列聖
列聖
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死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まった。1914年6月10日、教皇ピウス10世はテレーズの列聖調査を進める宣言に署名した。ベネディクトゥス15世は、通常死後50年たたないと列聖はできないという条件を、テレーズに限って特別に緩和することを決定、これは異例のことであった。1925年、テレーズは死後わずか28年にして教皇ピウス11世の手で列聖される。4人の姉たちはみな長命であったため、実の妹がカトリックの福者、聖人に挙げられてゆくのを目の当たりにすることになった。またうち2、3人はテレーズの列聖を積極的に支援する活動をした。 リジューのテレーズは病人、パイロットや花屋、宣教師、ロシアの他に、子どもや弱い者の守護聖人になっている。彼女はジャンヌ・ダルクに次いでフランスの第2の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから、1927年には海外宣教者の守護聖人となった。1997年10月19日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって深い霊性と思想がたたえられて「教会博士」に加えられた。教会博士の称号を与えられている聖人は女性としてはアビラのテレサ、シエナのカタリナに続いて3人目である。(4人目はヒルデガルト・フォン・ビンゲン) テレーズの名が広く知られることになったのは、彼女の自伝ともいうべき『ある霊魂の物語』(日本語版の題名『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』)が多くの読者を得たためであった。これは修道会では入会者に自分の半生を振り返る記録を提出させる習慣があったため、それを編集したものである。日本ではパリ外国宣教会のシルベン・ブスケ神父により初めて翻訳され、1911年9月に出版された。普及版は姉のポリーヌが徹底的な編集をおこなったものが元になっているが、近年ではよりオリジナルに近いものが発表されている。ほかにもテレーズの書簡集なども出版されている。
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母マリヤはコンスタンディヌーポリ総主教庁の聖シノドにより2004年1月16日に列聖された。2004年5月1日と5月2日に行われたパリのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂での列聖式では、母マリヤとともに、ドミートリー神父、ユーリ、そしてイリヤ・フォンダミンスキーが列聖された。彼等の記憶日は7月20日である。
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「キンガ (ポーランド王妃)」の記事における「列聖」の解説
ローマ教皇アレクサンデル8世は、1690年にキンガを列福した。1695年、キンガはポーランド及びリトアニアの守護聖人とされた。1999年6月16日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。 スタルィ・ソンチ(英語版)の修道院にあるキンガの像 トジ・コロヌィ(英語版)近郊のキンガ像 ノヴィ・コルチニ(英語版)にある19世紀のキンガ像 聖キンガ
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「ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ」の記事における「列聖」の解説
同時期に長崎で殉教したドミニコ会関係者らとともに、「聖トマス西と15殉教者」として1981年2月18日に福者に列せられ、6年後の1987年10月18日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。
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「エリザベス・アン・シートン」の記事における「列聖」の解説
エリザベス・アン・シートンは1963年3月17日、教皇ヨハネ23世によって 列福された。この時教皇演説は「とても小さな家の中でも、そこは慈悲深い行いをするのには十分なスペースである。エリザベス・アン・シートンがアメリカに蒔いた種は神の恵みにより大きなきに成長した。」というものだった。 1975年9月14日には教皇パウロ6世によって 列聖され、それを祝う式典で の教皇の言葉は「エリザベス・アン・シートンは、聖人であり、聖エリザベス・アン・シートンはアメリカ人である。私たち全ては特別な喜びを持ち、そして、聖人暦の中の最初の花として彼女を輩出した国土と国家を称え、このように言う。エリザベスシートンは、完全にアメリカ人である!あなたの素晴らしい娘を喜び祝いなさい。彼女を誇りに思いなさい。そして彼女が実らせた遺産をどのように保つか、その方法を知っておくようにしなさい。」 聖エリザベス・アン・シートンの祝日は1月4日である。 エリザベス・シートンは航海による旅人の保護聖人である。
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「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の記事における「列聖」の解説
