身柄の拘束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:09 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニの死」の記事における「身柄の拘束」の解説
ミラノを離れたムッソリーニ一行は北に進み、コモを経由して4月26日にはコモ湖西岸のメナッジョに到着した。4月27日の早朝、一行の前に撤退中のドイツ軍高射砲部隊(トラック30台からなる)が偶然現れ、ムッソリーニはこの部隊と合流することを決めた。4月27日午前6時、ムッソリーニ一行とドイツ軍部隊はメナッジョを出発して北上を続けたが、午前7時30分頃、ドンゴに近いコモ湖北西のムッソの路上で、一行の車列は地元パルチザン部隊が設置したバリケードに遭遇し、停止することを強いられた。ピエル・ルイジ・ベッリーニ・デッレ・ステッレ(イタリア語版)とウルバーノ・ラッザロ(イタリア語版)が指揮する地元パルチザンは、この車列にイタリア人のファシスト党幹部が同行していることを認識したものの、この時点ではムッソリーニの存在には気づかなかった。パルチザンはドイツ軍に通過を許可する見返りとして、車列に同行していたイタリア人全員を引き渡させた。その過程で、1台の車両の中でぐったりと座っているムッソリーニが発見された。のちにラッザロは、発見時のムッソリーニの様子を振り返って次のように語った。 ムッソリーニの顔はまるで蝋のように青白く、うつろなまなざしは何も見えていないかのようだった。疲れ切っているのが見てとれたが、恐れている様子はなかった。……彼は完全に気力を失っており、精神的に死んでいるように見えた。 1945年4月27日午後4時、ムッソリーニはパルチザンによって逮捕された。ムッソリーニはドンゴまで連行され、町の役所に勾留された。まもなく、愛人のペタッチも同様に逮捕され、ドンゴに連れてこられた。最終的に、車列からは50人以上のファシスト党幹部とその家族が発見され、パルチザンによって逮捕された。そのうち、最重要人物とされた16人(ムッソリーニとペタッチを除く)が、逮捕の翌日にドンゴで即時処刑(銃殺)された。その後の2日間ではさらに10人が処刑されることとなった。 4月27日午後7時頃、ムッソリーニの身柄は、ドンゴから少し離れたジェルマージノという集落の、財務警備隊(英語版)の兵舎に移された。ジェルマージノでムッソリーニは、パルチザン指揮官のベッリーニ・デッレ・ステッレに対し、ドンゴに残されていたペタッチへの伝言を頼んだ。ドンゴでムッソリーニからの伝言を受け取ったペタッチは、彼の側に居たいとベッリーニ・デッレ・ステッレに懇願したため、彼はペタッチをムッソリーニの元に連れて行った。ドンゴ周辺では依然として戦闘が続いており、パルチザンたちはムッソリーニとペタッチが、ファシスト党の支持勢力によって奪還されることを恐れていた。そこで、真夜中になってから、近隣で農業を営むデ・マリアという人物の家まで再度2人を移送した。安全な監禁場所と考えられたこの民家で、ムッソリーニとペタッチは残りの夜を過ごし、翌日も大半の時間をそこで過ごすことになった。 ムッソリーニが逮捕された日の午後、アレッサンドロ・ペルティーニ(北イタリアにおける社会党パルチザンのリーダー)はラジオ・ミラノの放送上で次のように宣言した。 無法者集団の首領であるムッソリーニは、憎悪と恐怖に満ちた様子で、スイスとの国境を越えようとしたところを逮捕された。ムッソリーニの身柄は、速やかにイタリア国民による法廷に引き渡され、裁かれねばならない。我々は、この男は銃殺の名誉に値しないと考えているが、それでも裁判にかけることが必要である。本来、ムッソリーニは不潔な犬のごとく殺されるべき男だ。
※この「身柄の拘束」の解説は、「ベニート・ムッソリーニの死」の解説の一部です。
「身柄の拘束」を含む「ベニート・ムッソリーニの死」の記事については、「ベニート・ムッソリーニの死」の概要を参照ください。
- 身柄の拘束のページへのリンク