16区 (パリ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/02 18:05 UTC 版)
著名な居住者
王侯貴族・軍人
- シャルル9世
- 代々フランス王に用いられた狩猟居宅用の城ないしパヴィヨンを妹の下記王妃マルゴのための小さな城たるラ・ミュエット城ないし宮殿 (Château de la Muette) に改装した。
- マルグリット・ド・ヴァロワ(王妃マルゴ)
- 上記のようにラ・ミュエット城ないし宮殿に居住し、その機会にブルボン朝始祖アンリ4世と結婚した。離婚後、アンリ4世の2番目の王妃マリー・ド・メディシス子息ルイ13世にラ・ミュエット城ないし宮殿を与えた。
- ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(ブルボン朝始祖アンリ4世娘、かつイギリス王チャールズ1世王妃)
- 清教徒革命(イギリス革命)最中、サン=ジェルマン=アン=レー城に身を寄せ王党派を糾合、またシャイヨ修道院 (Couvent des Visitandines de Chaillot) を建造し、1651年から10年ほど当修道院に居住した。
- ヘンリエッタ・アン・ステュアート(イギリス王女、ヘンリエッタ・マリアの末娘、オルレアン公フィリップ1世妃)
- 同上。母とおよそ10年間シャイヨ修道院に居住
- オルレアン公フィリップ2世(幼君ルイ15世の摂政)
- ラ・ミュエット城ないし宮殿を購入し狩猟用に用い、近隣マドリッド城 (Château de Madrid) に移り、長女マリー・ルイーズ・エリザベート・ドルレアンに同ラ・ミュエットを与えた。長女は幾度も饗宴を開き、そのなかには大北方戦争勝利に酔いしれ1721年から初代ロシア皇帝に就いたピョートル1世もいた。
- ポンパドゥール夫人(ルイ15世の公妾)
- ルイ15世がアンジュ=ジャック・ガブリエルと父ジャック・ガブリエル (fr) に1741-45年にかけ、大規模改修させたラ・ミュエット宮殿に居住。また、現在のパッシー通りとポンプ通り交差点界隈に同宮殿驚異の部屋があった。
- デュ・バリー夫人(同上ルイ15世の公妾) - 同上
- ルイ16世 - マリー・アントワネットとラ・ミュエット宮殿で新婚生活を送った。
- マリー・アントワネット - 同上
- ランバル公妃マリー・ルイーズ
- セーヌ川沿いのパッシーランバル公邸ないしランバル館に居住。"親友"マリー・アントワネットもこの館を度々訪れたとのこと。フランス革命期以降には、気球乗りのジャン=ピエール・ブランシャールがカフェ・コンセールに改装したりした。建物自体は第一次-第二次世界大戦の戦間期に壊されたが、すぐに精密に再建された。
- ピエール=ナポレオン・ボナパルト(第二帝政皇族)
- ナポレオン・ボナパルトの弟リュシアンの息子。1870年、オートゥイユの邸宅にて、ジャーナリストのヴィクトール・ノワールを射殺する事件を起こした。
- ロラン・ボナパルト(第二帝政皇族)
- ナポレオン・ボナパルトの弟リュシアンの孫。娘は精神分析学者マリー・ボナパルト。イエナ大通り10番地(現 シャングリ・ラ ホテル パリ、fr)に居住
- カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニ
- エドモン・ド・ポリニャック(1834年 - 1901年、ポリニャック公爵、作曲家)
- ポリニャック公爵夫人ヨランドの孫、復古王政期の首相ジュールの子。七月王政期の1845年亡命先からサン=ジェルマン=アン=レーへ、1847年に8区シャンゼリゼ至近ベリー通り (Rue de Berri) で育つ。フォーブール・サンジェルマンで教育を受け、またフォーブール・サンジェルマンのロベール・ド・モンテスキューのサークルで、グレフュール伯爵エリザベット・シメイやガブリエル・フォーレらと知己に。コンコルド広場コワラン館で「ロワイヤル通りサークル (fr)[26]」を主宰。妻ウィナレッタ・シンガーと共に、シャイヨ宮至近トロカデロ界隈のジョルジュ=マンデル大通り43番地に居住。
- ウィナレッタ・シンガー(エドモン・ド・ポリニャックの妻、ポリニャック公爵夫人)
- 音楽のパトロンとして知られている。1943年に亡くなって後、ジョルジュ=マンデル43番地から裏手シェフェール通り46番地界隈までの居宅(ポリニャック公妃館)は、メセナを行う公施設法人のシンガー・ポリニャック財団 (Fondation Singer-Polignac) になり現在まで活動を行っている。
- エリザベット・ド・グラモン(クレルモン=トネール公爵夫人、作家)
- ショワズール=スタンヴィル公爵ジャック・フィリップ(貴族・ショワズール公爵家、軍人・仏元帥)
- 七年戦争のランゲンザルツァの戦いで敗れた指揮官。ルイ15世宰相エティエンヌ・ド・ショワズールの弟。レヌアール通り Hôtel de Valentinoisに居住。
- ジャック=ドナシアン・ル・レイ・ド・ショーモン(貴族、アンヴァリッド長官、ショーモン城主)
- ショーモン宅になっていた Hôtel de Valentinoisに支援依頼で来仏のベンジャミン・フランクリンが数年間居住。米独立戦争に巨額援助をし、ラファイエット侯、ロシャンボー伯らと共に"仏人の米独立の父"の一人。但し、フランス革命に反対し米移住。
- アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(ナポレオン戦争期の軍人、軍事学者) - 1869年に90歳で16区パッシーで居住死去。
- ギュスターヴ・ボルニ=デボルデ(軍人、海兵少将)
- アルフレド・ドレフュス(陸軍軍人、ドレフュス事件) - 1894年、プレジダン=ウィルソン大通り6番地に居住
- ジョゼフ・ジョフル(軍人、フランス陸軍総司令官)
- ポンプ通り (Rue de la Pompe)115番地に10年ほど居住し、1909-1919年の間はミケランジュ通り (Rue Michel-Ange)6番地に、その後ランバル大通り (Avenue de Lamballe)17番地に亡くなるまで居住。3通りにプラークが掲げられている。
- ロベール・ニヴェル(軍人、フランス陸軍総司令官) - トゥール通り33-35番地に亡くなるまで居住
- モーリス・ガムラン(第二次大戦西部戦線の連合軍総司令官、フランス陸軍総司令官) - 1937年以降、フォッシュ大通り55番地に居住[27]
- フィリップ・ド・ゴール(軍人、上院議員、シャルル・ド・ゴールの子)