ヤドヴィガはその死後間もなく、ポーランドで多くの人々に聖女として崇敬を受けるようになったが、列福は1980年代に入ってからで、1997年にポーランド人教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。 ヤドヴィガに関する多くの伝説と奇跡が数えられて正当化されたが、特に有名なのが「ヤドヴィガの十字架」と「ヤドヴィガの足」の2つである。ヤドヴィガはヴァヴェル大聖堂の北側の翼にかかった大きな黒い十字架像を好み、しばしば祈りを捧げていたが、祈る間、十字架に磔になっているイエス・キリストが女王に話しかけていたといわれるのが前者であり、十字架は聖遺物とされた。 後者の伝説は、ある時貧しい石工に施しを求められたとき、女王の足から沢山の宝石が現れたというもので、ヤドヴィガが立ち去った後、石工は自分の仕事場の床のまだ柔らかい漆喰部分に女王の足跡が残っているのを見つけたとされる。この足跡のついた漆喰はクラクフのある教会が保存しており、今も見ることが出来る。1979年6月8日、ヨハネス・パウロ2世はヤドヴィガの棺を訪れ、1986年8月8日に典礼秘跡省によって福者とされて、1997年6月8日に公式に聖女になった。 ヤドヴィガの遺骸は3回掘り起こされている。最初は17世紀、彼女の埋葬場所の隣に司教の棺を納めるためであった。2回目は1877年で、ヤドヴィガの完全に白骨化した遺骸がマントと帽子を身に着けた姿で発見された。画家ヤン・マテイコは、彼女の頭蓋骨を模写し、これを元に肖像画を作成した。3回目は1949年、白大理石の彫像付き石棺に遺骸を移すために掘り起こされた。この石棺は著名な美術品蒐集家カロル・ランツコロンスキ伯爵が、1902年にアントニ・マデイスキという彫刻家に注文して作らせていたもので、石棺の上の彫像の足元には「忠誠」を象徴する犬が彫刻されている。 この石棺は、ヴァヴェル大聖堂内の多くの彫像付き石棺とは反対の西側を向いて横たわっている。また、以前に遺骸の収められていた石棺の隣には、木で出来た上品な宝珠と王笏が飾られている。
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「プラハのアダルベルト」の記事における「列聖」の解説
アダルベルトが殉教してわずか数年後には、列聖されていた。999年、シルウェステル2世により列聖されたとされる。彼の遺骸をプルーセン人から買い取ることを、当時のボヘミア公ボレスラフ2世はアダルベルトの父スラヴニク公と激しく対立していたプシェミスル家出身の公であったため、拒んでいた。そこで、アダルベルトの生前の最大の支援者であったポーランド公ボレスワフ1世が遺骸と同じ重さの金という途方もない高額をプルーセン人に支払うことでキリスト教社会のポーランドへ取り戻した。そのためにアダルベルトの遺骸すなわち聖遺物はポーランド最初の大司教座であるグニェズノのグニェズノ大聖堂に収められた。この行為はボレスワフ公の地位がヨーロッパで上がるのに一役買うことになった。 ポーランド王国のボレスワフ1世王(ボレスワフ公は1025年にポーランド王となっていた)の死後まもない時期の1039年、当時のボヘミア公ブジェチスラフ1世(en:Bretislaus I of Bohemia)は聖アダルベルトの聖遺物をグニェズノから取り戻し、プラハへ持ってこさせたとされる。ところが、実際のところはポーランド人がチェコ人の態度を警戒して遺体を隠しその一部だけをチェコ人に渡したのだとも言われている(ポーランドの書物 Roczniki Polskie による)。実際のところ1000年にボレスワフ王が神聖ローマ皇帝オットー3世にアダルベルトの腕の骨一本を渡しており、その骨は1928年になってグニェズノで保管されている聖遺物の中に加えられた。 現在、聖アダルベルトの墓は、ポーランド・ポズナン近郊のグニェズノ市にあるグニェズノ大聖堂とチェコ・プラハの聖ヴォイテク教会の2箇所にある。これに関しては、アダルベルトをボヘミアから追い出しておきながら、後になってその聖遺物を返せと言い出したチェコ人の態度に呆れ返っていたポーランドのカジミェシュ1世が、まったく別人の遺体を聖遺物だと称してチェコ人に渡したと伝えられており、これは 「ポーランド年代記」 の記述と整合しうる。実際に聖アダルベルトのものとされる頭蓋骨がポーランドのグニェズノ大聖堂とチェコのプラハの教会の2箇所にある。 典拠管理 WorldCat Identities BNE: XX1312781 BNF: cb12356938m (データ) GND: 118646850 ISNI: 0000 0001 1029 3669 LCCN: n86042880 NKC: jn20000720322 SELIBR: 174790 SUDOC: 032563663 VIAF: 262489815
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「ヴァンサン・ド・ポール」の記事における「列聖」の解説
