立教大学 創成期の歴史

立教大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 13:29 UTC 版)

創成期の歴史

最初の私塾が創設された長崎・崇福寺と高杉晋作

崇福寺山門(手彩色絵葉書)

1859年(安政6年)、初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援により、江戸幕府長崎奉行の要請で、ジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズが、立教大学の源流となる私塾を長崎に創設し、最初の生徒である幕府の8人の公式通詞に英学を教えた[58][3]。この塾が日本におけるミッションスクールの起りであり、立教大学及び立教学院の濫觴であった[13]。 リギンズが来日した同年5月2日と、ウィリアムズが来日した同年6月25日は日米修好通商条約の発効前(発効は同年7月4日)であり、外国人の中には来日したものの住居を手に入れることができずに日本を離れるものいたが、米国聖公会の学校開設を推進していたハリスと彼によって初代米国長崎領事に選任されたジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)がサポートし、リギンズは長崎奉行から、高台の良好な場所にある住居として崇福寺広徳院を手に入れることに成功し、遅れて到着したウィリアムズと英学教育を創始するに至ったのであった[3]。この崇福寺は、1629年(寛永6年)に創建された中国様式として日本最古の寺院であるが、長崎への来日前に中国上海で3年間過ごしてきたリギンズとウィリアムズにとって、生活のしやすさに加えて、中国語と漢字を修得していた両名にとって好都合でもあった[3]。昭和初期に前島生が発見したアメリカに送られたリギンズとウィリアムズが寓居した崇福寺広徳院が描かれた写真銅版絵では、建物は2階家であったという[288][448]。リギンズは滞在期間中、中国から持参したり、取り寄せた漢訳の聖書や歴史書、科学書等を日本の知識階級に積極的に販売、頒布するが、アメリカ独立宣言を含む合衆国の政治、行政、文化、教育等が具体的に書かれている『聯邦志略』など、日本の志士たちに大きく影響を与えることとなる書物を流通した[92]。ウィリアムズも来日後、短期間で日本人から日本の宗教、文化、生活習慣、時事情報を吸収し、日本語も習得して、来日から2年半で主祷文、使徒信教、十戒の三要文を翻訳した[449]。日本の文化や思想をより深く理解しようと儒学者の谷口藍田らとも交流し、英学を教えながら、漢学の学びを得ていた。また、ウィリアムズは仏教についての研究も行っており、ウィリアムズが記した研究ノートや仏教図が残されている[11][450]

崇福寺大雄宝殿(国宝)

1859年(安政6年)11月に長崎に来日したグイド・フルベッキもリギンズとウィリアムズ両名に迎えられ、住居が見つかるまでの間、この崇福寺広徳院に同居している[293][281]。フルベッキは、その後寺院の近くに住居が見つかり転居するが、妻マリアが住居の湿気から神経痛となり、ハインリッヒ・シュミット医師の勧めで、同じ崇福寺の境内にあった広福庵に転居している[296]。1860年(万延元年)4月7日に英国聖公会のジョージ・スミス主教が長崎に来日した際には、ウィリアムズの住む崇福寺に同年5月15日まで滞在した[288]。この来日したスミス主教からの寄金を元に後に日本で最初のプロテスタント教会である英国聖公会会堂が建てられている。その後、長崎では、外国人居留地の宅地造成の整備が進み、1861年(文久元年)7月にウィリアムズ、フルベッキ、シュミットは、当初暮らした崇福寺から幕府によって整備された東山手居留地に居を移すこととなった[91][注釈 118]。 1862年(文久2年)11月には、リギンズとウィリアムズの私塾の最初の生徒であった何礼之平井義十郎らの唐通事たちが長崎奉行の許可を得て、この崇福寺境内の空地に子弟のための訳家学校を設置し、中国語と英語の学習教授が行われた[59][308]。また、1864年(文久4年、元治元年)9月には、崇福寺広福庵に同じくウィリアムズ門下の瓜生寅前島密が、何礼之の許可を得て苦学生のために私塾「倍社」を開いた[308]

ラナルド・マクドナルド顕彰碑(長崎市)

明治に入って、崇福寺第一峯門前に、通詞たちの英語教育を推進し、教育体制を整えて指導を行った鄭幹輔を讃える顕彰碑が建てられるなど、幕末から明治維新後にかけて活躍した通訳者、外交官を育んだ場所としての歴史を伝えている[452][59]。その顕彰碑の傍らには、門下の頴川重寛東京外国語学校教授、後の東京外国語大学)の顕彰碑もある。また、長崎遊学中の吉田松陰が鄭幹輔を幾度も訪ねて学んだが、崇福寺にも訪れている[453]。さらに、崇福寺の末寺である西山郷(現・長崎市上西山町)にあった大悲庵は、1848年(嘉永元年)に聖公会会員であったラナルド・マクドナルドが英会話教室を開き、日本初のネイティブの英語教師として幕府の公式通詞14名に教えた場所であり、日本の英語教育史において重要な位置を占めている。庵が所在した付近には、ラナルド・マクドナルド顕彰碑が建てられている[274]。隣にはマクドナルドに学び、ペリー艦隊来航時の日本側通訳を務めた森山栄之助の顕彰碑もあり、日本の対外交渉に大きな貢献をした両名の功績を讃えている[454]
立教大学の源流である最初の私塾が置かれた崇福寺広徳院は、現在は建物が存在せず、跡地は個人のお墓となっている[455]。崇福寺は、ウィリアムズに政治制度や国際情勢を学んだ高杉晋作が潜伏していた場所とされるが[注釈 78][301]、2010年に放送されたNHK大河ドラマ龍馬伝」でロケ地となり、伊勢谷友介演じる高杉晋作が、福山雅治演じる坂本龍馬と対面するシーンとして登場している[456][457]。坂本龍馬も実際に崇福寺を訪れていたことが分かっており[457]、ウィリアムズ門下で倍社塾長を務めた瓜生寅の弟・瓜生震は、崇福寺にあった倍社で学び、龍馬とともに海援隊士としても活躍している[296]。また、倍社では龍馬の友人である林謙三(のちの安保清康)も学んでいる[302]

高杉晋作は、崇福寺に潜伏していた際に英語も学んでいるが、1865年(元治2年)に伊藤博文(俊輔)と下関に寄港した英国商船ユニオン号に便乗して来崎した際にも、ウィリアムズがチャプレンを務める英国聖公会会堂の管理人であった英国商人のトーマス・グラバーと邸宅で接触してイギリス渡航を頼み、準備が整うまで間に長崎英国領事のジョン・F・ラウダーに英語を学んだ。当時の長州の状況からラウダ―の説得で渡航を断念したが、下関の開港を勧められ、ラウダ―から貿易関連の書類を受け取り、下関に戻っている[301]。1865年(慶應元年7月27日)に伊藤博文が木戸孝允(桂小五郎)に送った書簡では、ウィリアムズ門下の瓜生寅(三寅)と荘村省三(助右衛門)が長崎で連携して活動していること伝えている[309]。その後、伊藤博文は、1867年(慶応3年)に長崎でグラバー商会と汽船一隻借入の契約を結び、薩摩藩士吉村荘蔵という仮名を使ってフルベッキが居住した大徳寺に寓居した。この際、近くの養生所(小島養生所、日本最初の西洋式近代病院)にいた芳川顕正(何礼之門下生、倍社塾生)に依頼して英語を学んでいるが、養生所と大徳寺は崇福寺と丸山を挟んで近隣にあり、東山手居留地とも程近い場所にあった[458]。この養成所は精得館となった後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部、および長崎大学病院)の源流となり、精得館の理化学部門は、大阪舎密局となった後、理学校などを経て、第三高等学校京都大学の前身校)の源流となっている[459]

ラナルド・マクドナルド研究

アメリカ史学者の立教大学名誉教授の富田虎男は、ラナルド・マクドナルドの研究を行い、その成果を1979年に『マクドナルド「日本回想記」―インディアンの見た幕末の日本―』として発刊している。富田は、研究組織である「日本マクドナルド友の会」の会長も務め、マクドナルドが上陸した利尻島野塚岬にあるマクドナルド顕彰碑と彼を描いた小説「海の祭礼」の作者・吉村昭文学碑の建立除幕式(1996年10月23日開催)で祝文を捧げた[460][461]

築地キャンパス(立教と聖路加)

概要

立教大学の前身の一つである立教学校は明治初期に築地居留地に開設されたが、1880年(明治13年)には、米国聖公会から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、ウィリアムズは築地居留地に学校、教会、病院からなるアメリカのカレッジ型のキャンパス施設群を計画した[31]。その後、拡張計画を踏まえ施設を構築するため、居留地の区画競売で新規に土地を入手し、立教大学校[注釈 10]、聖三一大聖堂などを建設。湯島で設立された立教女学校も築地に移転し、築地居留地に聖公会の拠点を増やしていく。明治中期には、大隈重信の尽力もあり、総計約2万1476平方メートル、築地居留地全体の約22.2%を聖公会の土地とし、立教と聖路加の聖公会関連の建物が立ち並ぶ築地キャンパスを構成することとなった[注釈 54]

慶應義塾発祥の地

江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内の蘭学塾「一小家塾」(画面中央左側築山下の平地、慶應義塾発祥の地および立教大学校創設の地)

築地居留地37番~40番の「立教大学校校舎、主教館、聖三一大聖堂、ガーディナー邸」(現在の聖路加国際病院の敷地内)は、岡見彦三が開設していた慶應義塾の起源となる蘭学塾「一小家塾」の講師として招かれた福澤諭吉が、1858年(安政5年)に講師に着任した場所(中津藩中屋敷跡地)であり、立教大学と慶應義塾大学は同じ地で創生期が形づくられた[462][463]。慶應義塾大学はこの福澤が講師に着任した1858年(安政5年)を創立の年としている。福澤諭吉が講師に着任する前には、岡見彦三に招かれた杉亨二松木弘庵(のちの寺島宗則)が福澤の前任の講師として、この一小家塾で教えた[464]。杉亨二は1853年(嘉永6年)に塾講師に着任し[465]、松木弘庵は1855年(安政2年)に塾講師に着任している[466]。1866年(慶應2年)には、この中津藩中屋敷内に紀州藩が費用を負担して開設した「紀州塾」も置かれている[467]
また福澤は、この鉄砲洲の中津藩中屋敷に居住し、その一小家塾で蘭学の講師をしていた時に、日米修好通商条約によって新たな外国人居留地となった横浜へと出かけ、以前から学んできたオランダ語が外国人に通じないことに衝撃を受けて、英語の必要性を痛感している。そこで、福澤は、前述のラナルド・マクドナルドの教え子で、ペリー来航時の日本側通訳を務めた森山栄之助が江戸小石川で開いていた英語塾で学ぶために、この鉄砲洲の屋敷から日参で通うなど、その後英語学習をしていくこととなった[468][469]

当地にある「慶應義塾発祥の地記念碑」は、1958年(昭和33年)に聖路加国際病院敷地内に建立されたが、1982年(昭和57年)に区の道路整備に伴い、従来の位置から病院前(南西側)の交差点ロータリー(現在の場所)に移転されている[462][470]。またこの地は、1774年(安永3年)に中津藩医で蘭学者でもあった前野良沢が、杉田玄白らと共にオランダ解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著した場所でもある[471][472]。慶應義塾発祥の地記念碑の隣には、近代医学発祥の基礎を築いた解体新書を記念した「蘭学事始の地」の石碑も建てられている[471]

築地居留地鳥瞰図

上記絵図は、ジェームズ・ガーディナー立教学校初代校長が描いたもので、1894年(明治27年)のSpirit of Missionsに掲載され、当時の立教築地キャンパスと築地居留地の全体像がよく分かる貴重な資料となっている。中央部に立教大学校校舎(築地居留地37番)、主教館(築地居留地38番)、聖三一大聖堂(築地居留地39番)、三一神学校(築地居留地53番)、三一会館(築地居留地54番)などが確認できる。1894年(明治27年)以前に描かれた絵図のため、それ以後(1895年以後)に竣工した立教中学校寄宿舎(築地居留地59番、60番)、立教中学校校舎「六角塔」(築地居留地57番、58番)などは完成予想図として実際に建てられた建物とは異なる構造物として描かれている。また、聖三一大聖堂の横に描かれている居留地内でもひと際高い尖塔は、その他の写真資料でも確認できず、実際には建築されなかったものと考えられる。