- アルベール1世(モナコ公)
- レーニエ3世(モナコ公)、グレース・ケリー(モナコ公妃、元女優) - フォッシュ大通り界隈に居住
- サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ(現在の第7代サウジアラビア国王) - フォッシュ大通り界隈に居住
- 徳川昭武(水戸藩第11代最後の藩主)
- 明治元年11月(1869年)に藩主に就く以前の幕末から維新草創期に仏留学中の慶応3年5月(1867年)から3か月間、凱旋門近くフォッシュ街界隈ペルゴレーズ街 (Rue Pergolèse) 53番地のロシア貴族邸を借り住居とした[28]。その8年後の明治11年(1878年)に再び仏留学をし、前回の国賓待遇とはうって変わってパンテオン近くパリ5区エストラパッド街 (Rue de l'Estrapade) に居住し、パリ17区にあるエコール・モンジュ(現リセ・カルノ)に通った[29]。
- マドリード公爵カルロス(スペイン・ブルボン朝のスペイン王位請求権者)、マドリード公爵夫人マルゲリータ - 1877-1880年、シャム通り (Rue de Siam) との合流地点ポンプ通り (Rue de la Pompe) 43-45番地に居住[30]。
- アントワーヌ・ビベスコ(外交官、ルーマニアボヤールのビベスコ家 (en, fr)、ワラキア大公 (en)ゲオルゲ (fr) の孫、妻は英首相アスキス次女エリザベト (fr))
- 作家マルセル・プルーストの親友の一人として知られている。8区クールセル通り (Rue de Courcelles) 69番地界隈で弟Emmanuel Bibescoと育った。トロカデロのシェフェール通り界隈ヴィヌーズ通り (Rue Vineuse) 20番地に居住し、弟のEmmanuelは同14番地に居住。第二次大戦後、故国が共産化したため1919年-2004年の間ビベスコ家所有のサン=ルイ島ケ・ド・ブルボン (Quai de Bourbon) 45番地に主に居住。
- アンナ・ド・ノアイユ(ノアイユ伯爵夫人アンナ=エリザベート、小説家・詩人)
- ルーマニア大貴族ビベスコ家出、嫁ぎ先はノアイユ"公爵"家。17区シテ・デ・フルー (Cité des Fleurs) に優美なパイプオルガン付きサロンを造築。7区ラ・トゥール=モブール大通り (boulevard de La Tour-Maubourg) 界隈で出生し、1910年から1933年に亡くなるまでシェフェール通り40番地、スクワール・デュ・トロカデロ (Square du Trocadéro)界隈に居住。生没地にプラークが掲げられている。
- エレーヌ・ヴァカレスコ(ルーマニアボヤールのヴァカレスコ家 (fr) の出、詩人、外交官) - シャイヨ地区シャイヨ通り (Rue de Chaillot) 7番地に1937年からその死の1947年まで居住。同地にプラークが掲げられている。
- ボニー・ド・カステラーヌ
- フェリックス・ユスポフ(ロマノフ朝ロシア帝国貴族ユスポフ公)
- グレゴリー・ラスプーチン殺害者。1940年以降16区内のRue Agar、65 Rue La-Fontaine、1943年から亡くなるまで38 Rue Pierre-Guérinに居住。
- イリナ・アレクサンドロヴナ(ロマノフ朝ロシア帝国公女、ユスポフ公の妻) - 同上
- クロシュ・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー朝イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの子) - フォッシュ大通り33番地に居住
- ウィンザー公爵エドワード(英ウィンザー朝第2代国王)、ウィンザー公爵夫人ウォリス
- ウィンザー公はイギリス国王退位後の1953年から亡くなる1972年までヌイイ=シュル=セーヌ境界側ブローニュの森内にあるヴィラ・ウィンザー (Villa Windsor) に居住し、妻ウォリス・シンプソンも1986年同館で死去。その後同館はモハメド・アルファイドが購入。1997年、ダイアナ妃とドディ・アルファイドはオテル・リッツ・パリから同館に向かう途中アルマ広場下のトンネルで亡くなった[31]。
政治
- ベンジャミン・フランクリン (米政治家) - 1776年12月以降数年間、アメリカ独立戦争への支援依頼で、レヌアール通りオテル・ド・ヴァレンティノワ (Hôtel de Valentinois) に居住
- ポール・バラス(政治家、総裁政府総裁の筆頭) - 晩年、シャイヨ地区シャイヨ通り (Rue de Chaillot) 旧70番地で死去
- アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(詩人、政治家)
- パトリス・ド・マクマオン(軍人、元大統領) - 大統領に就く以前にトロカデロ界隈ヴィヌーズ通り49番地に居住[32]
- シャルル・ド・フレシネ(元首相) - フェザンドリ通り123番地に居住
- ポール・デシャネル(元大統領, 1920年) - 1859年の少年期、一家で8区パンティエーヴル通り34番地居住。晩年はエロー大通り10番地に居住し死去。プラークが掲げられている。
- ジョルジュ・クレマンソー(元首相) - トロカデロ界隈に居住。上記クレマンソー博物館参照
- ジョルジュ・マンデル(レジスタンス運動指導者、政治家) - 第二次大戦期の内相で1944年7月、フォンテーヌブローの森でミリスに虐殺された。ロチルド家の縁戚。ジョルジュ=マンデル大通り界隈、モザール通り等に居住
- ガストン・ドゥメルグ(元大統領・首相) - フォッシュ大通り43番地に亡くなる前の1934年に同地1階(日本の2階)に引っ越し。地上階(1階)の彼の隣人は、駐仏ベルギー大使男爵エドモン・ド=ゲフィエ=デストロワ(Edmond de Gaiffier d'Hestroy)[33]。
- アルベール・ルブラン(元大統領・首相) - ボーセジュール大通り (Boulevard de Beauséjour) 19番地で1945年から1950年に亡くなるまで居住
- ミシェル・ドゥブレ(第五共和政初代首相、フランス国立行政学院 (ENA) 創設者) - パリ7区生まれ。1958年夏、ミシェル・ドゥブレらシャルル・ドゴールの閣僚らがパリ西部近郊ラ・セル=サン=クルーにあるラ・セル城に昼夜籠もり、フランス第五共和政憲法草案を起草した。但し、ドゥブレのみパリ16区の自宅とを往復していた[34]。
- ジャック・シャバン=デルマス(元首相) - 13区オピタル大通り76番地生まれ。ヴィクトル=ユーゴー大通り15番地に1994年まで居住
- ヴァレリー・ジスカール・デスタン(元大統領) - 青少年期も16区内の私立小エコール・ジェルソンやリセ・ジャンソン・ド・サイイ等に通っていた。大統領退任後の1981年以降、ロンシャン通り周辺界隈に居住
- エドゥアール・バラデュール(元首相)
- ニコラ・サルコジ(元大統領) - ブッフレ伯爵夫人 (fr) やモンモランシー公の所有邸宅跡にあるヴィラないしゲーテッド・コミュニティの"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency) " に大統領退任後を通じて居住
- クリスティーヌ・ラガルド(現IMF専務理事、元経済・財政大臣) - パッシー駅の東側スクアール・アルボニ (Square Alboni) に居住し、現在(2010年時点)は息子2人がそこに居住している[35]。生まれはパリ9区
- ジャック・アタリ(ユダヤ系の経済思想家、歴代大統領顧問) - ポンプ通りに居住し、リセ・ジャンソン=ド=サイイに通った。
- イグナツィ・パデレフスキ(第3代(第2代)ポーランド第二共和国首相、ピアニスト・作曲家) - 1889-1906年の間、ヴィクトル=ユーゴー大通り94番地に居住
- コンスタンディノス・カラマンリス(元ギリシャ大統領・首相) - 1963-1974年の間、モンモランシー大通り (Boulevard de Montmorency) 37番地に居住
- リシウス・サロモン(第13代ハイチ共和国大統領) - 1879年10月-1888年8月まで大統領、1888年10月にヴィクトル=ユーゴー大通り3番地で死去
- モブツ・セセ・セコ(初代ザイール共和国大統領 (第2代コンゴ民主共和国大統領)、独裁政権) - フォッシュ大通り界隈に居住
- アマニ・ディオリ(初代ニジェール共和国大統領) - シェフェール通り39番地に居住
- フェリックス・ウフェ=ボワニ(初代コートジボワール共和国大統領・首相。フランス人口保健省大臣) - 1957年11月から1958年5月にかけてフランス本国で人口保健省大臣を務めた他、国務大臣も2度務めた。ジョルジュ=マンデル大通り40番地に居住
財界・富豪
- ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト(米実業家、ヴァンダービルト家) - パッシーで居住死去
- ルイ・ルノー(実業家、ルノー創業者) - 8区内で生まれ、ブローニュ=ビヤンクール、フォッシュ大通り界隈に居住
- カルースト・グルベンキアン(実業家、石油マン「ミスター5%」) - イエナ大通り51番地に居住
- ルイ・カーン・ダンヴェール(伯爵、アントワープのユダヤ人アシュケナジー系銀行家) - イエナ大通り58番地界隈のシャイヨー地区バッサノ通り (Rue de Bassano) 2番地のカーン・ダンヴェール館に居住。同館で生まれた子は二男三女 (fr) で、長女イレーヌはルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 』 の、二女エリザベットと三女アリスは同じくルノワールの『ピンクと青、カーン・ダンヴェール家のアリスとエリザベート』(fr) の被写体になった。
- アンリ・ド・ロチルド(男爵、フィランソロピスト、パリ・ロチルド家) - 8区フォーブール=サントノレ通りの邸宅を第一次世界大戦の連合国の社交クラブ「Cercle de l'Union Interalliee (連合国クラブ)」に改装し、ラ・ミュエット宮殿を購入し居住。ナタニエル・ド・ロチルドの孫、曾孫にフィリップ・ド・ロチルドがいる。
- マリー=アンネ・フォン・ゴルトシュミット=ロートシルト(女男爵、ドイツロスチャイルド家 (仏:ロチルド家) ) - フェザンドリ通り33番地の邸宅のうち庭園別館を後に、パリ・ロチルド家出の女優・プロデューサー Nicole Stephaneに売却した。
- アリストテレス・オナシス(実業家) - ルイ・ルノーから購入したフォッシュ大通り88番地に居住[36]。マリア・カラスやジャクリーヌ・ケネディらと居住した[37]
- エドアール=ジャン・アンパン(男爵、シュナイダーエレクトリックCEO) - 1978年に誘拐事件に遭い人質になっている間、メディアに次々と賭博癖艶聞等を流され事件前後で人生が180度変わってしまった人物として知られている。フォッシュ大通り33番地に居住
- ピエール・ヴェルテメール(ココ・シャネル〈ガブリエル・シャネル〉のシャネル共同創業財務パートナー) - フォッシュ大通り55番地に居住[38]。
- ルネ・ラコステ(ラコステ創業者、テニス選手) - 10区生まれ。イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住していた
- ウジェーヌ・シュレール(ロレアル創業者、リリアンヌ・ベタンクールの父) - イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住していた
- セルジュ・ダッソー(ダッソー名誉会長、政治家)- イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住
- ローラン・ダッソー(ダッソー社長、セルジュの子) - ヴィラないしゲーテッド・コミュニティの"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency) " に居住
- ドミニク・ドゥセイニュ(Dominique Desseigne, カジノ経営者) - 1997年から妻のディアーヌ・バリエール (Diane Barrière) が2001年に亡くなるまで"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency) " に居住
- ピエール・ガブリエル・ゲラン (Pierre Gabriel Guerlain, 1872-1961年, ゲラン4代目調香師) - イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住
- パトリック・グレ=モーブッサン (Patrick Goulet-Mauboussin, モーブッサン6代目社長) - スイスの投資会社に2002年に買収され現在は退任。イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住
