日本の染織工芸 上代の染織

日本の染織工芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/19 04:10 UTC 版)

上代の染織

時代の概観

日本の染織工芸史が、具体的な作品をともなって跡付けられるのは、7世紀後半以降である。日本は、6世紀半ばに朝鮮半島百済経由で仏教を受け入れ、寺院や仏像、瓦などを造るための工人も百済から渡来した。このように、当時の日本文化は、さまざまな面で、中国や朝鮮半島の影響を受けており、その点は染織も例外ではない。隋・唐の絹織物などの染織品とその技術の輸入により、日本の染織工芸は飛躍的な発展をとげたと推測されている。

日本では、平安・鎌倉時代(9 - 14世紀)の染織の現存遺品がきわめて乏しいのに対し、それより古い8世紀頃の染織遺品は比較的豊富に残っている。これは、法隆寺東大寺正倉院)にそれぞれ伝来した法隆寺裂、正倉院裂という一群の遺品が伝世しているためである。

正倉院裂

正倉院裂は、奈良・東大寺の倉である正倉院に伝来したもので、現在は宮内庁が管理している。ただし、一部の裂は明治時代に当時の帝国博物館に参考品として頒布され、現在東京国立博物館および京都国立博物館の所蔵となっている。法隆寺裂は奈良の法隆寺に伝来したもので、大部分は明治11年(1878年)、当時の皇室に献納され、現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。法隆寺裂は、正倉院裂よりも点数は少ないが、正倉院裂より一時代古い飛鳥時代の裂を多く含む点で貴重である。この時代に属するものとしては、奈良・中宮寺の「天寿国繡帳」も著名である。この繡帳はごくわずかな断片が現存するにすぎないが、7世紀の刺繡作品として貴重である。京都・勧修寺に伝来した「刺繡釈迦説法図」(奈良国立博物館蔵)は唐からの渡来品と考えられている[22]。奈良・當麻寺の「綴織当麻曼荼羅図」は中将姫が五色の蓮糸を用いて一夜で織り上げたとの伝説で名高いものであるが(実際は蓮糸ではなく絹糸の綴織)、こうした綴織の大作が日本では他にみられないことから、唐の製品と推定されている。

正倉院伝来の染織品は、正倉院裂と称され、現存するものは件数にして約5千件、点数としては、用途不明の断片なども含めると十数万点に及ぶ[23][24]。技法的には錦、綾、羅などの織物、上代三纈(さんけち)と呼ばれる臈纈(ろうけち)、纐纈(こうけち)、夾纈(きょうけち)などの染物など、当時の日本で行われていた染織技法を網羅している。日本製のものと中国からの将来品が混在しているが、おおむね8世紀の製品である。このうち、墨書銘などから由緒・年代の明らかな遺品としては、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼会(かいげんえ)の所用品と、天平勝宝9年(757年)、聖武天皇の一周忌法要の所用品の2種類が数量的に他を圧している。前者は、開眼会当日に演じられた伎楽などの楽舞の装束があり、後者の聖武天皇一周忌関係では、荘厳具であった幡(ばん、はた)が大量に残っている。天平勝宝8年(756年)、光明皇后が聖武天皇の七七忌に際し、東大寺大仏に聖武の遺愛品等を献納した際の東大寺献物帳(『国家珍宝帳』)記載の染織品の中では、綴織の袈裟、臈纈と夾纈の屏風の一部などが現存している。正倉院の染織品は、その点数の多さ、技法の多彩さと優秀さに加え、製作時期と由緒伝来が明確である点も学術的に貴重である。[25][26]

以下に、法隆寺裂や正倉院裂に使用されている主な染織技法について略説する。

正倉院をはじめとする上代の織物はに代表される。「錦」および「綾」の語義は必ずしも一義的ではないが、上代染織品の場合、錦とは、先染めした多色の色糸を用いて文様を表した絹織物を指し、綾とは単色、後染めで、地組織の違いによって文様を織り出した絹織物を指すのが原則である。錦は経錦(たてにしき)、緯錦(ぬきにしき)、浮文錦に大別される。[27]