立教中学校寄宿舎(左)、立教中学校校舎「六角塔」(右)

1894年(明治27年)6月の明治東京地震で、立教大学校校舎などの初期のガーディナー設計の作品が被害にあった。そのため、以後ガーディナーは耐震性に配慮した設計を行うことになるが、絵図中に完成予想図として描かれた立教中学校寄宿舎、立教中学校校舎「六角塔」は、実際には、当初の設計・構造を変更し、建物上部に軽量の木材を利用し、絵図とは異なる形状の建物として建築されることとなったと考えられる。ガーディナーの当時の設計変更が汲み取れる資料ともいえる。1896年(明治29年)には、聖公会の愛恵病院[注釈 119]が立教大学校校舎があった築地居留地37番に移転し、築地病院と改称して開設され、その後1899年(明治32年)に一度は閉院するが、1901年(明治34年)には、ジョン・マキムの要請により来日したルドルフ・トイスラーが、同じ築地居留地37番に築地病院を前身とする聖路加病院(現在の聖路加国際病院)を開設し、病院を再建した[473]。こうして当初のウィリアムズの計画通り、学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス施設が整備されていったのである。

三一会館(左)と三一神学校・付属図書館(右)

1910年(明治43年)には、学生数の増加に伴いさらなる設備拡充が求められたことから、北豊島郡巣鴨村大字池袋(現在の池袋)に大学移転用地を購入。1919年(大正8年)に池袋キャンパスを開設し、大学施設は築地から池袋へ移転することになるが、その後も築地キャンパスには立教中学校や立教女学校、清国留学生のための志成学校、聖路加の病院施設等は所在しつづけていた。1920年(大正9年)には築地に聖路加国際病院付属高等看護婦学校が設立された。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により築地の校舎群が損壊、焼失したことから、中学校と女学校は築地から移転、志成学校は閉校し、築地キャンパスには看護学校以外の学校施設は姿を消すこととなった。聖路加の病院施設も倒壊するが、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。また、震災後も築地には立教幼稚園があった[391]

現在、築地の立教の関連施設があった場所には聖路加国際病院聖路加国際大学に加え、隣接して建っていた米国公使館跡には聖路加タワーなどが所在している。聖路加国際病院礼拝堂、トイスラー記念館、聖路加国際病院旧病棟の建物は、池袋の立教学院公宅(旧宣教師館、解体材が倉庫保存)や立教女学院高等学校校舎、聖マーガレット礼拝堂等も設計したJ・V・W・バーガミニーの作品である。

聖三一大聖堂(立教教会)

聖三一大聖堂内部

築地キャンパスにあった1889年(明治22年)12月1日竣工の築地・聖三一大聖堂は、建物はゴシック様式で、身廊の長さは78フィート(約26メートル)、塔の高さは地上から51フィート(約17メートル)あり、フランス製のステンドグラスが設けられていた[注釈 109]
1901年(明治34年)2月2日には、日本政府により英国ヴィクトリア女王の遥葬式が執り行われた。参列者には皇族に加えて、伊藤博文内閣総理大臣、加藤高明外務大臣、末松謙澄内務大臣、渡邊國武大蔵大臣、山本権兵衛海軍大臣、金子堅太郎司法大臣、松田正久文部大臣、林有造農商務大臣、原敬逓信大臣、鮫島武之助内閣書記官長など日本政府の閣僚(第4次伊藤内閣)と大隈重信青木周蔵、岩倉公、近衛公を始めとする名士たちが各国公使らとともに一同に列席した[264]。 また、1901年(明治34年)9月26日には、米国マッキンリー大統領の遥葬式があり、米国特命全権公使アルフレッド・バック英語版を喪主として、この時も皇族に加え、桂太郎内閣総理大臣を始めとする主要閣僚と名士たちが参集した。米国の要人の護衛としてハッチ大佐率いる米国水兵二小隊がつき、日本側からも近衛騎兵半小隊が要人の護衛の任務についた。参列者は各国公使や領事を含め400名を超えたという[265]。このように、築地キャンパスと聖三一大聖堂は、英米両国と日本の友好関係を象徴する場所であり、日本の国家行事にも使われた。
聖三一大聖堂(現在に続く東京聖三一教会)は、1883年(明治16年)に創設された立教大学校の学生と、同じ校舎に併設された東京三一神学校(現・聖公会神学院)の学生、および築地を中心とする周辺の信徒、求道者が当初は教室で、翌年からは講堂で立教教会の名称で集会を開いたことに始まる。先述した1889年(明治22年)12月には、立教大学校に隣接する築地居留地39番に大聖堂が竣工し、築地の各集会所の会衆と深川聖三一教会(後の真光教会)から分かれた会衆により教会が発足すると、従前どおり、立教教会と呼ばれた[26][474]

トイスラー記念館

1933年(昭和8年)に、明石町19番地(前・築地居留地19番)に聖路加国際病院の宣教師館(後のトイスラー記念館)建てられた。設計はJ・V・W・バーガミニーで、施工は清水組(現・清水建設)が行った[475]。この築地居留地19番は、フランス人のハアボール・ブラントが所有した後に米国聖公会の手に渡り、ウィリアムズ関連の建物があったと思われ、そこに新しく宣教師館が建てられたものであった[476]。トイスラー記念館は1989年(平成元年)に解体され、1998年(平成10年)2月に現在地へ移築復元された[475]

立教大学と大隈重信(長崎から続く歴史)

大隈重信

大隈重信は、幕末に長崎チャニング・ウィリアムズから英語、数学など英学を学び、致遠館督学となる副島種臣(第4代内務大臣、第3代外務卿)や、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)の2代目校長となる前島密らとともに立教大学創設者ウィリアムズに師事した最初の弟子の一人であった[注釈 80][31][257][11]
大隈はウィリアムズの盟友のグイド・フルベッキにも師事し英学を学んだ。ウィリアムズとフルベッキは私塾での教授に加えて共に長崎洋学所で教鞭を執った[477][478]。当時の教材は新約聖書合衆国憲法に加え、アメリカ独立宣言であった。独立宣言の「人は平等に生れ、生命と自由と幸福の追求は天与不抜の権利である。」との声明は、近世封建社会下にあった日本の青年の心に火をつける。かくして、大隈は日本の政治上の近代化のために大志を抱くこととなり、生涯に渡って大きな影響を受けることとなった[479]。アメリカ独立宣言起草者のトーマス・ジェファーソンはアメリカでハーバード大学に次いで2番目に古い歴史を持つ、ウィリアムズが卒業したウィリアム&メアリー大学の卒業生でもあり、ウィリアムズにとっても同郷バージニア出身の立志伝中の英雄であった。
大隈は、「ジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには、青年を教育することの必要を感じてバージニア大学を設立した。ジェファーソンと同じ考えで、早稲田大学を創設した。」と語っている[479]。ジェファーソンの「人間精神の無限の自由」は、立教大学では『自由の学府』に受け継がれ、早稲田大学では建学的基本精神なる『学問の独立』に受け継がれている[479][注釈 120]
また、大隈は、浦上四番崩れについてのイギリス公使パークスとの交渉で、一時的に問題を解決し、新政府内で頭角を現し政治家として大成していく契機となったが、交渉が成功を収めたのはウィリアムズとフルベッキから英学とともに、キリスト教の知識を学び会得していたからであった。大隈は、キリスト教の教義から知りえた、等しく社会の人心に向かって道徳を保持する目的があると心得ていたことにより、日本の外交官の中にも無学無智ではなく、一通りキリスト教の教義を勉強したものがいるものだと親しみを持たれ交渉が進められたのは、全てその時に学んだ経験の恩恵であったと述懐している[12]

現在の長崎・東山手(英国聖公会会堂跡・C.M.ウィリアムズ宣教師館跡付近)

立教大学も早稲田大学も、ともに長崎に源流を持つ。大隈は、聖公会が設立した私塾や長崎洋学所でウィリアムズとフルベッキから英学を学んだ後、1867年(慶応3年)、同じく長崎で早稲田大学の源流となる佐賀藩の英学校「蕃学稽古所(翌1868年に致遠館と改称)」をフルベッキを教師に迎えて副島種臣とともに開設のために尽力したのち、教頭格として指導にあたったが[319]、立教大学の源流も1859年(安政6年)にジョン・リギンズとウィリアムズが、プロテスタント初のミッションとして長崎で初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援のもとに開設した私塾にあり、両大学ともに幕末の長崎からの歴史をこれまで繋いできたのである[480]。ウィリアムズもフルベッキも来日後、同じ崇福寺に住み[293][281]、その後、外国人のために整備された長崎・東山手外国人居留地でも、それぞれ五番館と三番館と近所に居を構えた[91][注釈 121]。1862年(文久2年)に、東山手居留地内(11番地)に設立された日本で最初のプロテスタントの教会である英国聖公会会堂の初代チャプレンをウィリアムズが務め、2代目チャプレンはフルベッキが務めた[284][290]坂本龍馬が中心となって結成した亀山社中や、長州藩伊藤博文井上馨とも取引を行ったグラバー商会も隣接する大浦居留地の2番にあり[481]トーマス・グラバーは英国聖公会会堂の管理人の一人であった[306]。大隈も他の志士と同じようにウィリアムズとフルベッキの私塾に通い、教えを乞うたのである[12]。大隈はウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と親しくなり、盟友になっていくこととなった[316]。ウィリアムズを訪れる日本の志士は、公式な訪問を避けるために夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をすることもあった[3]。その中には、肥後藩の海軍司令官で、坂本龍馬と肥後藩を薩長同盟に加えようと画策した荘村省三(助右衛門)も含まれていた[注釈 53]

後年、大隈は1919年(大正8年)に開催された立教大学池袋校舎落成式に来賓として出席する。そこで長崎時代から続く大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から、立教大学との縁故に及び、さらに50年来の日米両国人の交誼を説く演説を行った[14]。演説の中で大隈は、「我輩が青年時代、ウィリアムズ師が長崎在住時代に同師から親しく教えを受けたことがある。この意味で私も立教大学同窓生の一人である。」と述べ、かっさいを博した[154][482]
大隈が立教築地キャンパスの形成に尽力したことは立教大学との縁故の一つである[注釈 54]。アメリカ合衆国式のカレッジを日本に建設するとの計画のもと、新たな施設建築のため、土地を必要としていたウィリアムズの要請を受け、大隈は、1888年(明治21年)から枯渇状態であった築地居留地の予備地の造成に尽力し、ウィリアムズが計画した学校、教会、病院からなる米国聖公会のキャンパス拡張に大きく貢献したのである。大隈は早稲田大学を創設した人物であるが、立教大学にとっても同窓生の一人であり、創成期の発展に貢献した功労者で重要な人物であった。

また、大隈重信は聖路加病院の国際病院化と新病院建設計画を支援するため、1914年(大正3年)に聖路加国際病院設立評議会を設立し会長に就任した。評議会の実行委員として立教大学校出身の阪井徳太郎も活躍し、政財界の有力者たちによる支援の輪が広がっていく。こうしてウィリアムズの元で学んだ大隈と阪井の尽力により、聖路加病院はトイスラーのもとで新病院を建設し、聖路加国際病院へと発展していくこととなった[483][484]



聖公会ミッションの医療活動の歴史

ミッションの医療活動

米国聖公会伝道本部のチャーチ・ミッション・ハウス

立教大学は、開設以来、幾度と医学部の開設を構想してきた[406]。立教大学を創設した米国聖公会ミッションは、教会を設立して伝道を行うとともに、教育活動と医療活動を展開していくことが活動の本質であった(#年表を参照)。ミッションにおいて教育活動の中心となるのが学校や寄宿舎で、医療活動の中心となるのが病院や診療所であり、米国聖公会は1859年(安政6年)、幕末の長崎で日本ミッションを開設した当初から、これらの開設と運営を進めてきた[3][485][注釈 122]。米国初代総領事で熱心な聖公会員であったタウンゼント・ハリスが、米国全権代表として締結した日米修好通商条約に本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えることで宣教師の来日が可能になったが、ハリスも米国聖公会の遣清宣教師であったエドワード・サイルに対し、英語を教える学校の開設と医師による医療事業の開始を伝道上の良策として提言し、聖公会の教育と医療を軸とする伝道施策展開の基本姿勢として活かされ、現在に続く教育事業と医療事業として実を結んでいる[256]