- マルセル・ブルスタン=ブランシェ(レジスタンス、ユダヤ系、大手広告代理店ピュブリシス創業者) - 1996年、16区で居住死去
- ジェフリー・エプスタイン(米実業家、投資家) - 2002年から小児性愛・児童買春で逮捕後自殺した2019年までフォッシュ大通り22番地を所有し居住滞在[39][40]。交友関係に英王室のアンドルー王子など著名人が多数[41]。ビル・クリントンやドナルド・トランプとも親交を持っていた[42]。他に、フランスの政治家ジャック・ラング、実業家で政治家のスティーブ・バノンなど。ビル・ゲイツは交友を否定していた。
学者
- エルヴェ・フェイ(天文学者) - コルタンベール通り39番地に居住し、当地で亡くなる。
- アンリ・ベルクソン(哲学者、ノーベル文学賞) - ヴィラないしゲーテッド・コミュニティの"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency) " と、ボーセジュール大通り (Boulevard de Beauséjour) 21番地に1941年に亡くなるまで居住。同地にプラークが掲げられている。
- ジョルジュ・ソレル(社会思想家、社会主義者、革命的サンディカリストないし革命的組合主義者) - 史的唯物論から離れ、時代精神ないし「神話」についてアンリ・ベルクソンらから影響を受けた。1895年、ミケランジュ通り (Rue Michel-Ange)23番地に居住
- アルフォンス・ベルティヨン(犯罪学者、科学捜査官) - プレジダン=ウィルソン大通り5番地に居住
- ジャクリーヌ・ド・ロミイ(ジャクリーヌ・ド・ロミリ、ギリシャ文学者)
文化
- カミーユ・ピサロ(画家)
- レオ・フォンタン(画家) - Rue Beethoven7番地に居住
- ウジェーヌ・マネ、ベルト・モリゾ(画家夫妻) - ウジェーヌは画家エドゥアール・マネの弟。1874年パッシーのノートルダム=ド=グラス教会(l'église de Notre-Dame-de-Grâce de Passy)で結婚し、旧ヴィルジュスト通り(rue de Villejust, 現ポール=ヴァレリー通り(fr) 40番地)の建物に居住。ベルトは婚前から両親らとパッシーにアトリエ兼居住。ウジェーヌとベルトら両親死後、一人娘ジュリー・マネは引き続き同建物に居住し、1966年に死後、両親と同じパッシー墓地に埋葬。またポール・ヴァレリーも1900年から亡くなる1945年まで同建物に居住。
- 板東敏雄(画家、エコール・ド・パリ) - 1924年頃、モンパルナス地区パリ14区ラスパイユ大通り (Boulevard Raspail) 207番地に居住。その後、パッシー界隈ニコロ通り (Rue Nicolo) 13番地に1940年から亡くなる1973年頃まで居住。ちなみにニコロ通りの名称は作曲家ニコラ・イズアールより。
- アンリ・ファルジュ(画家) - ヴェルサイユ大通りに居住
- ポール・デュカス(作曲家) - ラヌラグ通り84番地に居住
- グザヴィエ・ルルー(作曲家) - コルタンベール通り64番地に居住
- ピエール・バイヨ(作曲家)
- ジャコモ・プッチーニ(作曲家)
- ジョアキーノ・ロッシーニ(作曲家)
- クロード・ドビュッシー(作曲家) - 17区内や、1905年から亡くなる1918年にかけて、Place du Maréchal-de-Lattre-de-Tassignyに近いスクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地に居住[43]。妻の声楽家エンマ・バルダックは1934年8月、トロカデロ界隈ヴィヌーズ通り (Rue Vineuse) 24番地で死去。ドビュッシーの近くに、娘クロード=エンマと共にパッシー墓地に葬られている。
- モーリス・ドラージュ(作曲家) - パリ6区生まれ。オートゥイユのラ・ヴィラ=ド=ラ=レユニオン大通り(Grande Avenue de la Villa-de-la-Réunion)25番地に居住。20世紀初頭の芸術家グループ「アパッシュ」(en)メンバーで、1912年の33歳の時に過ごしたインドと日本の旋律等に影響を受けている。
- ジャン=ピエール・ランパル(フルート奏者) - モザール通り15番地に居住
- アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアニスト) - 1938年にスクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 22番地に居住したが、翌1939年9月12日にフランス国外に出国したため長くは利用しなかった[44]。
- エミール・ヴォードルメール(建築家) - ジョルジュ=マンデル大通り27番地に居住
- エクトール・ギマール(建築家、アールヌーヴォーの代表的人物) - 1913-1930年の間、モザール通り122番地のギマール館(fr) に居住。その他オートゥイユには、フリリエール大通り (fr) の旧サクレ=クール小 (École du Sacré-Cœur, 1895年) などギマール作品が数多く残っている。
- ル・コルビュジエ(建築家) - ブローニュ=ビヤンクール境界界隈ナンジェセール・エ・コリ通り (fr) 24番地の「イムーブル・モリトー (fr)」 は、1935年から亡くなる1965年までアトリエ兼居住した建物で、現在コルビュジエ財団になっている[45]。その他オートゥイユ界隈のメゾン・ラ・ロッシュ (Maison La Roche)、メゾン・ジャンヌレ (Maison Jeanneret)やブローニュ=ビヤンクール界隈に建築作品が残る。
- オーギュスト・ペレ(建築家) - 鉄筋コンクリート建物の先駆たる1902-04年に自ら建築した16区フランクラン通りの建物最上階の他、1932年から亡くなる1954年まで自ら建築したパッシー通り裏手ベルトン通り(fr, レヌアール通り(fr)51-55番地側)に居住(現在は国際建築家連合事務局)。事務所はブローニュ=ビヤンクール。第二次大戦後の崩壊したル・アーヴルの街づくりの中心人物。
- モリエール(劇作家、俳優) - 生まれは現在の1区サントノレ通り界隈
- ヴィクトル・ユーゴー(作家、政治家。『レ・ミゼラブル』、『ノートルダム・ド・パリ』)
