1300年 - 1399年とは? わかりやすく解説

1300年 - 1399年

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イタリア・ルネサンス年表」の記事における「1300年 - 1399年」の解説

1300年代トレチェント Trecento1300年 - 教皇ボニファティウス8世この年最初の「聖年」として祝福しローマ多く巡礼者訪れる。(それまで聖年というものはなかった) 1300年 - 『神曲』では、この年聖金曜日ダンテ人生半ばで暗い迷い込み地獄煉獄天国遍歴が始まる。 1300年 - ダンテ先行する清新体詩人友人でもあったグイド・カヴァルカンティ死去1301年 - 教皇派ゲルフ支配フィレンツェで、白党(ビアンキ政権が黒党(ネリ)に倒される。白党に属していたダンテフィレンツェ市から追放され以後流浪生活を送る。 1301年 - ハレー彗星出現観測されるジョヴァンニ・ヴィッラーニはその年代記記録しジョットパドヴァ壁画東方三博士の礼拝」にその様子を描く。 1302年 - 教皇ボニファティウス8世回勅ウナム・サンクタム唯一聖なる)」。 1302年 - カルタベロッタの和約結ばれるシチリアの晩祷事件1282年以来シチリア領有をめぐるアラゴン家アンジュー家抗争が終わる。 1302年 - ジョットの師であり、フィレンツェ派遠祖でもあるチマブーエ死去1302年 - 【フランス国王フィリップ4世三部会召集1302年 - 【フランドルブリュージュの朝課事件で、フランドル市民フランス支配抵抗して一斉蜂起。続く同年金拍車の戦いコルトレイクの戦い)でフランドル最終的に独立勝ち取る1303年 - ローマ大学創建1303年 - アナーニ事件で、教皇ボニファティウス8世フィリップ4世配下ギヨーム・ド・ノガレらに急襲される。ボニファティウス8世釈放されたが、屈辱受けて病状悪化し間もなく死去後継ベネディクトゥス11世。 1304年 - 教皇ベネディクトゥス11死去後継教皇選出翌年もつれこむ(→1305年)。 1305年 - フランス人ボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴが選ばれ教皇クレメンス5世として即位(→1308年) 。フランスリヨン行われたこの教皇戴冠式初め教皇冠三重冠)が用いられる1306年 - フランシスコ会修道士で「讃歌(ラウデ)」などの宗教詩で知られるヤコポーネ・ダ・トーディ死去1307年 - 教皇クレメンス5世の命でノヴァーラ近郊ドルチーノ派拠点教皇軍が急襲異端とされた修道士フラ・ドルチーノ支持者火刑処される1307年 - ダンテ俗語論』。 1308年 - 教皇庁アヴィニョン捕囚(-1377年)。 1308年 - 【ドイツ後期スコラ哲学代表する実在論ドゥンス・スコトゥスケルンにて死去1308年 - ローマ派のピエトロ・カヴァリーニによりナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会壁画完成1308年 - ペルージャ大学創建1309年 - 聖ヨハネ騎士団東ローマ帝国ロドス島占領。これ以前騎士団根拠地キプロス島以後この騎士団ロドス騎士団とも呼ばれる(-1522年)。 1310年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世イタリア遠征(→1312年)。 1310年 - ヴェネツィアでバイアモンテ・ティエポロ(三代前の元首ロレンツォ・ティエポロの孫)らによるクーデターが起こる。元首ピエトロ・グラデニーゴ改革1297年)に反対するクーデタだったが、グラデニーゴが先手打って鎮圧する以後ヴェネツィア政治は寡頭体制移行議員世襲制1323年)、十人委員会常設1335年))。 1310年 - フィレンツェ派の祖であるジョットパドヴァの「スクロヴェーニ礼拝堂壁画完成1310年 - ジョヴァンニ・ピサーノピサ大聖堂説教壇彫刻完成1302年 - )。 1310年 - ディーノ・コンパーニフィレンツェ『年代記』執筆( - 1312年)。 1311年 - ヴィスコンティ家マッテオ1世神聖ローマ皇帝代理としてミラノ覇権を握る。デッラ・トッレ家(トッリアーニ家)が没落し以後ヴィスコンティ家事実上ミラノ僭主世襲する1311年 - シエナ派の祖であるドゥッチョシエナ大聖堂マエスタ荘厳の聖母)」完成1311年 - ヴィエンヌ公会議開催、翌1312年この会議テンプル騎士団解散正式決定1312年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世100年ぶりにローマで戴冠式を行う(→1313年)。 1312年 - マラテスタ2世・マラテスタが最初リミニ僭主となり、マラテスタ家支配始まる( - 1528年)。 1312年 - ジェノヴァ出身のランチェロット・マロチェロがカナリア諸島到達1313年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世シエナにて急逝。この皇帝私淑していたダンテは『帝政論』を捧げる。またこの死去に伴いダンテフィレンツェ帰還絶望的になる。 1314年 - 教皇クレメンス5世死去以後2年教皇座は空位(→1316年)。 1314年 - アルノルフォ・ディ・カンビオ設計により、フィレンツェヴェッキオ宮殿共和国政庁舎)完成1299年 - )。 1314年 - 【北アフリカ哲学者ライムンドゥス・ルルスアルジェリアベジャイアにてイスラム教徒投石負傷する。この負傷によりジェノヴァ商人救出されるも、翌1315年には落ち延びた故郷マヨルカ島パルマ死去1315年 - ティーノ・ディ・カマイーノによりピサ設置され神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世墓碑完成1315年 - 『エケリニス』を著したパドヴァのムッサート、桂冠詩人になる 1315年 - 【スイスモルガルテンの戦いで、スイス原初同盟(ウリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデン)がハプスブルク家撃退 1315年頃 - パドヴァ大学医学教授ピエトロ・ダバノが宗教裁判中に死去死体火刑処される1316年 - 2年間の空位の後、教皇ヨハネス22世即位1317年 - シモーネ・マルティーニロベルト1世王冠授けトロサの聖ルドヴィコトゥールーズの聖ルイ)」。 1318年 - ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主選ばれ以後1405年までカッラーラ家がパドヴァ掌握1320年 - ダンテ水陸論』。 1321年 - ダンテ亡命先ラヴェンナにて死去1265年 - )。ダンテ亡くなるこの年までに代表作『神曲』完成させる1304年 - )。 1321年 - フィレンツェ大学創建1323年 - 教皇ヨハネス22世回勅「クム・インテル・ノンヌッロス」。教皇フランシスコ会の「清貧論争」に介入しフランシスコ会厳格派(聖霊派)を断罪1323年 - 教皇ヨハネス22世トマス・アクィナス列聖する。 1323年頃 - 【フランスベルナール・ギー異端審問実務』。 1324年 - 旅行家マルコ・ポーロ死去1325年 - アルトパーショ戦いでルッカ傭兵隊カストルッチョ・カストラカーニフィレンツェ軍に勝利。この敗北危機克服のためフィレンツェは、ナポリ王ロベルト1世息子カラブリア公カルロを、僭主として迎え入れる1325年 - パドヴァのマルシリウス『平和の擁護者』。 1327年 - ルッカ公国成立1327年 - フィレンツェ天文学者チェッコ・ダスコリが異端の罪で火刑処せられる。 1327年 - アヴィニョンの聖クララ教会ペトラルカラウラ運命的な出会い詩人は『カンツォニエーレ』を書き始める。 1328年 - ローマにて神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世戴冠式皇帝アヴィニョン教皇ヨハネス22世廃位するため、対立教皇ニコラウス5世即位させる( - 1330年)。 戴冠式取り仕切ったパドヴァのマルシリウスローマ教皇代理任命される。 この皇帝の下に哲学者ウィリアム・オッカム、ジャンダンのヨハネスフランシスコ会総長チェゼーナミカエルらが結集1328年 - マントヴァのボナコルシ家が倒されゴンザーガ家権力を掌握1328年頃 - 【ドイツ神学者神秘主義者エックハルト死去1330年 - タッデオ・ガッディによるサンタ・クローチェ聖堂壁画羊飼いへの天使知らせ完成1328年 - )。 1330年頃 - ヤコポ・デル・カセンティーノ「カニョーラ三連祭壇」(ウフィツィ美術館)はこの頃のものか(1320年頃 - )。 1331年 - ドミニコ会士のポルデノーネオドリック死去インド中国宣教活動を行うとともに各地域記録残しマンデヴィル東方旅行記』(→1371年)にも影響与える。 