴ高裁は「ピノチェトは痴呆(認知症)で裁判を受けられない」としてこれを却下し、翌月には最高裁もこの判断を支持した。しかし、アメリカ合衆国のテレビ局のインタビューなどに答えていたことなどから、痴呆というのは偽ではないかという声が高まり、2004年8月には最高裁に免責特権を剥奪された。 2004年12月、サンティアゴ控訴裁は、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪でピノチェトを告発したが、2005年9月には、チリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして罪状を棄却した。しかし、ピノチェトには在任中の2700万ドルと言われる不正蓄財の容疑でも捜査が進められ、妻と息子が逮捕され(妻は高齢のためその後保釈)、2005年10月にはピノチェトと家族の全ての資産が差し押さえられた。又、2006年10月25日には、中国香港特別行政区の銀行に9tもの金塊を所有している事が明らかになった。しかしながら、2007年10月26日、サンティアゴ高裁は、嫌疑不十分でピノチェトの妻子とその側近らの立件を断念するとともに、身柄の拘束も解く事になった。
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