- 1830-1832年の間はパリ8区ジャン=グジョン通り (fr) 9番地に一家で居住。1832年 - 1848年の間は4区ヴォージュ広場 (fr) 6番地に一家で居住し、現在は「ヴィクトル・ユーゴー記念館」に。また、この旧宅で『レ・ミゼラブル』の前身『レ・ミゼール』を執筆[46]。1873年に"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency) " に3ヶ月程居住した。晩年、1874-1878年11月の間は9区クリシー通り (fr) 21番地に居住し、その間『九十三年』を書き上げた[47]。さらにヴィクトル=ユーゴー大通り124番地(旧50番地)のリュジニャン公妃館に愛人ジュリエット・ドルエと居住し、1885年同館で死去。同地にプラークが掲げられている。
- オノレ・ド・バルザック(作家)
- 1836年頃、債権者から逃げるためパリ改造前のイエナ大通り12番地に当たる界隈に一時的に居住。晩年にあたる1840年から1847年にかけて、現在はバルザック記念館 (Maison de Balzac) となっている建物に居住。この場所で『従妹ベット』『従兄ポンス』などを執筆[48]。
- ピエール=ジャン・ド・ベランジェ(抒情詩人、象徴派詩人) - 1841-1847年、トロカデロ界隈ヴィヌーズ通り21番地、シェフェール通り4番地に居住[32]
- ピエール・ルイス(象徴派詩人) - ヴィヌーズ通り49番地に居住[49]
- マルセル・プレヴォ(作家) - ヴィヌーズ通り49番地に居住
- アンドレ・ショメ(批評家、ジャーナリスト) - ヴィヌーズ通り49番地に居住
- ジャック・ド・ラクレテル(批評家) - ヴィヌーズ通り49番地に居住
- ジョージ・ギッシング(英小説家) - 1900年にシャム通り (Rue de Siam) 13番地に居住
- ポール・ヴァレリー(作家、象徴派詩人、哲学者) - 1891年から1899年まで5区ゲイ=リュサック通り(Rue Gay-Lussac)12番地に居住。上記ウジェーヌ・マネとベルト・モリゾ夫妻の死後1900年にベルトの姪と結婚し、ベルト娘ジュリー・マネらと同じ旧ヴィルジュスト通り(rue de Villejust, 現ポール=ヴァレリー通り(fr) 40番地)の建物に同1900年から亡くなる1945年まで居住
- ルネ・ゴシニ(作家、『アステリックス』) - ブーランヴィリエ通り界隈に居住
- フランソワーズ・サガン(作家、『悲しみよこんにちは』) - 幼少期は17区やグルノーブルその他、大成後はフォッシュ大通り界隈や7区などに居住
- パトリック・モディアノ(作家)
- オクターヴ・ミルボー(自然主義作家、ジャーナリスト) - 1901-09の間、フォッシュ大通り84(旧64)番地に居住[50]。ちなみに82, 84, 86番地はのちのナチス占領期の仏ゲシュタポ本部。
- アンリ・バタイユ(劇作家) -フォッシュ大通り40番地に居住[51][52]。
- マルセル・パニョル(作家・劇作家・映画監督) - 1956年からその死の1974年4月18日までスクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 16番地に居住。同地にプラークが掲げられている。
- ジェラール・ド・ヴィリエ(作家) - フォッシュ大通り界隈に居住
- ギヨーム・アポリネール(象徴派詩人、作家、文芸評論家、キュビズム先導者、シュルレアリスム造語)
- Rue Bertonや"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency)"に居住。1913年1月に同オートゥイユからサン=ジェルマン大通り202番地に居住し、1918年11月に同地で死去。プラークが同建物に掲げられている。
- アンドレ・ジッド(作家、ノーベル文学賞) - 1916年頃から"ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency)"に居住
- エドモン・ド・ゴンクール(作家、ゴンクール賞)
- ベル・エポックの19世紀後半当時、モンモランシー大通り (Boulevard de Montmorency) 67番地の居宅に、ロダン、ゾラ、オクターヴ・ミルボー、ギュスターヴ・ジェフロワ、ウジェーヌ・カリエール、モーリス・バレスらが集っていた。
- ハインリヒ・ハイネ(作家、詩人、文芸批評家、共産主義思想家) - パリで若き日のカール・マルクスに共産主義思想を鼓吹する。パッシー界隈ニコロ通り (Rue Nicolo) 64番地に1848年頃に居住
- ナタリー・クリフォード・バーネイ(米女性作家、同性愛者)、エヴァ・パーマー・シケリアノス(米古代ギリシャ研究家、歴史家)
- 1890年代、2人はシャイヨ地区シャルグラン通り (fr) 4番地のアパルトマンを共有し、のちにヌイイ=シュル=セーヌにそれぞれ独居した。
- クリスチャン・ディオール(ファッションデザイナー、ディオール創業者) - 青少年期を16区で過ごした
- アンリ・ブシャール(彫刻家) - 晩年オートゥイユ界隈で過ごしたアトリエが当人の美術館になっている
芸能
- オルタンス・シュネデール(19世紀半ば以降フランス第二帝政期のオペレッタ歌手、女優) - 『美しきエレーヌ』などジャック・オッフェンバック作曲のオペラ・ブッフで活躍した。ヴェルサイユ大通り123番地に居住。同地にプラークが掲げられている。
- ジョヴァンニ・マリオ(オペラ歌手)
- フョードル・シャリアピン(オペラ歌手) - エロー大通り22番地に居住し1938年に同地で死去。プラークが掲げられている。
- ロイ・フラー(米ダンサー) - コルタンベール通り24番地に居住
- クロード・フランソワ(歌手)
- マリア・カラス(オペラ歌手) - 上記オナシスとフォッシュ大通り88番地に、その後フォッシュ大通り44番地[53]、さらにジョルジュ=マンデル大通り36番地に居住。当通りに並んで「Allée Maria-Callas(マリア・カラスの並木道)」がある。
- ジャック・ドュトロン、フランソワーズ・アルディ(歌手夫妻) - フォッシュ大通り50番地に居住[36]。
- アベル・ガンス(映画監督、俳優) - パリ18区生まれ。8区のリセ・シャプタルに通った。晩年、居住し亡くなった地は16区で、墓所はオートゥイユ墓地
- フェルナンデル(喜劇俳優) - フォッシュ大通り44番地に亡くなるまで居住。上記マリア・ガラスも同じアパートに居住し、同棲ではないが親しい関係だった[53]。
- ジャン=ルイ・バロー、マドレーヌ・ルノー(俳優・舞台俳優(コメディ)夫妻) - 1940-1994年の間、プレジダン=ウィルソン大通り18番地に居住。同地にプラークが掲げられている。マドレーヌ・ルノーは16区生まれ