1333年 - シモーネ・マルティーニ受胎告知」(ウフィツィ美術館)。 1333年 - フィレンツェアルノ川氾濫ヴェッキオ橋流される(→1345年)。 1334年 - 教皇ヨハネス22世死去教皇ベネディクトゥス12世即位1334年 - ジョットフィレンツェ大聖堂の「ジョットの鐘楼建設着手( - 1387年)。 1336年 - ペトラルカアヴィニョン近郊ヴァントゥ山登山挑み頂上まで登る近代的登山先駆け)。 1337年 - ジョット死去1337年 - 【イングランド・フランス】百年戦争始まる( - 1453年)。 1338年 - 教皇ベネディクトゥス12世フランシスコ会修道士ジョヴァンニ・デ・マリニョリをモンゴル帝国派遣する1338年 - 【ドイツ】 レンゼ選帝侯会議で、神聖ローマ皇帝選挙教皇許可不要であると宣言1338年頃 - ペトラルカアフリカ』。 1339年 - シモン・ボッカネグラ初代ジェノヴァ元首就任 1339年 - アンブロージョ・ロレンツェッティシエナ市庁舎の平和の間壁画「善政悪政寓意効果完成1339年 - カラブリアのバルラアムが、東ローマ帝国から東西教会合同のためアヴィニョン教皇庁送られる。バルラアムは南イタリア人で、グレゴリオス・パラマス静寂主義(ヘシュカスモス)を批判したことで名を挙げていた。 バルラアムはこの滞在中にペトラルカギリシア語教授する1340年頃 - イタリア初の多声音楽文化トレチェント音楽最盛期代表者ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェロレンツォ・ダ・フィレンツェフランチェスコ・ランディーニ1340年頃 - シモーネ・マルティーニアヴィニョン招かれ教皇宮殿壁画を描く(国際ゴシック様式)。 1341年 - ペトラルカ桂冠詩人になる。 1342年 - フィレンツェのブオナッコルシ商会経営破綻(「14世紀経済危機」の始まり)。この景気悪化で、その後1343年ペルッツィ商会とアッチャイオーリ商会1346年バルディ商会連続して経営破綻1342年 - 政治的混乱フィレンツェ共和国体制停止しナポリ王ロベルト1世庇護求める。その結果ナポリ王配下アテネ公ゴーティエ・ド・ブリエンヌに全権委任し僭主として迎え入れる( - 1343年)。 1343年 - ティレニア海面するナポリ湾周辺地震、この津波によりアマルフィ市街区のほとんどが壊滅する1343年 - アテネ公が専制の不満から追放されフィレンツェ自治回復1343年 - ピサ大学創建1343年 - ヴェネツィアサン・マルコ大聖堂祭壇装飾パラ・ドーロ」が補修される。元首アンドレア・ダンドロの命によるもので、パオロ・ヴェネツィアーノが祭壇装飾担当している。 1344年 - キプロス十字軍1345年 - タッデオ・ガッディ設計フィレンツェヴェッキオ橋再建される(現在まで残存)。 1345年 - 【フランスパリノートルダム大聖堂完成1163年 - )。 1347年 - ニコラ・ディ・リエンツォローマで護民官となるが失脚コーラ革命)。 1347年 - ハンガリー王ラヨシュ1世ナポリ女王ジョヴァンナ1世追放ナポリ王位を要求し首都ナポリ占領(→1382年)。 1347年 - 【クリミアモンゴル人交戦中のジェノヴァカッファヨーロッパで最初ペスト罹患者記録される黒海から地中海へのジェノヴァ人の航路をたどり、シチリア島メッシーナ初めイタリアペスト上陸する1348年 - 南アルプスフリウリ地方震源とする大地震発生1月25日)。ケルンテン地方フィラッハ最大級被害ヴェネツィアからナポリまでイタリア半島全域被害が及ぶローマサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂バシリカ建築はこの歴史的地震に伴う崩壊危機乗り越える1348年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世から教皇クレメンス6世アヴィニョン売却される以後フランス革命没収されるまでアヴィニョン教皇領となる。 1348年頃 - ヨーロッパペスト黒死病大流行(→1347年)。