1705年にラザリスト会の総長は、列聖調査を開始するよう要請した。1729年8月13日、教皇ベネディクトゥス13世によりヴァンサン・ド・ポールは列福された。約8年後の1737年6月16日に、教皇クレメンス12世により列聖された。1885年、教皇レオ13世は愛徳修道女会の守護聖人とした。彼はまた、愛徳兄弟会の守護聖人でもある。 彼の死から53年後の1712年に遺骸は掘り出された。証言によれば、彼の眼と鼻のみがある程度の腐敗を見せていたという。1737年の列聖の最中に再び掘り出されたときは、地下の浸水により、腐敗しているのが見つかった。彼の遺骨は蝋人形の中に入れられ、パリにあるラザリスト会の本部のチャペルにあるガラス製の聖遺物容器の中に展示されている。彼の心臓は未だに腐敗してはおらず、こちらはパリのヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会のチャペルの聖遺物容器の中に展示されている。 1737年、彼の祝日はローマ典礼暦で7月19日に含まれていたが、それは彼の死去日がすでに他の聖人である聖コスマスと聖ダミアヌス(フランス語版)の祝日に当てられていたからであった。元は二級祝日として祝われていたが、1960年には3級祝日と同等に格下げとなった。 教皇パウロ6世は聖人が西側ではより知られているので、彼の祝日を9月27日に移し、代わりに聖コスマスと聖ダミアヌスを9月26日に移動した。また、彼は英国国教会と米国聖公会で崇敬されており、その祝日は9月27日である。
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列聖
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1667年、ローマ教皇クレメンス9世により列福され、1671年に教皇クレメンス10世により最初のアメリカ大陸の聖人として列聖された。友人マルティン・デ・ポーレス、アロンソ・アバドらが、リマのサント・ドミンゴ修道院内に彼女の礼拝堂を建てた。カトリック教会は、彼女の死によって多くの奇跡が起きたと認定している。新世界におけるサンタ・ローザという地名は、この聖人を追憶するものである。 教皇ベネディクト16世はこの聖人に特別な献身を捧げた。 わたしたちは土曜日(8月23日)にリマの聖ローザ(1586-1617年)に祈ります。リマの聖ローザはラテンアメリカ大陸で最初に列聖された聖人であり、ラテンアメリカ大陸の第一の守護聖人です。聖ローザはしばしば繰り返してこういいました。「人々が恵みのうちに生きるとはどういうことかを知ったなら、どんな苦しみを恐れることもないでしょう。そして、どんな苦難にも進んで耐えるでしょう。恵みは忍耐が生み出す実だからです」。聖ローザは挫折と苦しみに満ちた短い生涯の後、1617年に31歳で亡くなりました。それは聖バルトロマイ使徒の祭日(8月24日)でした。聖ローザは聖バルトロマイを深く崇敬していました。聖バルトロマイは特別に苦しみに満ちた殉教を遂げたからです。 — 教皇ベネディクト16世の146回目の一般謁見演説「八月の聖人たち」、カトリック中央協議会 ローザの帰天日である8月24日は十二使徒の一人である聖バルトロマイの祝日でもあるため、典礼暦におけるリマのローザの祝日は、ペルーを除く他のラテン・アメリカ諸国では8月23日としているが、ペルーの国民の祝日では伝統的な8月30日のままである。 リマのローザの聖地であるサント・ドミンゴ教会・修道院のある地区は、1988年に「リマ歴史地区(英語版)」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録されている。
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「エドマンド・キャンピオン」の記事における「列聖」の解説
エドマンド・キャンピオンは1886年12月9日、教皇レオ13世によって列福された。福者となったキャンピオンは84年後の1970年、教皇パウルス6世により、イングランド及びウェールズの40殉教者の一人として列聖された。40殉教者の祝日は10月25日であるが、キャンピオン個人の祝日は殉教した12月1日と定められた。 キャンピオンの処刑時に実際に使われた縄は、現在ランカシャーのストーニーハースト・カレッジ(en:Stonyhurst College)に置かれ、ガラス製の筒型容器の中に保管されている。この縄は毎年、キャンピオンの祭日にセント・ピーター教会で行われるミサに際し、祭壇に展示される。
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「フォリーニョのアンジェラ」の記事における「列聖」の解説
2013年10月9日、ローマ教皇フランシスコ (ローマ教皇)が列聖した。
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1935年にカトリック教会の殉教者としてモアと同じ1535年の6月22日に処刑されたジョン・フィッシャーとともに死後400年で列聖されており、記念日は6月22日である。政治家と弁護士の守護聖人となっている。
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「ジュゼッピーナ・バキタ」の記事における「列聖」の解説
バキタは1947年2月8日に帰天。3日間、彼女の遺体が安置され、何千もの人々が彼女に敬意を払いにやってきた。彼女を列聖してほしいという声がすぐに起こり、彼女の死からわずか12年後の1959年に審査が開始された。1978年12月1日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、バキタを列聖の最初の段階である尊者とした。1992年5月17日に列福され、2000年10月1日、列聖された。