- オリヴィア・デ・ハヴィランド(女優、『風と共に去りぬ (映画)』) - 東京(現在の港区)生まれ。ロンシャン通り周辺界隈に居住
- アルレッティ(女優) - クールブヴォワ生まれ。1966-1992年の間、16区オートゥイユのレミュザ通り (Rue de Rémusat) に居住
- バルバラ(歌手) - パリ17区に生まれ、17区内を転々とし、1937年以降、マルセイユやオーヴェルニュ地方ロアンヌへ。父がユダヤ系アルザス人の為、1941年以降、ナチス・ドイツ仏占領軍から逃げるため、ピレネー地方タルブ、アンドル県、オーヴェルニュ地方イゼール県等を転々とした。戦後1945年以降は、イヴリーヌ県やパリ18区、9区へ。1946-1959年の間は20区、1961-1968年の間、16区オートゥイユのレミュザ通り (Rue de Rémusat) 居住。"Rémusat"は、1967年に亡くなった同居の母を歌った曲の題名に。ヌイイ=シュル=セーヌの病院でエイズにより死去。
- フランソワーズ・アルヌール(女優)
- セルジュ・ゲンスブール(作曲家、映画監督) - ロシア(ウクライナ)移民の一家で、青少年期は20区、9区、リモージュ、パリ解放少し前に16区居住。
- ジーン・セバーグ(女優) - ロンシャン通り125番地に居住し、その界隈で自殺した。
- ジェーン・バーキン(女優)
- アラン・ドロン(男優) - デビュー前、モンマルトル界隈で仕事を転々ブラブラしていたが、のちブリジット・オベールとサンジェルマン・デ・プレ界隈に身を置き、ジャン=クロード・ブリアリとも知り合う。大成して後、ロミー・シュナイダーらと16区プレジダン=ケネディ大通り (Avenue du Président-Kennedy) 沿い等に居住
- プリンス(歌手) - 1987-97年の間、フォッシュ大通り60番地の邸宅に居住[54]
- ヴィラ・モンモランシー (Villa Montmorency) 居住者
- サラ・ベルナール(舞台女優・コメディエンヌ)
- キャロル・ブーケ(女優) - 1994-2006年の間居住
- シルヴィ・ヴァルタン(歌手)、ジョニー・アリディ(歌手) - 1978年から2017年12月にアリディが亡くなるまでヴィラ・モンモランシーに同居。
- イザベル・アジャーニ(歌手)
- セリーヌ・ディオン(歌手)
- ジェラール・ドパルデュー(男優) - 納税問題でロシア国籍に変えるまで居住
- ミレーヌ・ファルメール(シンガーソングライター、歌手) - 1994年から2004年の間、Avenue Pierre-Ier-de-Serbieに居住。また、ヴィラ・モンモランシーにも居住
スポーツ
- アンドレ・ルデュック(自転車レーサー、ツール・ド・フランス区間優勝歴代3位)
- サミュエル・エトオ(サッカー選手、カメルーン代表) - イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住
その他
- コーラ・パール(クルチザンヌ、ドゥミ・モンデーヌ) - 英プリマス出身の第二帝政期に活躍した高級娼婦。シャイヨ地区バッサノ通り (Rue de Bassano) 8番地建物2階の自宅で死去[55]。
- モナ・フォン・ビスマルク(ソーシャライト、ファッションアイコン)
- ケンタッキー州出身の米国人。生涯5度結婚し、4度目にドイツの"鉄血宰相"オットー・フォン・ビスマルク侯の孫アルブレヒト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン伯(Count Albrecht von Bismarck-Schönhausen (1903–1970年))と結婚(1955-1970年)。シャネルやマドレーヌ・ヴィオネ、ランバン等による"ザ・ベスト・ドレッスド・ウーマン"にアメリカ人では最初に選ばれ、雑誌「ヴァニティ・フェア (Vanity Fair)」の"International Best Dressed List" 等にも掲載。バレンシアガのミューズ。サン=ルイ島のランベール館 (Hôtel Lambert) の一室(アパルトマン)、その後5番街やイエナ橋近く16区ニューヨーク大通り34番地、イタリアカプリ島等に居住。1983年の死後、16区のタウンハウスは米人アーティスト等のパリ居住を支援する財団になり、さらに米文化紹介のモナ・ビスマルク・アメリカン・センター (Mona Bismarck American Center) になる。
- ジャクリーン・ケネディ・オナシス (ジョン・F・ケネディ及びアリストテレス・オナシスの妻) - フォッシュ大通り界隈に居住[56]。米スミス大学の留学プログラムでソルボンヌ大学に遊学していた1950年代はモザール通り居住。Alice Kaplanらによる著書に描かれている。
- リー・ラジヴィル (ソーシャライト、ファッションアイコン、ジャクリーン・ケネディの実妹)
- カーラ・ブルーニ (ニコラ・サルコジ元大統領の妻) - ニコラ・サルコジと40 Rue Pierre-Guérinに居住していた。
- グリナラ・カリモヴァ(イスラム・カリモフ元ウズベキスタン大統領の長女、ウズベク外務次官など) - イムーブル・ワルテール (Immeubles Walter) に居住していた
- 栗本鋤雲 - 上述徳川昭武随行の幕府派遣公使として慶応3年9月(1867年)から9か月間滞仏した際、フォッシュ街界隈シャルグラン街(Rue Chalgrin)30番地に居住した。維新後は6区に移動[57]。
- 佐川一政 - パリ第3大学に留学し、オートゥイユのエルランジェ通り (Rue Erlanger) 10番地に居住。1981年パリ人肉事件を起こした。
ピュトー | ヌイイ=シュル=セーヌ | パリ17区 パリ8区 |
||
シュレンヌ | パリ7区 | |||
パリ16区 | ||||
サン=クルー | ブローニュ=ビヤンクール | パリ15区 |
- ^ フランス語の 「16e 」 = 「seizième 」 は、英語の「sixteenth 」 に相当する序数。「第16の」 「16番目の」を意味する。したがって、原語の「16e arrondissement 」を直訳し すると「第16区」となる。
- ^ レジフランス (Légifrance). “地方自治一般法典 (Code Général des Collectivités Territoriales (CGCT))” R2512-1条. 2008年6月26日閲覧.