日本人は条約上の義務を極めて慎重に遵守するであろう。将来の伝道の成功は一に最初に派遣される宣教師の行為にかかっており、もし彼が慎重堅忍よく慮って、熱心に駆られて行き過ぎることのない様に自制して働くならば、必ずや最後の栄冠を受けるだろう。英語を教える学校を開き、あるいは医師が診療事業を開始するなどは伝道上の良策であろう。読み書きが日本ほど普及しているところは世界のどこにもないであろう。

—タウンゼント・ハリス(日本聖公会百年史より)

米国聖公会の日本伝道を支援したニューヨークの聖マルコ教会

ハリスやサイルらの活動の結果、米国聖公会伝道本部から宣教師に任命されたジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズは、日本でプロテスタント初となるミッションを開設し、早速二人は私塾を設けるなど教育活動を始めるが、リギンズは多くの医学書を日本に流通させた[486]。同時に医療宣教師(宣教医)であるハインリッヒ・シュミット医師が任命され、日本で医療活動と医療従事者向けに教育活動を始めた。シュミットは長崎に診療所と私塾を開設し、治療活動を行うとともに、地元の医師に西洋医学と英語を教え、近世日本の布教史における最初の宣教医となったのである[285][91]。その後、米国聖公会の活動の中心は、のちに初代日本伝道専任主教となるウィリアムズの動きに伴い、長崎から、大都市の大阪、東京へと移っていく。
大阪では、1869年(明治2年)にウィリアムズが、川口居留地近くの与力町の自室に小礼拝堂(ミッション・チャペル)、翌1870年(明治3年)に礼拝堂(ストリート・チャペル)と英学講義所を開設したことを足掛かりにミッション拠点を構築していくと[320][322][31]、1873年(明治6年)に、米国聖公会伝道本部から宣教医に任命されたヘンリー・ラニング医師が診療所を開設し、医療活動を始めた。1883年(明治16年)には、大阪・川口居留地8番に木造2階建ての病院が新築され、ラニング医師が院長を務めたが、この病院が現在の聖バルナバ病院となった[329]
東京では、1874年(明治7年)に、築地居留地にウィリアムズが私塾(立教学校)を開設し拠点を築いていくと、1883年(明治16年)に、フランク・ハレル医師が宣教医に任命され、翌1884年(明治17年)に来日し、同年5月に築地居留地38番館の自宅に診療所(のちに、築地診療所と呼ばれた)を開院し、翌6月には深川聖三一教会の裏に「大橋診療所」を開設する[331][329][185]。ハレル医師の医療活動は進展し、患者数も増えていくが、1887年(明治20年)にハレルは日本政府へ赴任し第二高等中学校(現・東北大学)の英語教師になることが決まり、宣教医を辞職しミッションから退くこととなった[329][185]。しかし、1890年(明治23年)になるとウィリアムズの要請により、医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を新たに開設して院長となり、医療活動を再開する。その後、前項「#築地キャンパス(立教と聖路加)」の記述の通り、愛恵病院は、立教大学校校舎(現・立教大学)があった築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称して開設。一旦閉鎖した後、ジョン・マキムの要請により来日したルドルフ・トイスラーが1901年(明治34年)、同地に「聖路加病院」(英語名は同じくSt. Luke's Hospital)を設立して、閉鎖していた病院を再興し、現在の聖路加国際病院へ繋がっていくこととなった[473]
このように聖公会のミッションの教育事業と医療事業はセットであり、学校の開設とともに医師を育成する医学部開設構想の流れはミッションにおいて自然なことであった。ウィリアムズが、伝道の働きのために学校と医療事業の両方が協力しあうことによって日本の人々に働きかけていこうとしたヴィジョンそのものでもあった[485]
1905年(明治38年)には、米国人医師ウィリス・ホイットニーの『Notes on the History of Medical Progress in Japan』の単行本を出版するなど、医学関連書籍の流通も進めた。同書の巻頭には、前述の築地の同地で「解体新書」を著した杉田玄白の姿が描かれ、日本医学の進歩の歴史が綴られている[注釈 112]

医学部開設構想

ハインリッヒ・シュミット

1917年(大正6年)に、築地にあった立教大学に医学部の開設が計画される。当時、聖公会の築地キャンパスには、大学に隣接して、聖路加病院(現:聖路加国際病院)が設置されており、連携を取りながら運営が可能であった。学校を管轄する文部省内でも立教大学医学部創立論があり、文部省から立教大学へ設立の申し入れを行い、設立に向かって計画が進み出した。文部省は、大学令制定構想に則って米国からの寄付金を主体として池袋に大学を集約する立教大学の計画を知り、日本医学専門学校より総退学した学生達と、同校に残る学生達とを立教大学医学部に収容し、日本医学専門学校紛擾問題を一気に解決しようとしていた。 しかし、当時欧州での第一次世界大戦の影響から、聖路加病院院長であるトイスラーの尽力にもかかわらず医学部開設のための募金が集まらず、1918年(大正7年)2月12日に計画を断念し、設置に至らなかった[381][382][383]。 その後も、立教学院の理事でもあったトイスラーとともに医学部設置構想を進めるなど、大正から昭和に至るまで度々計画が具現化される問題であった[406]
1941年(昭和16年)には、理事会において立教学院総長兼大学学長であった遠山郁三より「多年ノ懸案タル」医学部設置の提案がなされた。聖路加国際病院(当時・財団法人聖路加国際メディカルセンター)との協力のもとで実現しようとする計画であった。理事会において、聖路加国際病院院長の橋本寛敏も出席し、必要性などについての発言を行った。その結果、医学部を聖路加国際病院と協力して設置することに一致決定したのであった。この立教側の決定を受けて、聖路加側でも理事会によって、協同により立教大学に医学部を新設することを決定した。認可申請の手続きは、立教大学側に一任するととともに、認可の際には、聖路加を立教学院に合併することとされた。申請の構想によると、予科(三年制)を1942年(昭和17年)4月から池袋に開設し、その卒業生が出る1945年(昭和20年)4月から、聖路加国際病院がある京橋区明石町に学部(四年制)を開設する予定であった。学生定員は予科が100名、学部が80名という規模であった。1942年(昭和17年)2月19日に、文部省に対して医学部設置の認可申請が行なわれ、同年5月30日に、厚生省に対しても申請が行われた。同月には、医学部校舎鳥瞰図・校舎図面も作成され着工の準備が進んだ[487]。しかし、文部省の了承は取り付けたものの[注釈 123]、聖路加国際病院が戦時下の医療拠点として期待されていたことなどの阻害要因があったと考えられ、省庁間の縄張り争いから厚生省において了承が得られず、開設には要らなかった[注釈 124]。医学部設置のために精力を傾けてきた遠山は、学院総長・理事、大学学長というすべての職を辞し、立教を去ることになった[406]。(戦後になって、遠山は聖路加国際病院顧問として皮膚科診療に従事している。)
戦後の学制改革による新制大学の設置(1949年)に際しても、医学部の開設が決定され、理学部がその前段階教育を担うものとされた。しかし、肝心の聖路加の病院施設が、GHQによる接収(1956年まで)を受けていたこともあり、実現に至らなかった[413]
2022年 (令和4年)現在、医学部は開設されていないが、スポーツ医学の分野では2019年(令和元年)から聖路加国際大学と協定を締結し、聖路加国際病院スポーツ総合医療センターの医療スタッフからスポーツにおける医療的な支援や協力を受けられる体制を整備している。また、大学院理学研究科では、順天堂大学大学院医学研究科と協定を締結し、医学物理士養成プログラムである医学物理学副専攻を設置している。2017年(平成29年)には、聖路加国際大学に日本で5番目となる公衆衛生大学院(専門職大学院公衆衛生学研究科)が開設されている[488]