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「ラファエル・アルナイス・バロン」の記事における「列聖」の解説
マリア・ラファエルの短い生涯における、短期間に高められた、極めて透徹した霊性を世間に知らしめたのは、その母であるメルセデス・バロンの功績によるところが大きい。彼女は、マリア・ラファエルの書簡集・ノートを遺稿集としてまとめ発行した。彼女は、マリア・ラファエルと娘メルセデス、夫ラファエルに先立たれ、1957年に死亡した。 マリア・ラファエルが敬愛した伯父レオポルド・バロン・マケダ公爵は、彼の小伝を、『トラピストの秘密』として出版した。 彼の伝記と遺稿集は、各国語に翻訳され静かな感動を呼んだ。便利で快適な都市生活を謳歌する典型的な現代の青年が、修道院の暖房器具もない木の固いベッドで生活し、一日中沈黙の戒律を守る生活を選び取るまでの軌跡、そして、不治の病の中で、ただひたすら神への賛美に生きる、その研ぎ澄まされた感覚と霊性は、そのこと自体が奇跡的ですらある。 その後、1960年代に、列聖運動がおこる。マリア・ラファエルのとりつぎとされる、いくつかの奇跡が報告され、ついに、1992年9月27日にヨハネ・パウロ2世によって列福され、「今日のキリスト者青年の一つのモデル像」と紹介された。その列福式の場には、実弟のフェルナンド(シャルトルーズ会修道士)の姿もあった。 2009年10月11日に、ベネディクト16世によって列聖された。列聖後の「聖ラファエル・アルナイス」は、糖尿病患者、世界青年の日、ワールドユースデーの守護聖人とされている。 聖イシドロ修道院は、2011年彼らの兄弟である聖人の生誕100周年を祝った。
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列聖
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リヒャルディスは後に列聖され、その遺骸は1049年11月に教皇レオ9世により、修道院教会に新たに建設されたより立派な墓に改葬された。現在の墓は1350年以降のものである。 リヒャルディスはアンドーおよび火からの保護に関する守護聖人である。リヒャルディスの宗教画は、皇后で修道女、および火による神明裁判を表している。また、熊やすきの刃はアンドー修道院の創建にまつわる伝説を表している。
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「ジャンヌ・ド・フランス (1464-1505)」の記事における「列聖」の解説
ジャンヌはブールジュにおいてフランシスコ会の女子修道会であるアノンシアード(受胎告知)女子修道会(Sœurs de l'Annonciade)を創立した。 18世紀にローマ教皇ベネディクトゥス14世によって福者に、20世紀にピウス12世によって聖者に列せられている。
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「ヨゼフ・フライナーデメッツ」の記事における「列聖」の解説
フライナーデメッツとアーノルド・ヤンセンは、共に教皇パウロ6世によって、神言会創立百周年に当たる年の1975年10月19日に列福された。 その後、1987年3月に南山大学に在学していた男子学生が白血病で危篤となったが、フライナーデメッツの取次により完治したことが調査で正式に認定され、再びアーノルド・ヤンセンと共に、2003年10月5日に教皇ヨハネ・パウロ2世により、聖人の列に加えられた。
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「ジャン=マリー・ヴィアンネ」の記事における「列聖」の解説
1874年10月3日、教皇ピオ9世は、彼が尊者であることを宣言した。1905年の1月8日に教皇ピオ10世は列福を宣言し、教区の聖職者の模範となることを提唱した。1925年5月31日に教皇ピオ11世は彼を聖人の位に上げ、その祝日を8月8日に割り当てた。1928年には2級の祝日としてローマ典礼暦に入れられた。彼は1929年に教区司祭の保護聖人となった。1960年には3級の祝日に格下げとなり、トリエント・ミサ用の1962年版のローマ典礼暦では、そのように祝われている。教皇パウロ6世による聖人の記念日は8月4日である。聖人の死後150周年を記念し、教皇ベネディクト16世は、2009年6月から2010年6月までの1年を司祭年であると宣言した。 20世紀フランスの代表的なカトリック作家の一人であるジョルジュ・ベルナノスの代表作『田舎司祭の日記』(1936年)は、このヴィアンネの生涯をモデルにしている。
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詳細は「ジャンヌ・ダルク列聖」を参照 ジャンヌは16世紀にフランスのカトリック同盟の象徴となっていった。1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー(英語版)がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会で崇敬されているもっとも有名な聖人の一人となっていった。
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列聖
