マリー・ボナパルトとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 作家 > 小説家・作家 > フランスの著作家 > マリー・ボナパルトの意味・解説 

マリー・ボナパルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 18:16 UTC 版)

マリー・ボナパルト
Marie Bonaparte
ボナパルト家

全名
出生 (1882-07-02) 1882年7月2日
フランス共和国サン=クルー
死去 (1962-09-21) 1962年9月21日(80歳没)
フランス共和国サントロペ近郊ガッサン
配偶者 ゲオルギオス・ティス・エラザス
子女 ペトロス
エイゲニア
父親 ロラン・ボナパルト
母親 マリー=フェリックス・ブラン
テンプレートを表示

マリー・ボナパルトフランス語Marie Bonaparte, ギリシャ語Μαρία Βοναπάρτη, 1882年7月2日 - 1962年9月21日)は、フランスの作家・精神分析学者。

生涯

マリーと長男のペトロス(1916年)

リュシアン・ボナパルトの孫であるロラン・ボナパルトマリー=フェリックス・ブランフランス語版の一人娘として、サン=クルーで生まれた。母マリーは彼女を出産後、塞栓で急死した。父方の祖父ピエール=ナポレオンの素行が原因で、ロランやマリーにはボナパルト家が請求する皇位継承権はなかった。しかし、母マリー=フェリックスが大富豪フランソワ・ブラン(モンテカルロカジノやオテル・ド・パリの経営で知られる)の娘であったことから、莫大な遺産を相続していた。

マリーは家族内でミミ(Mimi)と呼ばれた。[1]

フランス初の女性精神分析学者で、ジークムント・フロイトとの交流が深く、精神分析学の一般への浸透に一役買った。また、彼女の支援でフロイトはナチス・ドイツ支配下から亡命した。

1907年、ギリシャ王子ゲオルギオスと結婚。ペトロスエイゲニアの2子をもうけた。 一説にゲオルギオスの従弟であるオーエ・ア・ローセンボーと不倫関係にあったとされる。

1915年頃、コンスタンティン・ブランクーシの彫刻『王妃X』のモデルとなった。

1953年、イギリス女王エリザベス2世の戴冠式において、ギリシャ王パウロス1世の名代として夫と共に列席した(王配エディンバラ公フィリップはゲオルギオス王子の甥にあたる)。

1962年、白血病のためにサントロペで死去。マルセイユで火葬にされ、遺灰はギリシャ・タトイのゲオルギオス王子の墓に納められた。

著書

  • 『クロノス・エロス・タナトス―時間・愛・死』佐々木孝次訳、1992年、せりか書房、ISBN 4796700080
  • 『精神分析と文化論』林峻一郎訳、1971年、弘文堂
  • 『女性と性』佐々木孝次訳、1970年、弘文堂

脚注

  1. ^ Bertin, Célia (1982). Marie Bonaparte : a life. Internet Archive. New York : Harcourt Brace Jovanovich. ISBN 978-0-15-157252-6. https://archive.org/details/mariebonaparteli00bert 




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マリー・ボナパルト」の関連用語

マリー・ボナパルトのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マリー・ボナパルトのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマリー・ボナパルト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS