カール4世 (神聖ローマ皇帝)とは? わかりやすく解説

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カール4世 (神聖ローマ皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 13:46 UTC 版)

カール4世ドイツ語: Karl IV.1316年5月14日 - 1378年11月29日)は中世後期ルクセンブルク家2人目の神聖ローマ帝国皇帝[1][注釈 1]ルクセンブルク朝第2代ボヘミアカレル1世チェコ語: Karel I., 在位:1346年 - 1378年)としても著名。文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される[2]金印勅書の発布やプラハ大学の創設、教皇ローマ帰還への尽力などで知られる。チェコで流通している100コルナ紙幣に肖像が使用されている。フランスで養育された当時はシャルルフランス語: Charles)といった。同じくフランス語を母語として育ったローマ皇帝ハインリヒ7世(アンリ)の孫で、父はその嫡子ボヘミア王ヤン(ジャン、ヨハン)、母はボヘミア及びポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカ


注釈

  1. ^ 「神聖ローマ皇帝」は歴史学的用語で実際の称号ではない。
  2. ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアブルグントへの宗主権を備える。
  3. ^ 既に領土の大半をフランス王族が相続していた。その他ブルゴーニュ伯スイスは既に王権下になく、残るサヴォワは事前にブルグント王国から切り離された。
  4. ^ 1306年以降、ハプスブルク家出身のルドルフ(1306年 - 1307年)とケルンテンインジフ(ハインリヒ、1306年、1307年 - 1310年)とが争い、ルドルフの死後にインジフを廃してルクセンブルク家のヨハンが即位した。
  5. ^ 詩人ペトラルカは、アヴィニョンを「西方のバビロン」と呼び、教皇のアヴィニョン滞在を『旧約聖書』に記されたバビロン捕囚になぞらえた。また、しばしば教皇クレメンス6世に対し、ローマへの帰還を訴えていた。
  6. ^ 教皇派はゲルフ(グエルフィ)、皇帝派はギベリン(ギベッリーニ)と称された。なお、シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』は教皇派と皇帝派に分かれて対立したイタリアの2つの名家をモデルにしているといわれる。
  7. ^ 神曲』の作者として著名なフィレンツェのダンテ・アリギエーリは、シャルルの祖父であるローマ皇帝ハインリヒ7世に普遍的帝国再建の夢を託した。ハインリヒ7世は1310年から1313年にかけてイタリアに遠征している。
  8. ^ 聖ヴィート大聖堂は、マテューの死後はチェコ人ペトル・パルレーシュによってほぼ完成をみた。
  9. ^ プラハ大司教座はかつてプラハ城外西側にあり、聖ヴィート大聖堂とは城壁をへだてて近接していた。
  10. ^ カール4世はこの時、1.ルートヴィヒ4世が皇帝として実施したすべての政策の無効と取り消しを宣言すること、2.皇帝即位に際し教皇の裁可を仰ぐこと、3.空位期間における教皇の帝国統治権や皇帝代理任命権を認めること、4.独仏間のあらゆる係争に関して教皇を仲裁人とすること、5.ナポリ王国シチリア王国への教皇の宗主権を認めること、6.皇帝が教皇領を通過するのは皇帝戴冠式に限ること、また、戴冠後は早急にローマを立ち去ること、を受け入れている。
  11. ^ ボヘミア領内貴族の身分制議会である。
  12. ^ このようなカール4世の矛盾する態度は、当時はまだ神聖ローマ帝国での立場が不安定であったため積極的な行動に出られなかったという見方がある半面、これを混乱にともなう不可避なこととして逆に利用して将来の帝国経営に役立てたのではないかとの見方がある。
  13. ^ 1356年、カール4世の異母弟ヴェンツェルは、その妻の所領であるネーデルラントブラバント公国の等族と「ジョワユーズ・アントレー(歓呼の入市)」として著名な協約を結んだ。これは、等族の特権を確認することとなった身分制的=等族的な国法として知られる。
  14. ^ 1346年のクレシーの戦いのみならず1356年のポワティエの戦いでもイングランドが大勝し、フランスは敗北を喫した。
  15. ^ 七選帝侯については13世紀代の法書「ザクセン・シュピーゲル」にその原型が記されている。同書にあっては当初ボヘミア王は除外されていたが、1237年コンラート4世の選挙には参加し、そののち世俗選帝侯筆頭格として選帝侯グループに加わることとなった。
  16. ^ マインツは帝国大宰相、トリーアはブルグント王国大宰相、ケルンはイタリア王国大宰相、ボヘミアは献酌侍従長、プファルツは大膳頭、ザクセンは式部長、ブランデンブルクは侍従長であった。
  17. ^ 1370年にはハンザ同盟はデンマークと戦い、これに勝利している。
  18. ^ 大プラハ建設の布告とともに開かれた議会で出された証書には「ボヘミア王国はドイツ王国の中で高貴な部分」と記している。
  19. ^ ヨーロッパで最も美しい橋の一つといわれ、後世、左右両側の欄干に15ずつ(計30)の聖人像が飾られた。聖ヴィート大聖堂やプラハ城のある西岸のマーラ・ストラナ地区と旧市庁舎やプラハ大学のある東岸を結ぶ。
  20. ^ カール4世のボヘミア優先政策は「カールはボヘミアにブドウイチジクを植えている」と批判された。これについては、ペトラルカもカール4世に対し抗議の手紙を送っている(ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策を参照)。
  21. ^ 中世ヨーロッパで盛行した法廷外での係争処理制度。

参照

  1. ^ 世界大百科事典 第2版の解説”. コトバンク. 2018年2月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 坂井(2003)pp.63-66
  3. ^ a b c d e f g h i j 坂井(2003)pp.55-57
  4. ^ a b c d e トレモリエール&リシ(2004)pp.404-406
  5. ^ a b c d e 魚住(1995)pp.110-113
  6. ^ a b c d e ピーターズ(1980)pp.184-185
  7. ^ a b c d e 梅田(1958)pp.240-241
  8. ^ a b c d 菊池(2003)pp.152-162
  9. ^ a b c d 坂井(2003)pp.58-62
  10. ^ a b c 成瀬(1956)pp.81-84
  11. ^ 柴田治三郎責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社1966、79頁上・下。
  12. ^ a b c d 佐藤・池上(1997)pp.326-327
  13. ^ 『クロニック世界全史』(1994)p.337
  14. ^ a b 成瀬(1956)pp.84-85
  15. ^ ロバーツ(2003)p.211
  16. ^ a b c d e 菊池(2003)pp.162-172
  17. ^ 柴田治三郎責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社1966、260頁。
  18. ^ 柴田治三郎 責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社 1966、345頁注2。


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