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2008年、生後間もなく難病を患った乳児が福者マルタン夫妻の取り次ぎによる奇跡で治癒されたのを確認され、2015年10月18日、ローマ教皇フランシスコにより列聖。夫婦揃っての列聖はカトリック教会史上初である。
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「マルグリット・マリー・アラコク」の記事における「列聖」の解説
マルグリットの死後、列聖調査が開始された。途中、フランス革命で中断されたが精密な調査の末、1864年にローマ教皇ピウス9世によって列福され、1920年5月13日にローマ教皇ベネディクトゥス15世によって列聖された。祝日は10月16日である。
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「マキシミリアノ・コルベ」の記事における「列聖」の解説
1971年10月17日にパウロ6世によって列福され、1982年10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。列福式および列聖式の場には、コルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった。ガイオニチェクは奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、93歳の天寿を全うするまで、コルベに関する講演を世界各地で続けていた。1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。1982年、ポーランドでは“鉄条網を背後に収容者服姿”の図案の記念切手が発行された。ジャーナリスト、政治犯、アマチュア無線、薬物中毒者、家族、そしてプロライフ運動の守護聖人である。
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「ニコラス・オーウェン (イエズス会士)」の記事における「列聖」の解説
1929年12月15日、教皇ピウス11世によって列福され、1970年に教皇パウロ6世によってイングランド及びウェールズの40殉教者(英語版)の一人として列聖された。オーウェン個人の祝日は3月22日である。
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「シュツェパノフのスタニスラウス」の記事における「列聖」の解説
スタニスラウスの死後、彼を殉教者とする崇拝が瞬く間に広まった。1088年には、彼の遺体がクラクフのヴァヴェル大聖堂へ移された。1253年9月17日、スタニスラウスはアッシジにおいて教皇インノケンティウス4世によって列聖された。教皇クレメンス8世は、スタニスラウスの祝日を5月7日とした。1969年、スタニスラウスの正確な没日に近いとして、教皇庁は祝日を4月11日とした。ポーランドでは5月8日をスタニスラウスの祝日としている。 スタニスラウスの聖遺物を祀るヴァヴェル聖堂は、ほとんどのポーランド王が戴冠する国内第一の聖堂となった。ヴワディスワフ1世から、歴代の王は聖堂中央に置かれた聖スタニスラウスのサルコファガスの前に膝をついて王冠を受けるのである。17世紀、当時の王ヴワディスワフ4世ヴァーサは、聖スタニスラウスの聖遺物を覆う銀製の棺をつくらせた。大洪水時代にスウェーデン軍によって銀製棺は破壊されるが、1670年頃に新しいものに取り替えられた。 毎年5月8日、クラクフ司教が先導する礼拝行進が行われる。ヴァヴェル聖堂から、聖スタニスラウスの殉教した場所であるスカウカ(Skałka)へ向かう。この礼拝行進はかつては地元の行事で、20世紀になってからグニェズノ及びワルシャワ枢機卿ステファン・ヴィジンスキ(en:Stefan Wyszyński)、のちに教皇ヨハネ・パウロ2世となったクラクフ大司教カロル・ヴォイティワらによって、大衆に普及した(ヨハネ・パウロ2世は、聖スタニスラウスを道徳秩序の守護聖人としている)。 典拠管理 BNF: cb11984395t (データ) GND: 118901664 ISNI: 0000 0003 7416 8810 LCCN: n79115468 NKC: jx20090518004 NTA: 087839962 SELIBR: 207294 SUDOC: 027901831 VIAF: 35738217 WorldCat Identities: lccn-n79115468
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列聖
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「ジャンヌ・ドゥ・レストナック」の記事における「列聖」の解説
1900年にレオ8世により列福、1949年5月15日にピオ12世により列聖した。
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列聖
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名詞
発音(?)
- れ↗っせー
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