- ^ 元々、南側地域一帯は「オートゥイユ(AUTEUIL)」と呼ばれ、「パリ改造」の流れの中で1860年にパッシー及びオートイユの二つのコミューヌが合併して「16区」が設立された。
- ^ リセ・ジャンソン=ド=サイイの英語版記述によると、当校が"パリの最名門校の一校"とされている理由としては、"高級な16区"に居住する上流階級や貴族階級の子弟が通っているからだと、社会学者のミシェル・パンソンとモニーク・パンソン=シャルロらは言う。また、フランスの人気お笑いトリオ「レ・ザンコンニュ (Les Inconnus)」は、 ラップ調の曲『Auteuil Neuilly Passy (Rap B.C.B.G.)』(1991年)で、"オートゥイユ ヌイイ パッシー、コレが深窓のお坊ちゃまのゲットー"とシニカルにウイットたっぷりに表現した。
- ^ セーヌ川の右岸にあたる。
- ^ ディネ・アン・ブラン 東京
- ^ 但し、居住用ではない「フォリー」とは異なる
- ^ JTBパブリッシング編 『ワールドガイド ヨーロッパ2・パリ』、JTBパブリッシング、2006年、p.144.
- ^ 同通り5番地は,「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972) やジャン=ポール・ベルモンド「プロフェッショナル」(1981) の映画ロケ地。
- ^ ラデュレと同グループで、国内外各店あわせて620店舗展開するリールに本社を置くブーランジュリーないしパティスリーのチェーン店。
- ^ 山口昌子 『フランスよ、どこへ行く』、産経新聞社、2007年、p.315.
- ^ メルヴェイユ (fr) で内外で知られ、パリ4区ヴィエイユ=デュ=タンプル通り (Rue Vieille-du-Temple)、5区モンジュ通り (Rue Monge)、7区サン=ドミニク通り (Rue Saint-Dominique)、その他12区15区17区やブローニュ=ビヤンクールなどパリ市内外、リール、ボルドー、ロンドンケンジントン在英仏大使館界隈やベルギードイツなど欧州域内でも展開するパティスリーチェーン店。
- ^ 「パッシー通り クラシックとカジュアルが同居する」 フランス観光開発機構
- ^ 共にパリ6区ジャコブ通りや東京の表参道界隈等にブティックを持ち、同じくファッションデザイナーのジェローム・ドレフュス (Jérôme Dreyfuss) は夫。
- ^ Larry Collins, Fortitude, Robert Laffont, Paris, 1985, p. 84.
- ^ 1986年にフランス学士院付属ティエール財団 (Fondation Thiers) が売りに出し、英政治家の所有クラブを経て、1990年に現在のホテルになった。五つ星の同ホテルは、フォッシュ大通り至近のブジョーとベル=フイユ通り (fr) とに挟まれた場所にある。ベル=フイユ通りにはチャドやコンゴ共和国、ベナン、カメルーンなど旧仏領サブサハラアフリカ諸国の大使館が軒を連ねる。また、1930年代のカルティエの宝飾品(アンティークジュエリー)デザイナーを務めたアンヌ=トゥサン (fr) 等が同ベル=フイユ通りに居住していた。
- ^ Emmanuel Rubin, «Ces trente tables qui ont changé le goût de Paris», Le Figaroscope, semaine du mercredi 20 au 26 décembre 2017, p. 10-11.
- ^ Jean-Luc Barré, François Mauriac, biographie intime, t. I : 1885-1940, Éditions Fayard, 2009 ISBN 978-2-213-62636-9, p. 219 et 450.
- ^ Marie-Dominique Lelièvre, Brigitte Bardot. Plein la vue, Flammarion, 2012, ISBN 978-2081246249, p. 15.
- ^ Marie-Dominique Lelièvre, Jacques Attali. Plein la vue, Flammarion, 2012, p. 15.
- ^ « 2013 DU 243 Attribution à une voie de la dénomination “allée Irène Némirovsky” (15e) », paris.fr, consulté le 20 juin 2018.
- ^ サンジェルマン=デプレ地区界隈のパリ7区バック通り69番地、パリ6区サン=シュルピス通り34番地、ヌイイ=シュル=セーヌ、シェルなどの他、2018年12月から2019年12月まで東京南青山6丁目でも展開していた、パリ唯一のビントゥバー(豆から板チョコまで)を謳うショコラトリー。
- ^ Béatrice Gurrey, « Jérôme Solal-Céligny, l’inconnu de la rédaction de la Constitution de 1958 » Le monde fr, 2018年9月27日
- ^ « Une salle en délire pour la première collection d'Yves Saint Laurent » Le Figaro fr, 1962年1月29日
- ^ A 90 ans, Giscard encore courtisé Le Parisien fr 2016年2月2日,
Entreprise Madame Olivia De Havilland à Paris (75116) Le figaro.fr économie,
American actress Olivia de Havilland posing in her Paris apartment located 3 rue Bénouville in the 16th arrondissement. c.1969 Alamy (Photo Michael Holtz) - ^ のちに、8区ラブレ通り (Rue Rabelais) 2番地のジョッケクルブ (fr)に統合された。
- ^ Pierre Le Goyet, Le mystère Gamelin, 1975.
