アラブ・東ローマ戦争とは? わかりやすく解説

アラブ・東ローマ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/02 00:24 UTC 版)

ヤルムークの戦い」の記事における「アラブ・東ローマ戦争」の解説

この時代、南のアラビアでは政治情勢急速に変化した預言者ムハンマドイスラーム教え広まり630年までにアラビア統一した632年ムハンマドが死ぬとアブー・バクルが第2第正統カリフ選出されるが、多くアラブ部族叛旗翻しリッダ戦争英語版)が起きたアブー・バクルメディナカリフ権威の下で何とかイスラーム共同体ウンマ)の分裂防いだ内乱鎮めたアブー・バクル対外征服事業始めイラクに兵を進める。アブー・バクル麾下勇将ハーリド・イブン・アル=ワリード率い遠征軍サーサーン朝軍を相手連戦連勝で、イラク制圧したアブー・バクルサーサーン朝交戦しつつ、東ローマ帝国支配するシリア侵攻の準備始めるが(アラブ・東ローマ戦争)、東ローマ軍反撃に出るムスリムシリア方面軍はこれに対応しきれず本国増援求めハーリドイラクから派遣されることになった634年11月、アジュナーダインの戦い英語版)で東ローマ軍敗れてダマスカス陥落したアブー・バクル634年に死ぬと後継者ウマルシリア侵攻続けたウマル折り合い悪かったハーリド更迭されアブー・ウバイダ後任指揮官となったパレスチナ南部平定し南北に走る隊商交易路沿いを北に攻め上がったムスリム軍は、ティベリアバールベック開城させ、635年初頭ホムス占領した

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アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)

東ローマ帝国」の記事における「アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)」の解説

詳細は「アラブ・東ローマ戦争」を参照 サーサーン朝への攻撃開始したイスラム帝国正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いメソポタミアからサーサーン朝駆逐し間もなく東ローマ領のシリア地方へも侵攻した636年ヤルムークの戦い東ローマ軍敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域北アフリカを再び失った641年ヘラクレイオス死亡すると、コンスタンティノス3世ヘラクロナスとの間で後継者問題起きコンスタンス2世即位して落ち着いた東ローマ軍は、655年アナトリア南岸リュキア沖での海戦マスト戦い英語版))でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海制海権失った656年イスラム帝国内で第三代カリフウスマーン暗殺され第一次内乱英語版)(656年 - 661年)が始まる。661年ウマイヤ朝成立674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍ウマイヤ朝)に包囲され東ローマ帝国存亡の淵に立たされたが、難攻不落大城壁と秘密兵器ギリシアの火」を用いて撃退することに成功した680年にはオングロスの戦いテュルク系ブルガール人破れ681年講和北方第一次ブルガリア帝国建国された(ブルガリア・東ローマ戦争680年 - 1355年)。698年カルタゴ戦い英語版)ではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れカルタゴ占領されカイラワーン拠点構築された。その後8世紀通じてブルガリアから攻撃受けたために、領土アナトリア半島バルカン半島沿岸部南イタリア一部マグナ・グラエキア)に縮小した717年即位したイサウリア王朝皇帝レオーン3世は、718年イスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。以後イスラム側の大規模な侵入なくなり帝国滅亡回避された。しかし、宗教的に726年レオーン3世始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝ローマ教皇対立しカトリック教会との乖離深めた聖像破壊運動東西教会ともに787年第2ニカイア公会議決議により聖像擁護認めることで決着したが、両教会教義上の差異は後にフィリオクェ問題きっかけとして顕在化した。 女帝エイレーネーイリニ治下800年ローマ教皇フランク王カール1世カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠授け802年10月31日クーデターニケフォロス1世即位し803年にパクス・ニケフォリ(英語版)を締結したが、政治的に東西ヨーロッパ対立古代ローマ以来地中海世界統一は完全に失われ地中海フランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。 イスラム軍(アッバース朝)とは、804年クラソスの戦い806年アッバース朝軍の小アジアへの侵攻戦火交えた敗北し貢納金を支払条件和約結んだ811年には第一次ブルガリア帝国侵攻したが、撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliskaブルガリア語:Битка при Върбишкия проход - バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世戦死し後継者問題起こったミカエル1世ランガベー皇帝即位し対立していたフランク王国妥協しカール大帝皇帝就任承認813年ヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国敗北しレオーン5世への譲位余儀なくされた。814年第一次ブルガリア帝国クルム死去すると、オムルタグ30年不戦条約結んだ827年アラブ人アッバース朝支配下アグラブ朝)がシチリア島侵攻しムスリムシチリア征服イタリア語版英語版)、827年-902年)、シチリア首長国831年 - 1072年)が成立902年イブラーヒーム2世タオルミーナ攻略しシチリア島征服完了した。 こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部アナトリア支配しギリシア人正教会ギリシア文化中心とする国家となった。このことから、これ以降東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人ローマ帝国」と呼ぶこともある。

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