『カンツォニエーレ』にも歌われペトラルカ恋人ラウラはこのペスト死去フィレンツェ銀行家であり年代記作家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニもこのペスト死去フィレンツェ派芸術家ではアンドレア・ピサーノベルナルド・ダッディマーゾ・ディ・バンコがこのペスト死去シエナ派芸術家ではピエトロ、アンブロージョのロレンツェッティ兄弟がこのペスト死去疫病避けた人々閑談から生まれたのがボッカッチョの『デカメロン』 (ペスト文学)。 1348年 - 【ボヘミアプラハ大学創建プラハ市街大改修始まる。神聖ローマ皇帝カール4世よる。プラハ根拠地としたカール4世は、すでにプラハ大司教座設置し1344年)て聖ヴィート大聖堂改修着手していた。 この改修のためフランス人アラスマティアアヴィニョン教皇宮殿から召喚されプラハ国際ゴシック中心地となる。 1349年 - 教皇クレメンス6世が「鞭打ち苦行者」(フラゲラント(英語版))を非難し禁圧する回勅布告1349年 - 【ドイツ後期スコラ哲学代表する唯名論ウィリアム・オッカムミュンヘンにて死去1350年 - アヴィニョン教皇インノケンティウス6世委任され枢機卿アルボルノスが教皇代理となる( - 1357年)。元スペイン軍人だったアルボルノスは、教皇不在僭主たちが蚕食していた教皇領平定する1350年頃 - 女性神秘家のスウェーデンのビルギッタローマ定住以後亡くなるまでローマで過ごす( - 1373年)。 1350年頃 - 【フランス】「ジャン2世善良王の肖像」(ルーブル美術館アルプス以北最古期の個人肖像画)。 1351年 - ペトラルカ凱旋』に着手( - 1374年)。 1352年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世亡命先フランスからナポリ帰還(→1347年)。 1353年 - サン・ジミニャーノフィレンツェ占領され、対シエナ前線基地になる。 1353年頃- ボッカッチョが『デカメロン』を完成させる1354年 - 神聖ローマ皇帝カール4世イタリア遠征、翌1355年ローマで戴冠式を行う。 1354年 - ニコラ・ディ・リエンツォ教皇インノケンティウス6世許されイタリアでアルボルノス枢機卿合流。やがてアルボルノスと別れローマ帰還するも、ローマで独裁不満に思った市民反乱殺される1355年 - ヴェネツィア元首マリーノ・ファリエロクーデタ起こす失敗し処刑される1355年頃 - ブオナミーコ・ブファルマッコによるピサ・カンポサント連作フレスコ画死の勝利」。 1356年 - 【ドイツニュルンベルクメッツ帝国議会において神聖ローマ皇帝カール4世金印勅書発布1357年 - 枢機卿アルボルノスが一時教皇代理解任される。その直後彼の指揮ファーノ議会開かれ教皇へ服従・各領地自治などが決められるファーノ憲章)。 1358年 - 枢機卿アルボルノスが再び教皇代理となり教皇領回復着手( - 1364年)。 1358年 - ヴェネツィア支配脱しドゥブロヴニクラグーザ共和国として自立1358年 - 【オーストリアルドルフ4世建設公)がオーストリア大公自称する( - 1365年)。ハプスブルク家大公格上げしシュテファン大聖堂1359年完成)、ウィーン大学1365年創設)の建設推進1358年 - 【フランスパリでのエティエンヌ・マルセル反乱フランス東北部でのジャックリーの乱1358年 - 【オーストリアウィーンにてスコラ哲学者であるリミニグレゴリウス死去1358年 - 【フランス】「ビュリダンのロバ」や「インペトゥス理論」で知られるスコラ哲学ジャン・ビュリダン死去1359年 - レオンツィオ・ピラートがボッカッチョ招かれフィレンツェ大学ギリシア語講座開設1359年 - オルカーニャによるオルサンミケーレ教会のタベルナクル(天蓋付き壁龕)。 1359年 - 【ドイツフライブルクフランシスコ会修道士ベルトルト・シュヴァルツ黒色火薬発明か。 1360年頃 - 【ドイツ】「レットゲンのピエタ(ボン・ライン州立美術館)」が作られる1361年 - 教皇不在ローマでラテラノ宮殿炎上1307年大火に続く不祥事宮殿荒廃が進む。 1361年 - パヴィア大学創建1361年 - 盲目音楽家フランチェスコ・ランディーニフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院オルガニストとして雇われる1361年頃 - 2度目ペスト大流行(ペスティス・セクンダあるいはペスティス・プエロルム(子供ペスト))(→1348年頃)。 