- ^ 徳川慶喜・昭武関係年表一 松戸市教育委員会生涯学習部 戸定歴史館
- ^ 徳川慶喜・昭武関係年表二 松戸市教育委員会生涯学習部 戸定歴史館
- ^ Francisco Melgar, Veinte años con Don Carlos. Memorias de su secretario, Madrid 1940, p. 44
- ^ L’hôtel du duc et de la duchesse de Windsor Paris Promeneurs
- ^ a b « Rue Vineuse », www.parisrevolutionnaire.com.
- ^ « Le retour à Paris du Président du Conseil et de Mme Doumergue », L’Intransigeant, 5 avril 1934, sur RetroNews.
- ^ Béatrice Gurrey (2018年9月27日). “Jérôme Solal-Céligny, l’inconnu de la rédaction de la Constitution de 1958”. Le Monde(ル・モンド). 2022年12月21日閲覧。.
- ^ 「Une journée avec Christine Lagarde」 ELLE FRANCE, 26 Janvier 2010
- ^ a b Vanina Prélat L'Hermitier et Jean-Baptiste Roques, « Splendeurs et misères de l'avenue Foch », Vanity Fair, no 38, août 2016, p. 96-103.
- ^ Ève Ruggieri, La Callas, Éditions Michel Lafon, 2017 (ISBN 978-2749933399)
- ^ « Mme Pierre Wertheimer est victime d’un accident d’auto », Le Journal, 9 juin 1934, sur RetroNews.
- ^ Arnaud Leparmentier, « Jeffrey Epstein, itinéraire d’un prédateur sexuel », Le Monde, 20 août 2019.
- ^ « Salle de massage, photos de jeune filles, pièces vastes et luxueuses... À quoi ressemblait l’appartement parisien de Jeffrey Epstein ? », francetvinfo.fr, 5 octobre 2019.
- ^ “英アンドルー王子に少女買春疑惑、英王室は否定”. フランス通信社(AFP) (2015年1月3日). 2019年7月13日閲覧。
- ^ “英王子から米大統領まで、少女性的搾取疑惑のエプスタイン被告に連なる紳士録”. フランス通信社(AFP) (2019年8月14日). 2019年8月15日閲覧。
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』、ダイヤモンド社、2007年、p.216.
- ^ Steven Lehrer, Wartimes in Paris, 1939-1945, SF Tafel Publishers, New York, 2013.
- ^ "Appartement-atelier de Le Corbusier" (Pdf). www.fondationlecorbusier.fr. 2016年9月20日閲覧。.
ちなみに、コルビュジエはメトロ10番線に乗り、事務所があるサンジェルマンのセーヴル=バビロヌ駅まで通勤していたとのこと("ル・コルビュジェが生涯を過ごしたアトリエとアパート text : taco". www.vogue.co.jp. 26 April 2014. 2019年2月5日閲覧。)。 - ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』、ダイヤモンド社、2007年、p.218.
- ^ « 21, rue de Clichy », eve.daumas.pagesperso-orange.fr.
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』、ダイヤモンド社、2007年、pp.218-219.
- ^ Paul Iseler, Les débuts d'André Gide vus par Pierre Louÿs: avec une lettre d'André Gide à l'auteur et de nombreuses lettres inédites de Pierre Louÿs à André Gide, Éditions du Sagittaire, 1937 (lire en ligne)
- ^ « Demeures d'Octave Mirbeau », Dictionnaire Octave Mirbeau.
- ^ “Square Henry-Bataille”. 2022年4月17日閲覧。
- ^ “Square Henry-Bataille”. 2022年4月17日閲覧。
- ^ a b Catherine Venot, Fernandel : Maria Callas l’a rendu fou !, France Dimanche, 1er Décembre 2014.
- ^ « Prince, son histoire d'amour avec Paris », Le Journal du dimanche, 24 avril 2016.
- ^ パリ19区にあるパリ市立公文書館の戸籍-死亡証明書番号750 (Archives de Paris : État civil - Acte de décès no 750. Cote du Registre : V4E 7324. Archives de Paris, 18 boulevard Sérurier, 75019 Paris.)
- ^ CBS NEW Pictures Jacqueline Kennedy Onassis, Avenue Foch, 1969 2013年11月16日
- ^ 井田進也「栗本鋤雲の函館」『大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要』第12巻、大妻女子大学、2011年、146-139頁、ISSN 1345-4307、NAID 110008425418。
- ^ “Paul Louis WEISS (1867-1945)”. www.annales.org. 2019年1月4日閲覧。 “En 1899, il est nommé à Paris. Depuis ce moment jusqu'à sa mort, il habite un vaste appartement au 78 bis avenue Henri Martin près du Bois de Boulogne.”
- ^ Françoise Dolto, Enfances, Le Seuil, (ISBN 9782021326406, lire en ligne)
- ^ Ina.fr, Institut National de l’Audiovisuel-. "Françoise Dolto". Ina.fr (フランス語). 2018年12月20日閲覧。
- ^ George du Maurier: Peter Ibbetson (The Heritage Press, New York 1963), p.Ⅵ f, p.17 f
- ^ Julien Green: Paris (Marion Boyars Publishers, 1983), p.19, 22, 23、
“Archived copy”. 2003年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月12日閲覧。 - ^ "Interview accordée au magazine L'Express en 1966".
{{cite web}}
: Cite webテンプレートでは|access-date=
引数が必須です。 (説明). - ^ "Paris Cinéma Région : les adresses de Catherine Deneuve".
{{cite web}}
: Cite webテンプレートでは|access-date=
引数が必須です。 (説明).
- 16区 (パリ)のページへのリンク