注釈

  1. ^ 1870年(明治3年)にウィリアムズが大阪・川口の与力町に設立した英学講義所「のちの英和学舎」も、立教大学の前身の一つである。また、1877年(明治10年)に大阪・北浜で中島彬夫が創設した英学私塾である風雲館(1880年・明治13年に大阪・英和学舎と合併)も前身の一つとして考えられる。
    1874年(明治7年)に東京・築地外国人居留地に設立された立教学校は、開校当初、主教らの公的書簡では「Day school for boy」または「Boys school」などと記されていたが[1]、年末までには「立教学校」と命名された。また、立教学校卒業生の河島敬蔵の経歴書によると、ウィリアムズとともにエドワード・サイルも立教学校の設立に関与していたと思われる[2]
    これらに遡り、幕末の長崎において既に立教大学の源流となる私塾が開設されている。1859年(安政6年)5月2日にプロテスタント初の宣教師として長崎に来日した米国聖公会のジョン・リギンズは、初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援のもと長崎奉行の要請で私塾を創設し長崎通詞たちに英語を教えた。翌月25日に来日したチャニング・ウィリアムズもリギンズとともに、私塾で数学を含む英学を教え、幕府の長崎洋学所などでも英語を教えるなど、英学教育を行った[3][4]
    翌1860年(万延元年)には、リギンズ、ウィリアムズとともに長崎に派遣された米国聖公会宣教医のハインリッヒ・シュミットも診療所の開設と、医学塾及び英語塾を創設し、地元の医師に西洋医学と英語を教えた[5]
    また、1863年(文久3年)に英国国教会の司祭であったマイケル・ベイリーは横浜で英語塾を開設し、日本人に英語を教えた[6]。1869年(明治2年)1月には、ウィリアムズの要請により長崎に来日した英国聖公会宣教協会(CMS)の宣教師ジョージ・エンソルは長崎で英学稽古所を開き、英語を教えながら伝道している[7]
  2. ^ a b 英学を主とする立教学校でも創立当初から漢学の教授にも比重を置き、古瀬清寧を始め、志村孤雲、赤尾戒三など優れた漢学教師を擁していた[92]
  3. ^ a b c ブリテン諸島ではローマ・カトリックより前から独自のキリスト教文化があったとして、のちの時代の聖公会においてケルト系キリスト教にアイデンティティーを見出す動きが一部に見られ、近代に建てられた各国の聖公会の聖堂や墓碑などにも、ケルト十字が好んで用いられるという傾向もある[9]。立教大学のチャペルや立教大学の前身の1つである英和学舎のあった地に建つ大阪・川口基督教会の建物にもケルト十字が用いられている。
  4. ^ a b c 1859年(安政6年)に長崎でミッションを開設した当初から、高等教育を行う男子校(カレッジ)を設立することが常に日本における最重要課題であったと、ウィリアムズは1880年(明治13年)6月30日の江戸伝道主教の報告で語った。さらに、この報告当時、欧米の学識を熱心に取り込んでいるが、何が真理で何が偽りなのか判断できていない日本において、キリスト教に基づくカレッジ創設は喫緊の課題であり、教会のためになると強調した[10]
    この課題は、翌年の1881年(明治14年)に東京で開催された在日米国聖公会宣教師会議で決議されることとなった。この中で、大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で校長を務めていたテオドシウス・ティングによる日本人のカレッジ学生に日々1時間接する聖職宣教師と外国人教授4人を配した東京大学の文学コースに並ぶ学習課程を持つカレッジを創設する必要があることを訴えた論説が出席者たちの心を大きく捉え、伝道事業の徹底のために速やかにカレッジを設立することがメンバーの大半の賛成により可決された。この結果を受け、ジェームズ・ガーディナーの設計による校舎が東京・築地に建設され、1859年の長崎での私塾開設から約四半世紀経った1883年(明治16年)1月に、立教大学校(St. Paul's College, 6年制)が創設された[10]
  5. ^ a b c d 1854年(嘉永7年)の日米和親条約を端緒として洋学研究と教育の必要性が生じると、江戸幕府蕃書和解御用で行われていた洋書翻訳事業を独立させて、1855年(安政2年)に洋学所を九段下に開設。翌1856年(安政3年)、蕃書調所開成所の前身で東京大学東京外国語大学の源流)と改称した。さらに1858年(安政5年)7月の日米通商修好条約締結により、本格的に英語通訳の養成が必要となった。
    既に1857年(安政4年)には、幕府は長崎奉行に命じ、長崎海軍伝習所のあった長崎西役所内に語学伝習所を設立していたが、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には英語に特化した長崎英語伝習所が設立された。
    次いで幕府の公式通詞たちは、長崎奉行から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船ポウハタン付きの牧師ヘンリー・ウッドや、1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、瑪高温、マゴオン)らに英語を学んだ。
    こうした中、1859年(安政6年)4月下旬の米国総領事タウンゼント・ハリスの長崎入りに合わせて、上海からジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズがそれぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行・岡部長常からの要請で私塾を開設し、公式通詞たちに英学の教授を行うこととなった。
  6. ^ 日本におけるプロテスタント初の宣教師である米国聖公会ジョン・リギンズが長崎に来日する数日前の1859年4月下旬には、初代米国総領事タウンゼント・ハリスが長崎を訪問し、5月初めにハリスは、アメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。こうして、リギンズとウィリアムズの来日に際して、聖公会の信徒で日本への米国聖公会の学校設立の勧告と支援を行ってきたハリスも同時に長崎を訪れ、長崎でもアメリカの活動拠点の構築と整備を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった[15]。 ハリスとウォルシュの支援により、リギンズは長崎奉行の要請から聖公会の長崎私塾(立教大学の源流)を開設し、ウィリアムズとともに早速英学教育を開始した。ハリスは、ニューヨーク市立大学の創設者で、ニューヨーク市の教育局長も務めた人物でもあり、日米外交の芽吹きの中で、教育者として立教大学の源流の創設に深く関わった[3]
    また、リギンズとウィリアムズは、私邸や長崎大浦の妙行寺に置かれた英国領事館を使って外国人のための礼拝を開始し、1859年9月に来日した聖公会信徒で日本の近代化に大きく貢献するトーマス・グラバーも礼拝に参加した[16]。 グラバーは幕末の志士たちと商取引を行い、ウィリアムズが教える私塾には多くの志士たちが学んだ。グラバー商会などとともに、ジョン・G・ウォルシュが兄とともに経営するウォルシュ商会も長崎で幕末の志士たちと商取引を行い、坂本龍馬亀山社中が1866年(慶應2年)に薩摩藩の後援で購入した艦船「太極丸」は、ウォルシュ商会のプロシア商人チョルチから購入している[17]。ウォルシュ商会は日本で初めて成功したアメリカ企業の一つである。
  7. ^ a b c d 明治中期には、立教築地キャンパス(現在の聖路加国際病院聖路加国際大学の場所)の近く、現在の聖路加ガーデンの場所にアメリカ公使館が建っていた。幕末の日米和親条約により、当初アメリカ領事館は、伊豆下田玉泉寺に置かれ、米国聖公会の信徒であり、日本への米国聖公会による学校開設を勧めたタウンゼント・ハリスが初代駐日領事として赴任した。その後、日米修好通商条約が結ばれ、ハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を引き払い、1859年(安政6年)、現在の東京元麻布善福寺にアメリカ公使館を開設。1863年(文久3年)5月、善福寺の建物が庫裏からの出火で消失したため、横浜の山手居留地に公使館施設を設けたり、関内居留地の海岸通り20番に開業したばかりのグランドホテルに公使が滞在するなどしたのち、1874年(明治7年)4月末または5月初め、アメリカ公使館は築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の聖路加ガーデンの場所)に移転。(のちに3番も敷地に加えた。)1875年(明治8年)12月には、同地に公館を新築し形容を整えた。その後、築地の公使館は手狭となり、1890年(明治23年)3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転した[18][19][20]。(外務省調査月報 2013 No.1には、1890年(明治23年)5月15日まで、公使館は築地に置かれていたとある。)
    築地のアメリカ公使館跡には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国の最初の13州を示す。8個の石標のうち3個は1984年(昭和59年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個は、築地居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、3個は聖路加国際病院敷地に、2個は聖路加ガーデンに設置されている。
    1930年(昭和5年)5月26日には、ライフスナイダー総長が、赤坂のアメリカ大使館の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行っている[21]1939年(昭和14年)には、日本で最初のアメリカ研究の機関として「アメリカ研究所」が設立された[22]
  8. ^ 1919年(大正8年)の立教大学池袋校舎落成式では、会場正面に大型の日米国旗を交差する中で開催され、大隈重信金子堅太郎渋沢栄一外務大臣などとともに駐日米国大使も出席し祝辞を述べ、日米両国の友好の証として式典が盛大に祝われた[14]。また、当時の卒業式などの学校行事においても、アメリカ国旗を日本国旗とともに会場に掲揚し、式典が行われた[23]
  9. ^ a b 2014年1月21日には池袋キャンパスで駐日米国大使館首席公使カート・トンを招いて「日米友好の木 ハナミズキ」の植樹式が開催された。植樹は日本から米国に3000本のサクラを寄贈してから100周年を記念して、米国民から日本への返礼として3000本のハナミズキを贈る取り組み「友好の木 - ハナミズキ・イニシアチブ」の一環として行われた。同イニシアチブは、日米の国民同士の異文化および教育交流を体現するものとして、米国政府と日米交流財団が共同で設立した官民パートナーシップにより運営される。立教大学は米国聖公会から派遣された宣教師によって創設された学校で、2014年当時で140年に渡る米国との深い関係が続いていることから、学校法人としては初めて、40本のハナミズキの寄贈を受けた。また、日米両国の友好と親善に尽力された功績に敬意を表し、立教大学は1965年にライシャワー駐日大使、2000年にフォーリー駐日大使、2013年にルース駐日大使に名誉博士学位を授与している[24]
  10. ^ a b c d e f 立教大学校は、1883年(明治16年)に米国式カレッジとして東京・築地に設立され、東京大学とともに明治中期の日本を代表する最高レベルの高等教育機関である[25]。明治政府によりミッションスクール第一号として認可された[26]。これは1886年(明治19年)に公布された帝国大学令と1918年(大正7年)に公布された大学令によって制定され成立した大学よりも前に、教育令(第2次教育令・1880年/明治13年12月28日公布)によって設立・認可された日本における先駆けの大学(最高学府)であった[27]角帽モルタルボード型)を最初に着用して都内を闊歩したのは、立教大学校生といわれる[25]。気の利いた生徒はこの西洋風の角帽を被り、西洋の大学に入学したような心持であったという[28]。 新校舎は美しい尖塔を有し、東京見物の人々も訪れるほどであった[25]。校舎は煉瓦造で、尖塔は銀座からも見え、当時の学生の大きな誇りとなっていた。また、これまで電気もガスもなく、初めてアセチリン瓦斯燈が輸入された当時であったが、講堂のランプは全て瓦斯燈を扱う商店の寄付により設置され、講堂の聴衆は明るく煌々たる光景に肝をつぶしたという[28]
    カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった[25]。訳読と数学の先生だけ日本人であった[28]。英語の授業は最初は全く理解できなくても、不思議なことに1ヵ月もするとほぼ意味が分かるようになっていったという[28]。 但し、ギリシア語ラテン語に代えて漢学も課されていたとされる[29]。代数幾何学、動物学、理科学、地質学、植物学、化学、天文学など多彩な理系・自然科学科目を教え、文系・人文科学社会科学科目とともにヨーロッパ中世以来のリベラル・アーツの伝統を色濃く引き継ぐアーツ・サイエンス教育を行った[30]。学生は熱心に勉強したとされ、苦学生は東京各所の家の2階を借り、英語の教授をして寄宿代を稼いだ。また紳士が三輪車や手車で大学校へ来て、生徒から英語を教わることもあり、立教の苦学生は日本の英語教育に貢献するところがあった[28]
