日本の染織工芸 室町・桃山時代の染織

日本の染織工芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/19 04:10 UTC 版)

室町・桃山時代の染織

鳥獣文様綴織陣羽織(豊臣秀吉所用)高台寺蔵 輸入品のペルシャ製の生地で仕立てられている。

名物裂と西陣織

10年以上続いた応仁の乱(1467 - 1477年)によって、京都の町の大半が焼け、由緒ある寺社の建物などとともに、火に弱い染織工芸品の多くも地上から姿を消してしまった。このことは反面、近世に向けて新たな染織工芸を生み出すきっかけともなった。15世紀以降、明との勘合貿易により、金襴[注釈 2]、緞子(どんす)[注釈 3]、印金[注釈 4]などの日本にはない技術や素材を駆使した裂が輸入された。こうした外来の裂は茶人や商人らによって珍重され、茶道具を包む仕覆(しふく)や、掛物の表装に用いられて愛用された。こうした外来の染織品を総称して「名物裂」といい、愛用したとされる人物の名をとって「角倉金襴」(すみのくらきんらん)、「珠光緞子」(じゅこうどんす)などと呼称されている[61][62]。応仁の乱によって、京都の織物産業は一時期途絶えたが、16世紀になると、戦乱を避けて堺など各地へ散っていた職人が徐々に戻り、織物業が再開された。かつて、応仁の乱で西軍の本陣があった地区で織物業が復興したことから、京都の織物は西陣織と称されるようになった。[63]

小袖

16世紀になると、ようやく現存する染織品の数も増えてくる。この時代の特色の一つは、従来、下着の地位にあった小袖が上着として表面に出てくるようになったことである。元は上層階級の下着であった小袖は、鎌倉時代以降、武家の台頭と服装の簡素化に伴って、徐々に上着として着られるようになり、応仁の乱あたりを境にして、階層や男女を問わず広く着用される一般的な衣服となった。小袖とは広袖に対する言葉で、袖口を広く開けずに狭く仕立ててあるものの意である。平安時代の女房装束では、袖口や裾からこぼれる衣の重なり合った色彩の美しさを競ったが、小袖が表に着られるようになると、小袖そのものの文様が重視され、小袖の特に背面が1枚の画面となって、ここにさまざまな技法でさまざまな図柄が表されるようになった。小袖は現代にまで通じる、日本の「着物」のルーツでもある。桃山時代の小袖には片身替り、段替り、肩裾などの大胆な模様が採用された。[64][65]

辻が花と能装束

三十二番職人歌合(サントリー美術館蔵)のうち桂女 白の表着は今日でいう辻が花ではなく、麻地の絞り染めとみられる。

16世紀半ば、室町時代末期あたりから、日本の染織工芸は海外の染織品の影響を受けて、その素材や技法を多様化させていく。中国から輸入された刺繡作品の刺激を受けて、日本でも小袖などに精巧な刺繡が施されるようになり、刺繡と金箔を併用した縫箔(ぬいはく)という加飾法も現れた。室町時代末期からは「辻が花」と呼ばれる一連の染物が登場する。辻が花は縫い締め防染による染めを中心にしたもので、室町時代末期から江戸時代初期に至る短期間に隆盛して姿を消し、現存遺品が少ないこともあって、「幻の染物」ともいわれている[66]。戦国時代から桃山時代にかけては、武将も服飾文化の重要な担い手であった。織田信長、豊臣秀吉、上杉謙信といった武将の着用した陣羽織や胴服[注釈 5]には自らの個性と存在をアピールする大胆奇抜な衣装や色彩が採用され、ヨーロッパ渡来のラシャ(羅紗)の裂も使用された[67]。日本の染織の歴史には長年登場しなかった綿花が栽培され普及するようになるのもこの時代である。日本で綿の栽培が始まったのは明応年間(1492 - 1500年)とされ、江戸時代中期以降には日本各地に木綿を素材とした織物が普及し、絞り染、型染、(かすり)などの製品が作られ、日本染織の重要な分野となる[7]。この時代から発達した分野で重要なものの一つに能装束がある。能装束は、当初は一般の小袖などと大差のないものであり、大名が自らの着ていた小袖を脱いで能役者に与える等のことも行われたが、桃山時代から江戸時代には芸能衣装・舞台衣装として独自の発達を遂げた[68]

現存する辻ヶ花の中でも、家康の遺品は質・量共に他を圧倒しており、『慶長板坂卜斎記』にも家康が家臣へ数多くの小袖(年間に9から14・15領)を下賜した結果、天正末から文禄に掛けて小袖が天下に広まったとして、日本衣装が結構な事は家康に始まるとして、日本建築が結構な事は秀吉に始まると対比させている。

辻が花染

婦人像 大和文華館蔵16世紀 像主は白地に紅葉、斜格子文などを表した辻が花染の小袖を着用している。

近世初期を代表する染織品が辻が花である。室町時代末頃から江戸時代初期の比較的短期間に作られ、その後途絶えており、現存作品数は断片を含めても300点足らずである[69]。こうしたことから、「幻の染物」と称されている。辻が花は縫い締め絞りを主体として、これに描絵、刺繡、摺箔などの加飾を加えたもので、地はこの時代の特有の練貫地[注釈 6]を多く用い、製品の種別としては小袖と胴服が大部分である。「辻が花」という言葉の語源ははっきりしない。14世紀末から15世紀初めの成立とされる絵巻『三十二番職人歌合』には、「桂女」の詠歌として「春かぜに わかゆ(若鮎)の桶をいただきに たもともつじが はなををるかな」とあり、これが「つじがはな」の語の初見とされている。この絵巻に描かれた桂女は、上着の長い袖を折り返して着用しているように見え、これが「つじがはなを折る」を図示したものとも言われている[70]。このように「つじがはな」という言葉自体は室町時代から存在したが、その語源ははっきりせず、染色技法の名称としての「辻が花」も今日とは意味合いが異なっていた。1603年頃の編纂である『日葡辞書』の「つじがはな」の項によると、当時「つじがはな」と呼ばれていたのは麻で織った帷子の類であり、「辻が花」が前述のような縫い締め絞りの製品を指すようになったのは明治時代のことである。[71][72]

能装束

茶地向鶴菱文様唐織(能装束) 東京国立博物館蔵 17世紀
緑地菊唐草文様狩衣(能装束)東京国立博物館蔵 18世紀
紫地竹地紙文様縫箔(能装束)東京国立博物館蔵 18世紀
緑地栗折枝蔦文様長絹(能装束)東京国立博物館蔵 18世紀
浅葱地菊蓮鳳凰文様側次(能装束)東京国立博物館蔵 16世紀

は、民間芸能である猿楽田楽に起源をもつ舞台芸能である。当該芸能は、近世までは「猿楽」あるいは「猿楽の能」と称されたが、本項では染織史用語として一般的な「能装束」を用いる。

足利義満は大和猿楽の観阿弥世阿弥父子を取り立て、この父子、特に子の世阿弥によって舞台芸術としての能が大成した。能は将軍や大名によって保護され、江戸時代には武家の式楽としての地位を確立した。室町時代の能装束の実態はよくわかっていないが、舞台衣装として分化した存在にはなっておらず、通常の衣服と大差ないものであったとみられる。当時は「小袖脱ぎ」といって、武将等の後援者が祝儀として、能役者に自らの着ている小袖を脱ぎ与える習慣があった。寛正5年(1464年)に行われた糺河原の勧進猿楽では、多くの「小袖脱ぎ」が行われたことが記録されている。永正10年(1513年)頃の成立とみられる『禅鳳雑談』には「舞衣」(まいぎぬ)、「長絹」(ちょうけん)、「唐織物」などの装束の種別を示す語がみえる。唐織と呼ばれる小袖形の能装束の中には、袖幅の狭い、桃山時代にさかのぼると思われる作品が若干残っているが、現存する能装束の多くは江戸時代以降のものであり、舞台衣装としての能装束の形式が完成するのも江戸時代のことである。[68]

能装束には、用いられる役柄等に応じて多くの種類があり、加飾方法や文様もさまざまである。上半身に着る衣服には表着(うわぎ)と着付がある。着付とは表着と肌着の間に着るものである。表着には女役の用いる唐織(からおり)、男役の狩衣(かりぎぬ)など、着付には女役の摺箔(すりはく)、男役の厚板(あついた)、男女役ともに用いる縫箔(ぬいはく)などがある。直垂(ひたたれ)、狩衣、直衣などは能装束と現実の衣装とで同じ名称が使われているが、長絹(ちょうけん)、水衣(みずごろも)のように、能装束特有の名称もある。唐織、摺箔、縫箔などは、染織技法の名称がそのまま装束名になっている。形態的には、唐織、摺箔、厚板、縫箔などは小袖形であるが、長絹、水衣、狩衣などは広袖形である。[68]