1362年 - 教皇インノケンティウス6世死去教皇ウルバヌス5世即位 1364年 - アルボルノスが教皇代理解任され引退引退後オルヴィエートナルニなどイタリア各地要塞建造1364年 - カッシナの戦いで、フィレンツェピサ勝利1365年 - サヴォイア伯十字軍1366年 - ペトラルカ教皇ウルバヌス5世宛てローマへの帰還勧める書簡を送る(『老年書簡集所収)。 1367年 - 教皇ウルバヌス5世アヴィニョンからローマへ帰還する。しかしこの滞在一時的なものであり、1370年には教皇は再びアヴィニョン戻り同年その地で死す1367年 - 教皇ローマ入り目前ヴィテルボにて枢機卿アルボルノス死去。その死を悼んで音楽家ヨハンネス・チコーニア(父)がバッラータ「涙を浮かべて」を捧げる1368年 - アンドレア・ダ・フィレンツェによるフィレンツェサンタ・マリア・ノヴェッラ教会壁画教会伝道勝利完成1366年 - ) 1368年頃 - イングランド詩人チョーサーイタリア渡りペトラルカ交友関係を結ぶ。チョーサーペトラルカ影響からイタリア式十四行詩ソネットイギリス文学導入し英詩の父」と呼ばれる1369年 - 【ブルゴーニュブルゴーニュ公フィリップ豪胆公とフランドル女伯マルグリット3世結婚。この結婚により1384年には夫妻ブルゴーニュフランドル支配権獲得、ここが「北方ルネサンス」の舞台となる。 1369年頃 - 3度目ペスト大流行(ペスティス・テルティア)(→1348年頃) 。 1370年 - 教皇ウルバヌス5世死去(→1367年)、アヴィニョンにて教皇グレゴリウス11世即位1370年 - 東ローマ帝国皇帝ヨハネス5世イタリア訪問中、負債問題ヴェネツィアにて拘束されるヴェネツィア元首アンドレア・コンタリーニ多額身代金受け取ることで、翌1371年ヨハネス5世釈放1371年 - 【フランス】ジャン・ド・マンデヴィル『東方旅行記』の最古写本1372年 - ピサの斜塔完成1173年 - )。 1373年 - 女性神秘家のスウェーデンのビルギッタローマで死去1391年列聖)。ローマでビルギッタとともに暮らしていた娘のカタリナ遺骨スウェーデン持ち帰りヴァドステーナ修道院埋葬する1374年 - ペトラルカ死去1375年 - 八聖人戦争で、フィレンツェローマ教皇庁が戦う( - 1378年)。 1375年 - ボッカッチョ死去1376年 - ドミニコ会修道女シエナのカタリナ教皇グレゴリウス11世ローマへの帰還促す(→1377年)。 1376年 - 【イングランドジョン・ウィクリフが『俗論』を執筆しローマ教皇権威権力否定以後その主張ロラード派生み出し1381年ワット・タイラーの乱指導者ジョン・ボールにも影響する1377年 - 教皇グレゴリウス11世ローマ帰還教皇庁アヴィニョン捕囚終わる(1308年 - )。 1377年 - チェゼーナ大虐殺枢機卿ロベール・ド・ジュネーヴ(後の対立教皇クレメンス7世)の指示ジョン・ホークウッド部隊実施。 この時期イングランド人ホークウッドなど傭兵隊長(コンドッティエーレ)が外国人部隊指揮しイタリア各地蹂躙1377年 - アルベリコ・ダ・バルビアーノがイタリア人だけの傭兵部隊「サン・ジョルジョ軍団」を結成1377年 - 【フランスアルス・ノーヴァ代表者でありノートルダム・ミサ曲を手がけたギヨーム・ド・マショー死去1377年頃 - 【イングランドウィリアム・ラングランド農夫ピアズの夢』。 1378年 - 教皇グレゴリウス11世死去、その後教皇選挙コンクラーヴェ)が紛糾教会大分裂始まり( - 1417年)、ローマ派の教皇ウルバヌス6世と、アヴィニョン派の教皇クレメンス7世対立1378年 - フィレンツェチョンピの乱起こる( - 1382年)。サルヴェストロ・デ・メディチが「正義の旗手」に選ばれ一時的に毛織物業労働者など下層民衆英雄祭り上げられる。 1378年 - チョーサー密命帯びてイタリアに渡る、ミラノヴィスコンティ家傭兵隊ジョン・ホークウッド接触したか。 1379年 - アルティキエーロによるパドヴァのサンタントニオ大聖堂フレスコ壁画完成1380年 - シエナのカタリナ死去1461年列聖)、残され多く書簡初期トスカーナ文学代表する1381年 - キオッジャの戦いヴェネツィアジェノヴァ勝利して海上覇権を握る1379年 - )。 1382年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世又従弟カルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺されるカルロ暗殺命じたのはハンガリー王ラヨシュ1世カルロカルロ3世としてナポリ王位に就く。 1382年 - 【フランス数学者天文学者であり、国王シャルル5世貨幣改革理論家として活躍したニコル・オレーム死去1385年 - チョンピの乱鎮圧されサルヴェストロ・デ・メディチミケーレ・ディ・ランドフィレンツェから追放される(→1378年)。 1385年 - ミラノのジャン・ガレアッツォが叔父のベルナボを失脚させ、ミラノの完全な支配権手中に収める以後ミラノによる北イタリア統一が進む(1387年ヴェローナ1399年ピサシエナ1402年ボローニャペルージア)。 1385年 - ナポリ王カルロ3世ラヨシュ1世亡き後ハンガリー王迎え入れられるカーロイ2世)。しかし翌1386年カルロ3世は、反対派であるラヨシュ1世未亡人エリザベタ・コトロマニッチ暗殺される1386年 - ミラノ大聖堂建設開始( - 1813年)。 1386年 - 【ポーランドリトアニア大公ヤギェウォ(ヨガイラ)とポーランド女王ヤドヴィガ結婚によるヤギェウォ朝成立1386年 - 【ドイツハイデルベルク大学創建1387年頃 - 【イングランドチョーサーカンタベリー物語執筆開始( - 1400年未完)。 1388年 - アッチャイオーリ家のネリオ1世アテネ公となる。アッチャイオーリ家フィレンツェ名家で、以後オスマン帝国支配されるまで同家アテネ公位を継承( - 1458年)。 1389年 - ローマ派の教皇ウルバヌス6世死去後継ボニファティウス9世ボニファティウス9世歴代教皇唯一二度聖年1390年1400年)を行う。またこの際贖宥状初め発行した1380年代 - アーニョロ・ガッディがフィレンツェ・サンタ・クローチェ聖堂聖歌隊席のフレスコ画完成させる1390年 - 傭兵隊長のジョン・ホークウッドフィレンツェ総司令官となる(→1377年)。ミラノのジャン・ガレアッツォの行軍食い止めフィレンツェ独立死守(→1436年)。 1391年 - フェラーラ大学創建1391年 - 教皇庁付歌手でもあったアントニオ・ザッカーラ・ダ・テーラモが、教皇ボニファティウス9世秘書官となる。 1391年頃 - コルッチョ・サルターティヘラクレス功業について』。 1394年 - アヴィニョン派の教皇クレメンス7世死去後継ベネディクトゥス13世1395年 - ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォがミラノ公になりミラノ公国成立(→1385年)。 1395年 - サケッティ『短編小説三百篇』。 1395年頃 - 【イングランドウィルトンの二連祭壇画ロンドン・ナショナル・ギャラリー)( - 1399年)。 1396年 - 【ブルガリアニコポリスの戦い。ヴェネツィア・ジェノヴァを含むキリスト教諸国軍がオスマン帝国軍大敗東ローマ帝国危機(→1399年)。 1396年 - ギリシア人マヌエル・クリュソロラスがフィレンツェ招聘される。招聘したのはコルッチョ・サルターティで、これによりフィレンツェギリシア語講座開設される1397年 - 1400年)。 1397年 - ジョヴァンニ・ディ・ビッチが「ローマ商会本店出身地フィレンツェに移す(事実上メディチ銀行発足)。 1397年 - 【デンマーク・ノルウェー・スウェーデン】北欧三国カルマル同盟結ばれる( - 1523年)。この実質的な同君連合中心デンマーク王マルグレーテ1世1398年 - フランスアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世支持撤回。ジョーフレ・ブシコーの率いる軍がアヴィニョン教皇宮殿包囲し教皇篭城1403年まで5年間続く。 1399年 - 東ローマ皇帝マヌエル2世オスマン帝国対す救援依頼のためイタリアを含む西欧各地歴訪( - 1402年)。皇帝マヌエル2世は、パレオロゴス朝ルネサンス呼ばれる最末期ビザンティン文化代表する文人でもある。 1399年 - 【ブルゴーニュメルキオール・ブルーデルラムディジョンの祭壇画」(旧シャンモル修道院)(1393年 - )。

※この「1300年 - 1399年」の解説は、「イタリア・ルネサンス年表」の解説の一部です。
「1300年 - 1399年」を含む「イタリア・ルネサンス年表」の記事については、「イタリア・ルネサンス年表」の概要を参照ください。

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