    当時、最高学府としての大学の名を有する高等教育機関は、1877年(明治10年)設立の東京大学と立教大学校のみで、「東京に大学校二あり、一は本郷に又た一は築地に在り」と呼ばれ、東京大学と立教大学校の二つをもって大学校の代表とし、日本屈指の教育機関であった。同時期、1877年(明治10年)に工学寮を改称して生まれた工部大学校(のちの東京大学工学部)もあったが、技術者養成の教育機関であった。また、1880年(明治13年)に開校した築地大学校も存在したが、1883年(明治16年)には横浜の先志学校東京一致神学校へ人材を供給することを目標に統合され、東京一致英和学校となり、大学という名称から変更している[25]。立教大学校は、欧化主義への反動から国粋主義が広がり出したことによるキリスト教への圧力や、日本の教育制度の変更などから、その後カレッジの進展を断念せざるを得ない状況となったが、1890年(明治23年)10月に日本の教育制度に合わせる対応をするなど、障壁を乗り越え、校名を立教学校として日本での教育活動を維持した[31]。また、当時カレッジの進展を断念した別の背景として、これまで中心的な人物であったウィリアムズが、1889年(明治22年)に主教を退任するとともに、チャプレンとして聖書講義を担当していた立教大学校と三一神学校を退任したこと。加えて、1887年(明治20年)9月に、これまで教頭や幹事として立教大学校を支えてきた貫元介が退任して山口に帰郷したが、貫から学校事務を引き継いだローやモリスは、学校事務の事情に精通していなかったことから、時代の波に乗れず学生が減少したという状況もあった[10]
    上記のとおり、日本においてはアメリカ人の経営する大学は厳しい状況に置かれた一方、同じく米国聖公会によって中国・上海に置かれた姉妹校である聖ヨハネ大学(セント・ジョンズ大学)は、東洋のハーバード大学と呼ばれるまでに成長を遂げた。
  11. ^ ミッション系大学では同志社大学に次いで認可を受けた[32]
  12. ^ St.Paul's Universityの略称で、体育会応援団チアリーディング部の一部ユニフォームや体育会水泳部のマークなどで使用されている[34][35]
    箱根駅伝などに出場する体育会陸上競技部のユニフォームなどにはRikkyo Universityの「R」の文字が使用される。2022年10月にZOZOTOWNとのコラボレーションで発売されたスウェットには「RU」のロゴが施されている[36]
  13. ^ 東京六大学の括り自体は、日本に現存する大学野球の対校リーグ戦では最も古い東京六大学野球連盟を発祥とする。
  14. ^ 「本気で勉強したくなる図書館」とは、大学側が用意したコンセプトではなく、学生のツイートから始まったコンセプトである。図書館の開館前に比べて、利用率は増えており、学習教育と研究の基盤になっている[48]
  15. ^ 立教グローバル/ローカルキャリア支援ネットワークの略称。
  16. ^ 立教大学校時代には、教員は主に外国人で、カリキュラムも全て英語の教科書が用いられていた[25]
  17. ^ 彼らは立教大学出身の新聞雑誌関係者で組織する立教大学の記者クラブである「アルファ會」にも所属し、大学新聞にも寄稿するなど活躍した[60]
  18. ^ 例として、ウィリアムズ主教が卒業したウィリアム&メアリー大学でも、主専攻+副専攻(メジャー、マイナー)の学部課程履修プログラムが設けられており、文系科目、理系科目に問わず、多くの副専攻が用意されている[61]。また別の例として、コーネル大学では、主専攻とともに多くの副専攻が設置されているのに加え、2つの主専攻を学ぶdual-degree programs(2重学位プログラム)があり、従来の部門の境界を超える学際的な履修プログラムが設けられている[62]
  19. ^ 4大学共同で開発する教育プログラムによる相互質保証の上で、4大学間長期交換留学、インターンシップ、インテンシブプログラム、共同オンライン科目群で構成する「国際共同副専攻 (ALIS)」を開設し、アジア文化圏の学生や多様な人々との協働を通じて、国際社会の諸問題の解決について思考し、行動できる人材を育成することを目的としている。
  20. ^ その頃、日本国内には学部レベルのリーダーシップ教育の科目はなく、社会心理学的、組織行動論的な科目はあったが、学生にリーダーシップを身に付けさせる科目は皆無であった[67]
  21. ^ 授業のアシスタントを務める学生。SAを希望する学生は多く、学内応募・選考を経て、研修を行った上で授業のサポートにあたる。
  22. ^ 1509年に創設された英国のパブリックスクールの名門校で、ラグビースクールとともにラグビー競技のルーツ校の一つである「セント・ポールズ・スクール」の名称は、セント・ポール大聖堂に由来し、同校は大聖堂の主任司祭であったジョン・コレットによって創設された[79][80]。1904年には、女子校である「セント・ポールズ・ガールズ・スクール」が創設されている。
  23. ^ 京都大学でも立教大学と同じく、創立以来「自由の学風」を基本理念に掲げている。研究の自由と自主の環境の中で、世界的な研究者を生み出してきた。
  24. ^ コロンビア大学でも学んだ元田作之進(立教大学の初代学長)は、立教中学の校長時代に、立教の教育の方針を「徳育に重きを置き、人格の完全した生徒を養成するといふこと」にあるとして、「聖書クラスなどが設けてあるとは云っても、これは生徒の徳育に資せやうとするので、如何してもこれに加はらねばならぬと云うものではない。生徒各自が宗教に就いての信仰を持つ、持たぬは各自の自由である。従つて普通の宗教学校にやうに、朝祈祷もせなければ礼拝も行はぬ。」と語っている[25]
    同じくコロンビア大学で学び、総長を務めた松下正寿は、「立教大学はキリスト教に基づく教育を施すところである。というのは立教大学はキリスト教を教えるところ(文学部キリスト教学科は別であるが)であるという意味でなく、況んやキリスト教を強制するところではない。直接の強制はもとより間接の強制もしない。クリスチャンであるか否かは入学試験には一切関係ないし入学後もクリスチャンは他の学生に比し何ら特権を持っていない。一切平等である。我々はそれが『キリスト教に基づく教育』であると信じている。(中略)人種の別、男女の別、階級の別、宗教の別等で人間を差別待遇するのは独りの神が人間を平等に造られ、人間を凡で愛し給うというキリストの信条に違反する。」と語っている[87]
  25. ^ 米国コネチカット州の伝統あるリベラルアーツ・カレッジのトリニティ・カレッジも立教大学と同じく米国聖公会によって設立された大学であるが、宗教的および学問の自由の原則に根差している。トリニティ・カレッジの憲章は、創立当時の宗教的多様性と寛容性と一致して、学生、教職員、または大学の他のメンバーに宗教的基準を課すこと禁じている。1957年(昭和32年)には、立教大学芸術研究会がトリニティ・カレッジとの美術作品交歓展を企画開催するなど交流の歴史がある[88]。立教大学はトリニティ・カレッジと大学間協定を締結している。
  26. ^ アイビー・リーグの1校であるペンシルベニア大学は、初代理事長のウィリアム・スミス英国国教会(イングランド国教会)の司祭であり、評議員の4分の3が英国国教会の関係者であったが、創設者であるベンジャミン・フランクリンの先駆的な指導のもと、意図的に特定の宗派と直接関係しないように設立されている[89]。そうした中でも、大学構内には米国聖公会のセント・メリーズ教会(St. Mary’s Church, Hamilton Village)があり、セントメリーズ・ハミルトンビレッジの学長は、ペンシルベニア大学のチャプレン事務所のアソシエイトを務めており、聖公会との深い関わりを持っている[90]
    また、幕末の長崎にリギンズとウィリアムズとともに米国聖公会から派遣されたハインリッヒ・シュミットもペンシルベニア大学で学び、医師免許を取得しているが、在学中に米国聖公会と密接な関係を築いたとみられる[91]。立教大学学長を務めた元田作之進杉浦貞二郎須藤吉之祐はペンシルベニア大学で学んだ。
  27. ^ リチャードがバージニア教区主教時代の1823年に、後にリギンズウィリアムズが学び、海外宣教師になることを決意することとなったバージニア神学校英語版が設立されている。
  28. ^ a b c 経営学部は、2006年に経済学部経営学科と社会学部産業関係学科を母体として開設された学部である。そのルーツは大学設立当初の商科に遡り、長い歴史と伝統を有している。
  29. ^ 立教ミステリクラブは、編集者で元・東京創元社社長の戸川安宣が学生時代に作ったクラブである[100]。戸川は、編集者としてミステリ作家を多数育成する傍ら、文庫解説等の執筆を行い、2018年からは江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』1‐5巻のリニューアルなどを手掛けている[101]
  30. ^ 大久保利謙は、政治史、行政史、文化史、大学史、洋学史、史学史など多様な分野において学問的基礎を築いたが、大学史の編纂では、1932年に『東京帝国大学五十年史』を作っている。立教の百年史『立教学院百年史』(1974年)の編纂では、記述はしていないが員外の委員を務めた。また、学習院史の編纂は、戦前には一人で行っていたが、戦後になって若い人に任せている[105]
  31. ^ 講義とともに開講された「立花ゼミ」は、学生が自ら探究する研究テーマも戦争、エロス、ヌーヴェルヴァーグ学食研究など広範に渡り、秘密結社のようなワクワク感があったという。多様さがゆえに、纏まりがないように思えるそれぞれの研究テーマであっても、立花の知識の幅広さとゼミ生の関心事の広さが、双方の好奇心や探究心によって融合し、リアルなゼミとWeb上に各々が発信する情報の中で知識が繋がり、更なる広がりや深みを生み出していった[126]
  32. ^ 立花は、立教大学セカンドステージ大学(RSSC)でも、立ち上げの段階から尽力し、2008年から2011年にRSSC特任教授、2011・12年にRSSC客員教授を務めた[127]
  33. ^ a b 当時は「進学相談会 on Campus」という名称であった[135]
  34. ^ ホテル講座は、当初、コーネル大学のホテル経営学校をモデルとしたホテル経営業務を主としたカリキュラムであった[149]。1954年(昭和29年)には、コーネル大学講師が授業を受け持った。また、慶應義塾大学も学生を本講座に派遣し学ばせていた[150]
  35. ^ 明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーは、現存する日本最古のリゾートホテルである「日光金谷ホテル」の経営者であった金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、善一郎の長男、金谷眞一はガーディナーが教えていた築地の立教学校に1892年(明治25年)に入学し、英学を学んだ。その後、眞一は、ホテル経営が厳しくなる中、ホテルに戻って経営者として金谷ホテルを改革し、名門ホテルとしての礎を築いた。こうして日光は外国人向け観光地、避暑地として名を馳せることとなった[151]
    善一郎の次男、金谷正造も、立教に進学した。正造は卒業後、イギリスに長期滞在するなど外国を旅したあと、帰国した翌年の1907年(明治40年)に、箱根の富士屋ホテルの創業者、山口仙之助の長女と結婚し、山口家に婿入りして、富士屋ホテルの経営に取り組んだ。山口正造は、『We Japanese』という日本を紹介する記事を発行するとともに、『ホテル実務学校』を開設した。正造は1944年(昭和19年)に亡くなるが、戦後まもなく、『正造記念育英会事業』が始まり、1946年(昭和21年)に、正造の遺族と日本ホテル協会の人が立教大学を訪ね、正造の遺志を継いで、母校の立教大学でホテル関係の人材育成活動を続けてほしいとする申し出を行った。こうして大学に開設されたのが『ホテル講座』であった[152]
  36. ^ ホテル講座開設当初から、業界の第一人者たちが教鞭と執っているが、1960年代にはソニービル東京芸術劇場を設計した芦原義信、日本観光協会外国部長の安居院平八、立教大学卒業生では、帝国ホテルで支配人を務めた古田直称や日本交通公社外国部長であった榎本容二らが講師を務めていた[154][155]
  37. ^ ディズニーワールド・インターンシップ・プログラムは観光学部に加えて、経営学部の学生も応募可能(2022年度時点)[158]
  38. ^ 1870年(明治3年)にウィリアムズが大阪・川口の与力町に設立した英学講義所が、1872年(明治5年)2月21日に古川町にて男子校として改組し開校すると、ウィリアムズは数学、理化学も教えた[172]。さらに1879年(明治9年)10月にテオドシウス・ティングが英和学舎として開校すると、文系科目に加え、天文学、生理学、本草学(医薬に関する学問)など高度な理系教育も行った[173]
  39. ^ 当時の1980年代初頭の日本には、野田が教える以外にアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は存在していなかった。日本ではアントレプレナー(起業家)の育成は中小企業で行っており、アントレプレナーの先生はアントレプレナーであり、大学で教授が教えることはなかったのである。当時のアントレプレナーはブルーカラーの世界だったが、徐々にホワイトカラーの方に移っていく契機となったのが、ベンチャー企業であった。知的レベルが上がっていくとビジネススクールでスキルを教える必要性が出てきたのである。1992年になると、法政大学教授の清成忠男(のちに法政大学総長)の尽力により法政大学大学院に企業家教育コースが開講し、人気を集め、ほぼ同時期に早稲田大学教授の松田修一がアントレプレナー研究会を始めて、ようやく起業家教育が全国に広がっていくこととなった。また、立教大学教授を1989年3月に定年退職した野田一夫は、同年4月に開校した多摩大学の初代学長として、ベンチャー型起業家を生み出すアントレプレナー教育を開始し、その後、学長となった事業構想大学院大学でも教育の基本に据え、立教大学でさきがけとして始めたアントレプレナーシップ教育を拡大していった[194][191]
  40. ^ 野中は、マネジメントは新たな教養であるとし、以下のようにに述べている。「ドラッカーという人と思想を見ていくときに、哲学・歴史・文学からのとらえ方も有効であろう。それともう一つ、マネジメントとはリベラル・アーツなのだということを提唱したのが、ドラッカーの見逃しえない功績と思う。豊かな現実を経験しながら、同時にその現実の背後にある本質を直観する。それを言語化するときの基礎が教養、リベラル・アーツである。生き生きとした現実、プロセスのなかで本質を直観することは、科学のみになしうることではない。人間の生き方に深く関わる洞察であるがために、科学よりはむしろリベラル・アーツである。すなわち、アートとなる。マネジメントを教養とするのはまさにそのためである。」[197]
  41. ^ ドラッカーは、1985年に発行した『イノベーションと企業家精神』の中で、「企業家精神の特性は、性格の問題ではなく、行動様式の問題である。しかも、企業家精神の基礎となるものは、直感的な能力ではなく、じつに論理的かつ構想的な能力なのである。」と述べ、企業家精神は極めて体系的なものであり、学習することで身に着け、実践することができるものとしている[200]
  42. ^ a b ビル・ゲイツは、「今日は名誉ある博士号授与だけでなく、皆さんとの対話を楽しみにして来た。私自身は大学を卒業できなかったのでうれしい。父は喜ぶだろう。」と講演の冒頭で語った。
  43. ^ ミルトン・フリードマンは、フリードリヒ・ハイエクの元で共に学んだ西山にとっての兄弟子。西山とフリードマンは、1977年以降はスタンフォード大学フーヴァー研究所でも長らく同僚で、2人は「ミルトン」「チアキ」と呼び合うほどの仲だった。また、フリードマンは立教大学と同じ聖公会が設立したコロンビア大学で博士号を取得している[210]
  44. ^ フリードマンのマネタリズムに関する論文はすでに日本で知られていたが、フリードマン自身が直接日本で新貨幣数量説について初めて講演を行い、理論の紹介を行った。
  45. ^ CSIは2010年3月に開設された。
  46. ^ 大学院学生・教職員・学内組織に対して、調査・統計技法を活用して、日々の研究活動を生かしたいというニーズに応じて相談業務を行う。
  47. ^ 日本のアメリカンフットボールの歴史は、1934年春頃から、ポール・ラッシュ博士(立教大学教授)、ジョージ・マーシャル(立教大学体育主事)、松本瀧藏(明治大学教授)、小川徳治(立教大学教授)、アレキサンダー・ジョージ(アメリカ大使館武官)、メレット・ブース(アメリカ大使館付武官)、加納克亮(朝日新聞記者)らが立教大学に集まり、我が国でのフットボール競技活動開始を協議したことに始まる。ラッシュの尽力により、同年10月28日に東京学生アメリカンフットボール連盟(現・関東学生アメリカンフットボール連盟)が結成され、11月29日には全東京学生選抜チーム(立教、明治、早稲田)と横浜カントリイ・アスレチック・クラブ(YCAC)との間で、明治神宮競技場において日本初の公式試合が開催された。観客は約2万人で、開会式ではジョセフ・グルー米国大使が祝辞を述べた。同年12月8日には、我が国最初のリーグ戦である東京学生リーグが開幕し、立教大学池袋グラウンドで初戦の立教大学対明治大学戦が開催された[234]
  48. ^ 立教大学新聞第148号(1957年11月8日)にある、アーサー・ロイド立教学院元総理)が野球部コーチを務めたとの記述は誤った記述であり、立教大学新聞第244号(1966年5月30日)に、ハーバート・ロイド(アーサー・ロイドとは無関係)がコーチを務めたとある。ハーバート・ロイドは、後に日本聖公会京都教区で司祭を務めたジェー・ロイドの厳父であるとされる[236][237]
  49. ^ 上海遠征は1924年12月から翌年1月にかけて実施され、オールホワイト、上海大学、上海アメリカンスクールとも交流試合を行った[238]
  50. ^ この遠征は校友で日清汽船副支配人であった山中喜一(後の東亜海運社長)が後援した[238]
  51. ^ a b オーガスティンは、同年(西暦597年)に、英国のパブリックスクールであり、世界最古の現役の学校の1つと評される「キングス・スクール」を創設[254]。キングス・スクールはカンタベリー大聖堂に隣接して設置されている。
  52. ^ a b 琉球王国で伝道活動した英国聖公会のバーナード・ジャン・ベッテルハイムを日本における最初のプロテスタント宣教師とすることもあるが、琉球王国は1879年になって日本の沖縄県になることから、正式に日本ミッション開設のために米国聖公会から派遣されたジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズを日本における最初のプロテスタント宣教師とする。
  53. ^ a b c 荘村助右衛門は肥後藩士で、長崎でウィリアムズに学んだ。1866年(慶応2年)2月にはウイリアムズより洗礼を受ける(日本における聖公会初の受洗者)。荘村は、藩では兵学者で西洋流砲術、洋式操練の研究担当し、佐久間象山の塾や、長崎海軍伝習所で学んだ。ウィリアムズからは軍事書を手に入れたほか、フルベッキグラバーに加え桂小五郎坂本龍馬とも親交を持ち、坂本龍馬とは肥後藩を薩長同盟に参加させようと画策した[309][257]
  54. ^ a b c d e f g 大隈重信は、立教築地キャンパスの形成に大きく貢献をした。築地居留地は、「狭義の居留地」と「相対借り地域」に分けられるが、1884年までに狭義の居留地に造成された計52の地所は外国人の手で全てせり落とされていた。米国聖公会はスタッフが増加し、居留地に建設した建物に収容できなくなったことと、さらなるキャンパスの拡張を行うため、敷地の拡充が必要となっていた。1888年6月29日にウィリアムズは、築地居留地の予備地の購入を求め、米国公使のハバードに要請した。要請を受けたハバードは、1888年7月3日、大隈重信外相に書簡249号を送り、ウィリアムズの書簡のコピーを付して、大隈の長崎時代の恩師であるウィリアムズの要請を伝達した。当時米国公使館は、ウィリアムズが住む築地居留地にあったので、ウィリアムズとハバードは事前に何回か会って打ち合わせを行ったと思われる。
    大隈は、1888年7月17日にハバード宛に予備地を築地居留地の拡張部分として日本の行政権から切り離す用意があると回答し、ただちに山県有朋内相、東京府の高崎知事にその内容を通知した。1888年11月2日には、大隈は山県に書簡を送り、おそくとも同年12月15日までに予備地を居留地に充用するために競売に付するべく準備するよう訓令することを求めた。1888年11月28日には訓令が出され、住人には移転料が支払われたが、ある住人は1889年4月までの立ち退き延期が認められた。この年の4月1日、高崎知事は、1889年5月16日に造成する53番から56番までの4つの地所を競売に付したい旨、上申した。同年5月16日に予定通り競売が行われ、4つの地所をいずれもウィリアムズが競り落とした。こうして大隈の尽力により米国聖公会は、キャンパス拡張用地として、住宅用1つ、病院用2つ、神学校用1つの土地を既にある居留地の拠点に隣接して、入手するに至ったのである[350]
  55. ^ 名門となった聖ヨハネ大学も、日中戦争などの情勢を受けて厳しい状況となった。その後、1949年の中華人民共和国の成立に伴い、1950年に米国聖公会の運営を離れ、1952年には解体されて学部ごとに各大学に移管された[259][260]
  56. ^ アメリカの自由と民主主義の象徴であり、ニューヨーク港内に建つ『自由の女神像』の左手には、ウィリアムズが卒業したウィリアム・アンド・メアリー大学の卒業生で、第3代合衆国大統領を務めたトーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言書を持っている。右手には、たいまつを持ち、足元には引きちぎられた鎖と足枷があり、それを踏みつけるような恰好となっている。これは、一切の弾圧や抑圧からの解放を表し、独立宣言書ととともに、『人類は、皆自由で平等である』ことを象徴している。女神像の正式名称は『世界を照らす自由』で、冠の7つのトゲのような突起は、7つの大陸と7つの海に自由が広がることを示している[266]。また、立教大学の本館(モリス館)の中央にある塔は、大正期において『自由の塔』と呼ばれていた。(#本館 モリス館(池袋キャンパス)を参照)
  57. ^ 米国コネチカット州の聖職者で、スコットランド聖公会によって主教に按手。
  58. ^ 新しい教会のための聖公会祈祷書の改訂版が書かれる。
  59. ^ アメリカ国内で聖公会の教会組織がない地域で教会を設立することと、外国においてもそれを同時に行おうとする機関。
  60. ^ のちにブーンの後任として、チャニング・ウィリアムズが中国・日本伝道主教となる。
  61. ^ 崇福寺の広徳院では、1859年(安政6年)にジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズが来日後に滞在し、長崎奉行の要請で英学教育を行うこととなった。崇福寺大悲庵は、長崎村西山郷(現・長崎市上西山町)に所在し、現在、庵が所在した付近にラナルド・マクドナルド顕彰碑が建てられている。
    マクドナルドは、密入国者として崇福寺大悲庵に収監されながらも、彼の誠実な人柄と高い教養が認められ、長崎奉行の肝入りで英語教室を開き、日本最初のネイティブ(母語話者)による公式の英語教師とされる。マクドナルドが教えた14名の長崎通詞の生徒の中には、ペリー艦隊来航時の日本側の通訳を務めた森山栄之助もいた。英語教室は、マクドナルドが翌1849年(嘉永2年)4月に送還されるまでの約半年程続けられた[275][276]
  62. ^ ハリスは、ニューヨーク市立大学シティカレッジの創設者でもある。来日する以前の1846年にニューヨーク市教育局長となったが、その頃(1840年代)のニューヨークは人口増加にも関わらず、高等教育機関が2校しかなく、経済的に困難な移民や労働者階級の子弟にはほとんど教育の機会が与えられていなかった。ハリスは、ニューヨークの発展に寄与する人材育成を目指し、「社会に開かれた高等教育の場」を理念に、1847年に無償の学校であるニューヨーク市「フリーアカデミー」(現:ニューヨーク市立大学シティカレッジ)を創設する。当時、このハリスの挑戦に対し、貧困層への無料教育が役に立つのかと周囲の風当たりは相当強いものであったが、学校はのちにニューヨーク市立大学へ発展し、多数のノーベル賞受賞者も輩出することとなり、ニューヨークのみならず世界的にもハリスの功績は多大なものとなった。現在のニューヨーク市立大学シティカレッジの学生数は1万6千人ほどであるが、ニューヨーク市立大学群で見ると、学生数は50万人を超え、世界有数の大学群となっている。
  63. ^ 長崎奉行から奉行所の長崎通詞に英語の教授するように要請を受けたタットノール提督 (Josiah B.Tatnall) は、英語教師としてヘンリー・ウッドを任命した。英語学校は、ポウハタン号艦上で開校。その後、ロシア交易場(Russian Bazaar) の2階の和室へ移った。カリキュラムは、英単語の発音から始まり、リーディング、文法と進み、算術、地理、天文学、キリスト教育など多彩な内容であった。学校名は母校のダートマス大学に因み、Dartmouth College, Juniorと命名した[280][3]
  64. ^ サイルは長崎奉行の希望によって長崎に英語教師として転任することを企てたが、米国聖公会本部の許可がなく実現しなかった[274]
  65. ^ エドワード・サイル(米国聖公会)、サミュエル・ウィリアムズ(長老派教会)、ヘンリー・ウッド(長老派教会)の3名が長崎でオランダ商館長ドンケル・クルチウスとの会談を行ったことにより日本側の対応を知り、それぞれが所属する母国の伝道協会宛てに宣教勧告書簡を送り、日本に派遣する宣教師を任命するように促した[281]。3名の連名による書簡であったとする資料が多いが、連名による書簡ではなかったようである。事実、ヘンリー・ウッドは、エドワード・サイルとサミュエル・ウイリアムズが長崎に来る前に、既に書簡を送っている[280]。また、サミュエル・ウイリアムズは宗派を超えて、米国聖公会へ向けて書簡を送っている[282]。ヘンリー・ウッドの宗派はオランダ改革派であったとする資料もあるが、当初は会衆派の牧師で、のちに長老派の牧師となった[280]。こうした背景には、会衆派、長老派、オランダ改革派などで結成された無宗派的な海外伝道組織であるアメリカン・ボードの影響も考えられる。
  66. ^ 長崎奉行の要請でマクゴーワンが2週間ほど英語を教えた後、同月下旬には船が出航したため、それ以後は出島に滞在する米国人リチャード・J・ウォルシュ(ワルシ、Richard James Walsh、ウォルシュ兄弟の3番目の弟)が出島にある居宅及び興善町の唐通詞会所で英語を教えた。
  67. ^ ジョン・リギンズは日本における最初のプロテスタント宣教師とされるが、療養のため、チャニング・ウィリアムズより1ヵ月早く来日し、英語教師および伝道師として精力的に活動したが、病気のため来日から1年も経たず1860年2月に日本を離れた。ウィリアムズも、リギンズとともに米国聖公会から同時に派遣を決定された人物であり、来日後長らく日本で活動したことから、日本における最初のプロテスタント宣教師である。リギンズとウィリアムズはヴァージニア聖公会神学校の同級生である[31]
  68. ^ 米国聖公会は同行する医療宣教師として、ハインリッヒ・シュミットを人選する[285]
  69. ^ ミッションの場所はエドワード・サイルが推奨した長崎となる[3]
  70. ^ 米国議会はまだ長崎の領事を任命しておらず、ハリスのウォルシュ指名は必要に迫られてのことだった[15]
  71. ^ リギンズは、長崎米国領事ウォルシュの支援もあり、江戸幕府の長崎奉行から美しい場所に建つ3部屋ある家(崇福寺境内にある広徳院)を提供された。そこで開設した私塾に授業クラスを設けて、翌月末に来日したウィリアムズとともに8人の幕府の公式通訳(長崎通詞)に英語を指導した[3][4]。最初の8人の生徒の中には、鄭幹輔何礼之平井希昌(義十郎)がいた[58]
    開設されたミッションは伝道に加え、教育活動と医療活動を目的としており、リギンズが要望していた医療・教育活動を行う宣教医の来日は、リギンズが離日後の1860年8月のハインリッヒ・シュミットの来日を待つこととなった[3]
  72. ^ ウィリアムズは、サイルの家族の病気のため、サイルは短い旅行を楽しむ必要があり、サイルが不在の中で日本へ出発できず、リギンズより日本行きが遅れた[3]
  73. ^ フルベッキはオランダ改革派の宣教師として来日し、早稲田大学の建学の祖とされる人物。チャニング・ウィリアムズと親交が深く、子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となる。次男はチャニング・ムーア・ヴァーベックと命名(ウィリアムズは遺産の一部と金時計を与えると遺言状で指示)。二女のエマ・フルベッキは聖公会の婦人伝道師となり、立教女学院、立教学校で教えた[293][294][295]
  74. ^ フルベッキはリギンズ、ウィリアムズと同居した後、崇福寺近くの住居に引っ越した。しかし、妻が神経痛となり、1860年8月に来日したハインリッヒ・シュミット医師から、神経痛の原因は寝室の湿度の高さにあると説明され、シュミットの薦めで、1860年11月15日に環境の良い崇福寺広福庵へ転居した。広福庵は、最初の住まいであった崇福寺広徳院と同じ境内の高台にあった[296]
  75. ^ 長崎米国領事館は1860年から1865年、1902年から1921年まで東山手十二番館に所在した[15]
  76. ^ シュミットは来日してから2か月後には診療を開始している。翌年7月に東山手居留地四番館に引っ越した際には、診療所が整備されたと考えられる。
    医学と英語教育については、日本人医師たちに英語で現代医学を教えるクラスと、医学とは関係なく英語だけを教えるクラスを持っていた。
  77. ^ ウィリアムズは東山手居留地の五番館に住んだ。シュミットの住む四番館に隣接する三番館には幕府の「済美館」と佐賀藩の「致遠館」で英語などを教えるフルベッキが居住していた。また、現在の東山手にはC.M.ウィリアムズ宣教師館跡の石碑が建てられている。
  78. ^ a b 高杉晋作はチャニング・ウィリアムズから「アメリカでは、階級間に差別がなく一般人から大統領が生まれ、また大統領も、辞めれば一般人となること」などアメリカの政治制度や民主制度を学び、奇兵隊の発想の元になったと言われる。あわせて、アメリカの南北戦争や清国の内乱などの国際情勢や欧米の状況を聴いて教示を受けた。高杉晋作の手記『遊清五録』のうち「長崎淹留雑録」の一部に「私は彼(米人牧師)にたずねた。日本は士官と土民とに階級が分かれているが貴国はどうか、と。ムリヤムス(ウィリアムズ)いわく、わが国は土民が分かれるということはない。国王となっても、また土民に帰る者がおり、逆に土民から国王になる者もいる。すなわち合衆国の元祖親頓(ワシントン)は、はじめは土民であり、ついには大統領となり、のちまた土民に帰り、また再び国王となる。これは一例にすぎないが、要するに士官と土民が区別されるということはないのである。」とある。このことによって、身分をこえた軍隊の編成を思いつき、その後、上海にいた頃に、清国王朝が外国の軍隊を導入したことによって清国の主権が侵され植民地のようになった状況をみて、放っておくと日本もいずれ植民地化されると危惧し、郷土防衛意識が高まっていった。これらが晋作に奇兵隊を結成させた理由であると考えられる[300][301]
  79. ^ チャニング・ウィリアムズの元で学んだ大隈重信早稲田大学を設立し、前島密早稲田大学(当時東京専門学校)の校長を務め、建学にも大きく関わっており、ウィリアムズが設立した立教大学と教え子が設立した早稲田大学は歴史的に深い関係がある。大隈重信はアメリカ独立宣言を知り、その後の人生に大きな影響を受けたが、アメリカ独立宣言の起草者であるトーマス・ジェファーソンはウィリアムズが卒業したウィリアム・アンド・メアリー大学の卒業生であり、大隈にアメリカ独立宣言を最初に教えたのはウィリアムズであった可能性が高い。ウィリアムズの同僚のジョン・リギンズが長崎に持ち込んだ書籍の中にブリッジマンの『聯邦志略』も含まれているが、この本にはアメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれており、これを教材として大隈や前島を始め多くの志士が影響を受けた[92][302][303]。1888年(明治21年)、大隈はウィリアムズからの要請により築地キャンパスの拡張のため尽力する[注釈 54]。大隈は、1919年(大正8年)5月31日に開かれた池袋校舎落成式にも来賓として出席し、大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から立教大学との縁故に及ぶ大演説を行った[14]。前島密はチャニング・ウィリアムズから郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立につながった[257]。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けた。また、早稲田大学建学の祖であるフルベッキとウィリアムズは深い親交で結ばれた盟友であった。
  80. ^ a b 大隈はウィリアムズ、並びにフルベッキ等の元で、講義の聴講や英書の質問をするなど英学を学んだ。その側らで、キリスト教の事も研究しようと思い、当時の日本ではキリスト教は厳禁であったが、学問上の理論や原理として、研究するのはいささかも問題がないと信じて、副島種臣とともに約1年半の間、研究を行った。大隈はその後、駆け出しの外交官として浦上四番崩れについてのイギリス公使パークスとの交渉を成功させ、新政府内で頭角を現し、その後政治家として大成していく契機となったが、これはウィリアムズとフルベッキから、一通りキリスト教の教義を学び会得していたことによる成果であった[12]
  81. ^ 土地は928坪、借地名義人は英国領事ジョージ・モリソン、所要経費は整地費を含め銀1782分。ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって献堂された[290]
  82. ^ 教師として、中国語を教える「本業教授方」として、呉泰蔵、鄭右十郎、潁川保三郎、「洋学世話掛」として、彭城大次郎、何礼之助、平井義十郎が務めた。ウィリアムズやフルベッキも英語を教えたと考えられる。
  83. ^ これより10年前の1854年(安政元年)、福澤諭吉(当時21歳)が長崎に遊学し光永寺と高島流砲術家山本宅に1年間寄宿し蘭学・砲術を学んだが、その山本宅は、私塾が置かれた大井手町使屋敷の一部にあった[296]
  84. ^ ウィリアムズは、佐賀藩の碩学、谷口藍田に加えて、長崎の漢方医、笠戸順節とも交流している。笠戸順節は、漢文に長けた人物で、リギンズ、ウィリアムズ、フルベッキに、日本語や日本に関する書籍を供給した。リギンズ、ウィリアムズは中国で漢文を習っていたため、笠戸とコミュニケーションが取りやすかったと思われる。笠戸順節は、シーボルトにも資料を提供していたとされる。
    ウィリアムズは、谷口藍田に英語や海外事情を教え、藍田からは和漢の学について教えを受けた。谷口藍田は東京専門学校(のちの早稲田大学)でも教鞭を執っている[313][314][4]
  85. ^ 1866年1月は慶應元年十二月。
  86. ^ 長崎を去る直前の2月には、ウィリアムズは肥後熊本藩士荘村助右衛門に洗礼を授けた(プロテスタントとして日本で二番目、聖公会としては初の受洗者)[296]
  87. ^ フルベッキも1868年10月に大阪を訪れており、ウィリアムズとフルベッキは大阪でも親密に情報交換をしていたと考えられる[319]
  88. ^ ウィリアムズは日本に着任後、同じ聖公会として、英国国教会に伝道協力を求めていた。
  89. ^ ウィリアムズが当初居を構えた与力町は、川口居留地に程近い雑居地(のちの本田三番町付近、現在の川口3丁目付近)にあった。川口居留地は、当初わずか26区画しかなく、競売で土地を落札することができなかった外国人は隣の梅本町、与力町等の雑居地に住むようになった[321]。そのため、ウィリアムズは与力町に居を構えたと考えられる。住居は日本人の協力を受け、得られたものだった[320]
  90. ^ アーサー・ラザフォード・モリスは米国聖公会の宣教師で、立教大学池袋キャンパスの本館(1号館)はモリスが遺した寄付により建てられたことから、「モリス館」とも呼ばれ、立教大学のシンボルになっている。
  91. ^ 午後2時間のみの男子学校で[31]、英語に加えて数学や理化学なども教える私塾として開設。ウィリアムズは数学、理化学を教えた。また、ウィリアムズが担当する聖書は選択であったが、初級クラスは全員が履修し、上級生も多数が履修した[172]。モリスが英語の教師として教壇に立った[329]
    また、1930年(昭和5年)の「立教大学新聞第89号」には、学校は聖テモテ学校という名称で明治4年6月に設立されたとの記載もあり、学校の設立年と名称には複数説がある[330]
  92. ^ 明治6年に校名(和名)を英和学舎と改めたともされる[330]
  93. ^ 築地の外国人居留地にあった詩人ヘンリー・ロングフェローの子息邸を借用して塾を開設した。この建物は、昭和14年と15年に出版された『立教大学一覧』によると、築地居留地70番館とあるが、築地居留地は後から造成された土地を含め60番地までの地図しか確認できていない点も踏まえて、正確な場所は判明していない[130][332]。昭和8年3月版の『立教大学一覧』では、築地居留地70番は、現明石町17番地との記載もある[333]
  94. ^ 立教学校卒業生の河島敬蔵の経歴書によると、ウィリアムズとともにエドワード・サイルも立教学校の設立に関与していたと思われる。河島は、1873年(明治6年)3月から大阪の聖テモテ学校(後の大阪・英和学舎)で学んだ後、立教学校が設立された翌年の1875年(明治8年)2月から立教学校で学び、後に大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で教授を務めた[2]
  95. ^ ウィリアムズが最初に任命した実際の初代校長はジェームズ・ガーディナーである。ブランシェ(初代立教学校長)やクインビー(立教学校長)は、統括者ウィリアムズが不在時の主任者として位置づけられる[335]。ブランシェ、クーパー、ニューマンの諸氏が主として教授を務めた[130]
  96. ^ 先に来日(1872年)して指導していたJ.H. クインビー夫人の生徒3名を引き受けた。
  97. ^ この改称と同時に学校の場所を川口居留地14番に移したと考えられる。照暗女学院は、1879年6月には川口居留地6番の元オーサカホテルを購入し移転[173][323]
  98. ^ 日本で初めて制服にセーラー服を採用した学校は諸説あるが、平安女学院は、その内の一つである。
  99. ^ 明治8年、照暗女学校のミス・エディの記録では、生徒に讃美歌を歌わせているとき、日本の子供たちはオルガンのどこから音が出るのか不思議がっていたという[339]
  100. ^ a b 1877年(明治10年)1月15日に大阪・北浜五丁目で中島彬夫により創設された英学私塾の風雲館は立教大学の源流の一つと考えられる。当時、風雲館では演説会がよく開催され、論議も盛んであった。1878年(明治11年)2月12日に、天満若松町七番地に移転された際には夜学も開校し、さらに1879年(明治12年)9月1日には北浜三丁目に分塾を設け、女子専門課を置いた。1880年(明治13年)1月に大阪・英和学舎と合併して閉校するが、1881年(明治14年)3月には、大阪上等裁判所を辞した中島によって風雲館は再興された[340]
    日本英文学会の会長を務め、同志社でも教鞭を執った清水泰次郎の経歴によると、1877年(明治10年)11月より1878年(明治11年)9月まで、「大阪の北浜風雲館にて独逸学・漢学を修めた」とあり、風雲館は、当時大阪・北浜にあり、独逸学・漢学も教えていた。清水は1878年(明治11年)11月より1879年(明治12年)3月までは、風雲館の館主・中島彬夫の請求に応じ英学部の教頭を務めており、風雲館には英学部も設置されている。1881年(明治14年)7月より1883年(明治16年)12月までは、大阪川口の英和学舎で論理心理学を講授しており、英和学舎では論理心理学も教えていた。出典資料の付記によると、「明治十年以降、大阪に於て北浜風雲館英語部教頭、英和学会教頭、ヘール氏塾(ウィルミナ女学校、現:大阪女学院)主任、照暗女学校(平安女学院前身)教頭を歴任し、なお関西英学校、開成学館、専修学校の教頭を兼ね、私立日本英文学会を創立しその会長となる。」とあり、清水は風雲館だけでなく、英和学舎でも教頭を務めており、立教創成期での関わりが大きい。また、清水は英国留学で休職する第五高等学校(現:熊本大学)教授であった夏目漱石の後任として第五高等学校で教授を務めた[349]
  101. ^ 立教女学校は、1877年(明治10年)6月に、湯島天神町(現在の文京区湯島二・三丁目)にあったブランシェ夫妻の仮住居で始められた生徒わずか6名の私塾として開始。初代校長はブランシェ(ブランシェ夫人だと思われる)。米国聖公会から派遣され、来日したばかりの宣教師ミス・フローレンス・ピットマンがブランシェの働きを支え、生徒数は15名となり、2代目校長を務める。学校創設当初、設置場所が居留地外であったので、外国人教師は校主、若山儀一に雇用されるという形をとっていた。
    立教女学校は翌1878年(明治11年)には神田川を渡った神田駿河台東紅梅町(現:神田淡路町)のブランシェ夫妻の新居に移る。ピットマンも同居した。
    さらに生徒数が21名に増えたことから、1879年(明治12年)12月に隅田川に近い築地(京橋南小田原町「現:中央区築地7丁目」)へ移っている。
    1882年(明治15年)には、ピットマンは立教学校の校長として築地の校舎などを設計したガーディナーと結婚。同年6月には、ガーディナー夫妻が住む築地居留地26番の住居の2部屋が女学校の教室として使用された。1884年(明治17年)にはガーディナーの設計で、築地居留地内26番に念願の新校舎を建設。校舎は洋風三階建ての美しい建物で、居留地内でも評判の建物であったといわれている。