唐織 
女役の表着に用いられる、小袖形の装束。各種の色糸や金銀糸を用い、緯糸を縫取織風に浮かせたもので、能装束の中でもっとも華やかなものである。文様はさまざまだが、桜、藤、桐、菊、紅葉、松竹梅などの草花や樹木を表すものが多い。紅入(いろいり)と紅無(いろなし)の別があり、前者は若い女性の役、後者は赤色を用いないもので、年配の女性の役に用いられる。[73][68]
縫箔 
刺繡に金銀箔を加えた技法名がそのまま装束の名称になっている。着付に用いられる小袖形の衣装で、腰巻に着て(「腰巻に着る」とは、袖を通さず、腰に巻きつけるように着用する意。)その上に水衣、長絹などを着る。女役、男役、子役のいずれにも用いられるが、男役の場合は平家の公達などの高貴な役に限る。「道成寺」の後シテの鬼女役には表着なしで用いられる。唐織と同様に紅入と紅無の区別がある。文様は桜、藤、桐、菊などの植物文が多い。[74][68]
摺箔 
これも技法名が装束の名称になったもので、模様の形に糊置きし、その上に金銀箔を摺り付けて文様としたものである。女役の着付に用いられる。中で、鱗文の摺箔は女の情念を表すものとされ、「道成寺」「葵の上」「安達原」などの演目で怨霊や鬼女の役に用いられる。[68]
厚板 
男役の着付に用いる小袖形の衣装で、老若、貴賤、鬼神などさまざまな役柄に用いられる。染織用語としての「厚板」とは、平織の地に各種の色糸や金銀糸を緯糸として用い、緯糸を唐織のように浮かせずに経糸で固く押さえたものを指し、厚い板に巻いたことがその語源とされている。ただし、能衣装としての厚板は、上述のような技法によるものはむしろ少なく、唐織と同様の組織によるものや綾織のものもみられる。文様は幾何学文、縞、格子などの固い感じのものが多い。「厚板唐織」という装束名が使われることもあるが、これは男役の着付に用いる衣装で、唐織と同様の組織により、華やかな文様を表したものを指す。[75][76][68]
直衣 
男役の表着で、天皇や最高位の貴族の役に用いられる。[68]
狩衣 
男役の表着で、翁や貴人などの特定の役に用いられ、袷(あわせ)と単がある。袷の狩衣は金襴、錦などで作られ、「高砂」の後シテの住吉明神など、威厳ある役に用いられる。単の狩衣は紗、絽など薄手の生地で作られ、「住吉詣」のツレ光源氏などに用いる。中で、蜀江文様の狩衣は、「翁」専用の衣装である。[77][68]
法被(はっぴ) 
男役の表着で、武人や鬼畜などの役に用いる。袷と単があり、単は甲冑姿を象徴的に表すもので、「屋島」の後シテの義経などに用いられる。また、「紅葉狩」の後シテの鬼神のように、鬼神が本性を表した場面にも用いられる。甲冑姿を表す場合は、右肩を肌脱ぎにし、腋に挟んで着用する。[78][68]
側次(そばつぎ)
男役の表着で、法被から袖を取り去ったもの。武人の甲冑姿などを表す。[68]
水衣 
男女役ともに用いる表着で、僧、老人、庶民の労働者(漁師、潮汲、樵夫など)の役に用いる。無地が多く、縞文様もある。着流しに腰帯を締め、または袖をつまんで襟までたくし上げ、糸留めとして着用する。[68]
長絹 
主に女役に使用する舞用の表着で、平家の公達などの男役に用いることもある。広袖で腋から下は縫い合わせず、紗、絽などの薄物に金糸、色糸の縫取織とする。文様は総文様にはせず、枝垂れ文様とするものが多い。[68]
舞衣 
舞用の表着で女役にのみ用いる。長絹と違い、丈が長く、腋は縫い塞ぎ、胸紐はない。文様も長絹と異なり総文様とする。[68]
直垂 
武家の直垂と同形で、袴と対になる。[68]
素襖 
武家の素襖と同形で、直垂よりは格が下がり、武士の日常着を表す。[68]
大口 
後半部を板のように固くした袴で、前を精好地、後ろは畝織とする。[68]
半切 
大口と同形だが、前後を同裂で作る。[68]
指貫 
裾を括った袴で、高位の僧の役のみに着用する。[68]

注釈

  1. ^ 経三枚綾とは、経糸が緯糸2越分浮いて、1越分沈む形を繰り返す。
  2. ^ 金襴は文緯に金糸を用い、金糸で文様を表した織物。中国では織金という。金糸は金箔を貼った紙を細く裁断して糸としたもの。日本の金襴が金糸のみで文様を表したものを指すのに対し、織金は金糸を用いた織物全般を指す点で意味に相違がある。
  3. ^ 緞子とは、地を繻子織とし、文様をその裏組織の繻子織で表した織物で、経糸と緯糸に異なる色の糸を用いたものを指す。ただし、名物裂で緞子と称されるものは、必ずしも前述のような組織でなく、経糸と緯糸に異なる色糸を用いたものを指している。
  4. ^ 印金は、帛面に糊や漆などで金箔を貼って型文様を表したもの。地には羅、紗、綾などが用いられる。
  5. ^ 武士などが羽織って着たコートのような衣服。
  6. ^ 練貫とは、経糸に生糸、緯糸に練糸(精錬した絹糸)を用いて織ったもの。

出典

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