身柄拘束の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「身柄拘束の経緯」の解説
コモに戻ったムッソリーニに対してミラノとは一転して非協力的な空気が漂っていた。実は既にコモ湖を含めたコモ県の県知事はCLN側と内通していて、流石にムッソリーニの部隊を攻撃することはなかったものの、速やかに移動して欲しいと県知事から嘆願された。やむなくムッソリーニは次男ヴィットーリオを残してコモ湖から移動先を変えざるを得なかったが、そこに後を追ってきたパヴォリーニらの軍勢が訪れて行き違いになってしまった。 パヴォリーニは誠実な人物だったが軍事的な指揮経験はなく、合流に失敗した後の行動は雑然としたものだった。パヴォリーニはムッソリーニの行方を捜して部隊から離れた。県知事の協力が得られず、至る所にパルチザンやレジスタンスが点在する状態では連絡を取るのも困難だった。ムッソリーニもパヴォリーニも居ない状況下で、指揮系統もなく取り残された志願者達には困惑が広がり、ムッソリーニが自分達を捨ててスイスに亡命したとの嘘の情報も流れた。結局、ミラノに残った者達と同じく家族を守るために行動し始め、どうにかコモ湖から40km離れたメナッジョという場所でムッソリーニの部隊と落ち合った時、パヴォリーニは「我が身一つを捧げます」とのみ告げた。 ヴァルテリーナでの防衛が非現実的になりつつあることを指摘したグラツィアーニはドイツ軍と共に連合軍と休戦交渉を進めることを主張し、却下されると憤慨してミラノの司令部に戻ってしまった。軍の総司令官であるグラツィアーニが離脱して正規軍の動向も不明瞭になってしまう窮地だったが、ムッソリーニは落ち着いており、暫くその場に留まることを選んだ。そこにヴァルテリーナを経由してドイツ南部へ退却していた独軍の対空砲部隊と遭遇し、護衛のピルザー親衛隊中尉からの助言もあって彼らと同行することを決め、メナッジョからは数十名のRSI軍兵士も随伴した。 ドイツ軍とRSI軍の車列は移動途中のコモ湖付近で第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊に捕捉され、旅団の政治委員ウルバーノ・ラッザロ(英語版、イタリア語版)が身分証明を求めて車列に近付き、ドイツ軍の対空砲部隊の指揮官が交渉にあたった。交渉は6時間もの長時間にわたり、戻ってきたドイツ人の士官は、パルチザンからこれは同じイタリア人同士の問題であり、RSI軍や共和ファシスト党の面々を引き渡せば我々ドイツ人は通過させると返答したとムッソリーニに話した。同乗していたローマ教皇庁高官の子女クラレッタ・ペタッチとその兄マルチェッロ・ペタッチはスペイン外務省の在伊領事と身分を偽るなどしたが、程なくムッソリーニが搭乗していることが発覚した。 旅団の記録によればムッソ・ドンゴというコムーネの村役場で簡単な尋問が行われたが、ムッソリーニは戦争責任などの質問に整然と答え、周囲の党幹部も国家統帥や党への忠誠を変えなかったという。
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