教皇宮殿とは? わかりやすく解説

教皇宮殿

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教皇宮殿

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アヴィニョン歴史地区」の記事における「教皇宮殿」の解説

教皇宮殿は、かつてアヴィニョン教皇庁がおかれていた時に建造され宮殿である。フランス革命期の略奪によって内装寂しいものとなってしまったが、現存するヨーロッパ中世ゴシック様式建築物の中では最大級を誇る重要なのであるアヴィニョンいわゆる教皇アヴィニョン捕囚時代1309年 - 1377年)には教皇座所として機能した現存する宮殿は、元々アヴィニョン司教宮城があったローヌ川を望むアヴィニョン北縁に建造されたものである1335年から1364年までの約30年及んだ建築は、趣の異な二つ区画分かれるいわゆる旧宮殿(パレ・ヴィュー)と新宮殿(パレ・ヌフ)である。両区画完成時面積は11000km2という広大なもので、当時教皇収入多く部分がつぎ込まれた。 旧宮殿は、教皇ベネディクトゥス12世の命で、ミルポワのピエール・ポワソンが手がけた。厳格なベネディクトゥス司教宮を取り壊し回廊重厚な防壁備えたより大きな宮殿を造らせた。この宮殿四つの翼棟を持ちそれぞれから高い塔が伸びている。 クレメンス6世インノケンティウス6世ウルバヌス5世時代に、現在新宮殿として知られる部分増築が行われた。これはクレメンス6世の命でジャン・ド・ルーヴルが手がけた。そこには教皇礼拝使われ長さ52メートル(高さ20メートル)の大礼拝室なども含まれるその後インノケンティウス6世ウルバヌス5世のときに二つの塔作られた。旧宮殿だけの時には開かれていた前庭は、増築され新宮殿取り囲むような形になったために、事実上中庭になったクレメンス6世華美好んだため、イタリアからシモーネ・マルティーニやマッテオ・ジョヴァネッティを招いて内装豪奢に飾らせた。このため旧宮殿飾りのなさとは対照的に新宮殿フレスコ画タペストリー絵画彫刻などで華やかに彩られた。 1377年教皇庁は再びローマ戻ったが、続く教会大分裂期に対立教皇であるクレメンス7世ベネディクトゥス13世が、この教皇宮殿を1408年まで座所とした(ただし、ベネディクトゥス13世1398年からおよそ10年間、宮殿内幽閉状態だった)。その後少しの間宮殿対立教皇の手にあったが、1433年ローマ教皇庁財産となった宮殿その後もおよそ350年にわたり、周辺アヴィニョン市やヴナスク伯領とともに教皇庁管理にあったその間1516年修復などもあったものの、徐々に劣化していった。フランス革命起こった1789年には、この宮殿は既に酷い状態になっており、革命派破壊略奪拍車をかけた。その後一部獄舎転用されていたが、1791年には投獄されていた反革命派が虐殺され、その死体旧宮殿のラトリヌ塔に投棄されという事件も起こったナポレオン・ボナパルトフランス皇帝ナポレオン1世)の治世下でも引き続き獄舎兵営として用いられていた。最終的に兵営撤去されたのは1906年のことであり、それまでの間、なおも破壊略奪さらされた。 現在は国営ミュージアムとして修復が行われており、大部分一般公開されている。ただし、長い年月破壊略奪結果最盛期様子伝え当時調度品などはほとんどが散逸してしまっている。 なお1947年以降は、毎年開催されているアヴィニョン演劇祭メイン会場となっている。 教皇宮殿(左)と広場 斜め正面から見た教皇宮殿 回廊 大礼拝室

※この「教皇宮殿」の解説は、「アヴィニョン歴史地区」の解説の一部です。
「教皇宮殿」を含む「アヴィニョン歴史地区」の記事については、「アヴィニョン歴史地区」の概要を参照ください。

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