  102. ^ ウィリアムズは度重なる校舎の損失を踏まえ、米国聖公会に、建築家で、文学と化学にも造詣が深い人物の派遣を要請し、ジェームズ・ガーディナーが人選された[31]
  103. ^ 英和学舎は天文学、生理学、論理学、歴史学、本草学(医薬に関する学問)など高度な学問を教授し、のちに立教大学の初代学長となる元田作之進、日本聖公会大阪教区主教となった名出保太郎、南海鉄道の社長を務めた大塚惟明などの人材を輩出した[173]
  104. ^ a b 英和学舎の徽章は、桜を形どった模様に英の字が入った金色のもの、制帽は昔の海軍帽に似て、立教大学新聞記載の1930年(昭和5年)当時では慶應生の帽子に似たもの、制服は、黒色で金ボタンがついたものであった。それらを身に纏い、得意の英語を誇る学生たちは直輸入の洋書を手にして、大阪・川口居留地にそびえ立つ青色に塗られた木造洋館の2階校舎を中心に、当時の自由民権論を盛んに論じて、肩で風を切る素振りで賑やかであった[330]
  105. ^ 月30銭であった授業料が、この年に月50銭に値上げされたが、その他費用は一銭も不用で50銭玉1個で、当時として米国人が経営する一流の学校に通うことができた[330]
  106. ^ ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業したロイドは、学士、文学修士を取得、15か国語に通じていたといわれ、来日わずか7か月目には早くも日本語で説教を行っている。福澤諭吉から慶應義塾の教員の中で唯一真の学者と当初から認められていたロイドは、慶應義塾で11年にわたり(1885年-1890年、1893年-1898年、1904年)教鞭を執った[353]
    慶應義塾で教えるかたわら、福沢諭吉はロイドに三田キャンパス内の西洋館を与えるなど厚遇し、ロイドは慶應義塾の敷地内に喜望教会を創設した。福沢諭吉と聖公会の関わりは、英国聖公会福音宣布教会 (SPG) の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーとの関わりからあり、福沢の三女と四女と孫の清岡暎一(慶應義塾大学名誉教授)は日本聖公会の信徒となっている[354][355]
  107. ^ 1886年(明治19年)3月に、日曜以外に土曜日も休みである事が学生の間で論議され、その結果、学校に対して2つの要求が出された。1つは官立学校と比べて勉強が1週に1日ずつ遅れ、これが到底我慢できないこと、2つは治外法権等をたてに取って、何となく外国人が生徒を軽視していることが甚だ、けしからんこと、この2つの理由が徐々に熱を帯びて、同年の始めに小林彦五郎(後の立教女学校校長)、元田作之進(後の立教大学初代学長)が急先鋒となり、総退学の決意でテオドシウス・ティング校長に要求を突きつけ、改善を求めた。しかし、要求は得るところがなく、明治政府成立以来の学校騒動が持ち上がり、学生50有余名のうち38名が、自由党志士が経営する共同学館へ転校し、英和学舎は一時閉校せざるを得ない状況となった。こうしたこともあって、翌年の1887年(明治20年)に築地の立教大学校と合併する事となり、第3期東京時代が改めてスタートを切っていくこととなった[330]
    英和学舎の閉校については諸説あり、上記以外の理由として、1887年(明治20年)2月に、日本聖公会が成立し、英米ミッションの教会と学校は整理されることとなったこと[337]、また、英和学舎の次期校長に就任予定であったジョン・H・モリニュー(John H. Molineux)が夫人が病のために医師から帰国を命じられたことに加え、次に英和学舎を管理できる者がいなかったことから、学校を廃止することが判断されたという理由もある[324][329]
  108. ^ ウィリアムズ主教は辞表を提出し、主教団は十分な審議の後、彼の長年の奉仕に感謝の意を表し、10月8日に辞表を受理した。この情報を日本で受け取った常任委員会は、全会一致で、「正当に資格を与えられた後継者がその職務に就くまで、主教としての職務を継続すること」をウィリアムズ主教に要請し、ウィリアムズ主教はこれに同意した[329]
  109. ^ a b 聖別式には日本人を中心に700人が出席した。音楽を担当したのは、フルベッキの二女エマ・フルベッキとミセス・フォールスだった。エマは築地の立教女学院でも音楽を教えていた。大聖堂は、ゴシック様式、身廊の長さは78フィート(約26メートル)、フランス製のステンドグラスがあり、塔の高さは地上から51フィート(約17メートル)だったという。オルガン部屋はコワイヤー(聖歌隊席)の北側にあって11×12フィートだったと記録されている。ガーディナーは日本音楽協会会員でもあったので、音楽的にも注意が払われていたらしく、その音響効果は立派だったと記録されている[358]
  110. ^ 雑誌『八紘』は、教授、学生の研究論文や文学的作品を載せたが、この雑誌を通じてキリスト教思想も宣揚された。当時の『早稲田文学』、東京帝国大『芸文』と肩を並べたものであった[154]
  111. ^ 月刊として1931年(昭和6年)5月の300号まで続いた。その時々の立教のキャンパス全体の状況を知る唯一の雑誌として貴重である[367]
  112. ^ a b この本の元は、ウィリス・ホイットニーが1884年(明治17年)5月21日にアジア協会で演説したものを、翌1885年(明治18年)の会報「Transsaction of the Sciatic Society of Japan」第12号に掲載したもので、その別刷には自署してハインリヒ・フォン・シーボルトに進呈するなど日本の医学史に名を残す書である。巻頭には剃髪した杉田玄白の長衣姿の立像絵が描かれ、日本と西洋の医学進歩の関係、影響を与えた主要な事件、比較表などがあり、英対語の日中医書目録だけでも52頁1594部あげている。1905年(明治38年)に立教学院から、280頁からなる、本書の単行本が出版された[374][375]
  113. ^ この書は主に織間小太郎が編纂、吉村大次郎が重要な文書を翻訳して、元田作之進が監修したもので、本書に記載の一部には、有富虎之助が別に著した内容が記されている。有富は翌1915年(大正4年)7月に、『老監督』と題して、日本組合基督教会の機関紙『基督教世界』(紅潮社)に寄稿している[263]
  114. ^ 文部大臣(代理)、内務大臣(代理)、外務各大臣、米国大使、井上府知事等の祝辞に次ぎ、大隈重信、金子堅太郎、渋沢栄一の演説があった[385]
  115. ^ ルドルフ・トイスラーは米国聖公会の宣教医で、聖路加国際病院の設立者。1927年から1934年まで立教の経営法人の理事を務めた。
  116. ^ 第二応援歌の『St.Paul's will shine tonight』も敵性語であるとして斉唱禁止となった[154]
  117. ^ 八代斌助は、イギリス国王ジョージ六世宛の天皇陛下のメッセージを伝達し、ロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席した。
  118. ^ 1862年(文久2年)に、藩命により上海へ渡航する前に長崎に滞在していた高杉晋作が、崇福寺に居たウィリアムズとフルベッキに欧米事情を学んでおり、ウィリアムズとフルベッキ両名は東山手居留地が整備された後も崇福寺でも教えた[451]
  119. ^ 愛恵病院(英語名:Tokyo Dispensary)は、1890年(明治23年)ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に開設[473]
  120. ^ リギンズとウィリアムズとともに幕末の長崎に米国聖公会から派遣され、英語と医学を教えたハインリッヒ・シュミット、現在の立教学院の基礎を築いたヘンリー・タッカーは、バージニア大学で学んでいる。
  121. ^ 三番館に隣接する四番館には、米国聖公会宣教医のハインリッヒ・シュミットが住んだ[91]
  122. ^ 禁教化の幕末において、英学教育と医療活動、在日外国人向けの礼拝は行うことができた。
  123. ^ 文部省内での医学部設置の認可手続きは完了した[406]
  124. ^ 当時の厚生省は、保健婦や高等看護婦の育成や医員教育において聖路加国際病院に期待しており、聖路加病院が医学部の附属病院になることで、厚生省との関係が失われてしまうことを懸念していたと思われる。実際、内務省および厚生省は、公衆衛生院の設立にあたって、聖路加病院および同附属看護学校に人員を依存していた。
    また、厚生省は既に大東亜共栄圏内で接収した10余りのイギリス・アメリカ式の病院を聖路加国際病院に指導させようと期待しており、将来日本がさらに領土拡大していった際には 大東亜共栄圏内にある20余りの病院の指導を担わせようと考えていた。さらに、最終的には聖路加病院を大東亜共栄圏内の医療の中心、医療基地とするよう期待していた。
    こうしたことから、文部省管轄へ移管となる医学部開設に伴う病院の大学附属病院化に反対したものと考えられる[185]
  125. ^ 島崎赤太郎は杉浦学長の夫人ちか(旧姓高木)の東京音楽学校時代の先輩であることから作曲を依頼した[493]
  126. ^ 2009年(平成21年)の創立135周年を機に、立教学院各校のシンボルデザインの一体化を図り、現在の2色のデザインが基本デザインとなった。チャペルのステンドグラスにある楯のマークなど別のカラーリングのデザインもある。当初のデザインは、紫・白・金の3色によるデザインで、金色は「真正の価値」を表している[509]
  127. ^ ムラサキの花自体は白色だが、根は古くから紫色の染料として用いられてきた。紫色とはもともとムラサキの根を原料として染め上げた色である。
  128. ^ 1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきた。1945年(昭和20年)、戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎で復元し長らくそのままの建物であった。しかし、2017年に、戦災で失われた箇所を復元し、創建当時の美しい3階建てのレンガ造りの姿が見事に再現された。特にドーム部分の復元は大きな話題となった[523]
  129. ^ 専門科目群として、言語研究関連科目群、通訳翻訳研究関連科目群、コミュニケーション研究関連科目群、グローバル・スタディーズ研究関連科目群がある[広報 3]。また、2012年度以降の入学生に対しては、選択科目の領域専門科目として、複合地域文化領域、異文化コミュニケーション領域、言語教育領域がある[広報 4]
  130. ^ 学科選択科目は「公共サービスと生活」「競争と規制」「グローバル化と地域」「政策関連科目」に分かれている[広報 5][広報 6]
  131. ^ 学科選択科目は「アカウンティング」「ファイナンス」「マネジメント」がある[広報 5][広報 6]
  132. ^ 選択科目の一つで、2年次から始まるコンセントレーション科目は、マーケティング領域、マネジメント領域、アカウンティング&ファイナンス領域、コミュニケーション領域に分かれている[広報 7]
  133. ^ 代数系研究室、解析系研究室、幾何系研究室、計算数学系研究室がある[広報 8]
  134. ^ 理論物理学研究室、原子核・放射線物理学研究室、宇宙地球系物理学研究室がある[広報 8]
  135. ^ 教員は「反応解析化学グループ」「構造解析化学グループ」「物性解析化学グループ」に分かれている[広報 8]
  136. ^ 分子生物学系の研究室、生物化学系の研究室、分子細胞生物学系の研究室がある[広報 8]
  137. ^ 「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「理論と方法」「自己と関係」「生活と人生」「公共性と政策」「構造と変動」の5領域に分かれている[広報 9]
  138. ^ 「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「価値とライフスタイル」「環境とエコロジー」、「グローバル化とエスニシティ」「都市とコミュニティ」の4領域に分かれている[広報 9]
  139. ^ 「社会学部共通・社会学科科目」や「学科展開・自由科目」は「情報社会」「マス・コミュニケーション」「メディア・コミュニケーション」の3領域と、「メディア実習科目群」に分かれている[広報 9]
  140. ^ 専門科目は、(1)理論・制度・サービスの理解、(2)援助の方法や技術の理解、(3)実習・演習等による理解という3つの柱に基づき配置[広報 10]
  141. ^ 学部専門科目は「環境・スポーツ教育領域」、「ウエルネススポーツ領域」、「アスリートパフォーマンス領域」、の3つの教育研究領域を柱に配置。専門科目群としては、導入期のスポーツマンシップ論、スポーツリーダーシップ論に加え、スポーツ科学科目群、ウエルネス科学科目群、専門英語科目群、データサイエンス科目群で構成される。
  142. ^ 皇太子時代の上皇が戦時中、奥日光に疎開していた時に滞在していた日光市湯本にあったホテルで、1973年に栃木県益子町に移築され、2020年2月から「ましこ悠和館」として新たに営業を開始[588][589]

出典

  1. ^ a b 立教大学校友会 立教タイムトラベル 第48回「1956(昭和31)年、セントポール・グリーンハイツ完成」
  2. ^ 立教大学陸前高田サテライト(2020年5月24日閲覧)
  3. ^ 2016年入学生用の「大学案内」[1]「異文化コミュニケーション学部案内」[2]による
  4. ^ 履修要項[3]による
  5. ^ a b 2016年入学生用の経済学部案内[4]による
  6. ^ a b 履修要項[5]による
  7. ^ a b 履修要項[6]による
  8. ^ a b c d 2016年入学生用の理学部案内[7]による
  9. ^ a b c 履修要項[8]による
  10. ^ 履修要項[9]による






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