経錦

多色の経糸と単色の緯糸を用いた錦。複数色(3色程度)の経糸を一組とし、このうちいずれかの色糸を浮かせ、他の色糸を沈めることによって地と文様とを表す。緯糸には母緯(おもぬき)と陰緯(かげぬき)の2種類がある複様組織である。母緯とは、経糸とともに地を構成するための糸であり、陰緯とは、たとえば3色の経糸を用いた経錦の場合は、3色のうちの1色のみを表面に出し、他の2本の経糸を沈める役割をする糸である。なお、母緯と陰緯については、それぞれ「地緯」「文緯」と呼ぶべきであり、「陰緯」という呼称は不適切だとする研究者もいる[28]。技術的な制約から、使用する色数や文様単位の大きさには限界があり、色数は3色程度が普通である。中国では、漢、南北朝、隋を経て初唐頃まで行われたが、以後は緯錦に取って代わられ、製作されなくなった。日本では正倉院より一時代古い法隆寺裂の中にみられ、蜀江錦と呼ばれる裂がこれにあたる。[29][30][31][32]

緯錦

四騎獅子狩文錦(緯錦)法隆寺蔵 唐時代

多色の緯糸と単色の経糸を用いた錦。多色の緯糸を一組とし、このうちいずれかの糸を浮かせ、他を沈めることによって地と文様とを表す。緯錦では、経糸に母経(おもだて)と陰経(かげだて)の2種類が用いられる。母経は緯糸とともに地を構成するための糸であり、陰経は、緯糸のうちの1色のみを表面に出し、他の糸を沈める役割をする糸である。経錦が整経の段階で色数が決まってしまうのに対し、緯錦では製織の過程で多彩な色糸を用いることが可能であり、大型の文様も織れることから、盛唐期以降の中国では経錦に代わって織られるようになった。法隆寺裂には緯錦はみられない。正倉院裂には経錦もみられるが、緯錦の方が主になっている。琵琶袋の裂で、唐からの将来品と考えられている「縹地大唐花文錦」(はなだじだいからはなもんのにしき、正倉院宝物)、錦張りの肘掛である「紫地鳳形錦御軾」(むらさきじおおとりがたにしきのおんしょく、正倉院宝物)などが代表作である。[33][30][31]

浮文錦

緯糸で文様を表すが、緯錦とは異なり、地を経糸で表し、複数の色糸からなる緯糸を任意に浮かすことによって文様を表す。地が平地のものと綾地のものがあり、前者が年代的には古い。[34]

織物の三原組織(さんげんそしき)の一つとしての「綾織」は「斜文織」と同義で、平織のように経糸と緯糸が1本ずつ浮き沈みを繰り返すのではなく、2越し浮いては1越し沈むという形を繰り返すものである。これにより、経糸または緯糸の「浮き」が帛面に斜めに連続して現れる。しかし、上代裂の名称の「綾」はこれとは若干意味合いが異なり、後染め、単色の紋織物であって、地と文とを異なる組織で表したものを総称して「綾」と言っている。この場合、必ずしも地と文の両方が綾織(綾地綾文綾)とは限らず、平地に綾で文を表したもの(平地綾文綾)も「綾」と称している。年代的にみると、法隆寺裂には平地綾が多いが、正倉院裂では綾地綾が主体になっている。[35][36][37]

綟り織(もじりおり)あるいは絡み織(からみおり)と呼ばれる薄物の絹織物の一種。経糸が隣り合う経糸と互いに搦み合い、網状の組織を作るものである。製織に労力と熟練を要する高級織物である。中宮寺の天寿国繡帳は羅の地の上に刺繡を施している。[38]

纐纈

絞り染の一種で、糸で括(くく)り防染することで文様を白抜きに表す。そのもっとも単純なものは目結文(めゆいもん)と呼ばれるもので、布面を小さくつまんで糸で括り、染液に浸すと、括られた部分が防染され、鹿の子状の文様が現れる。正倉院宝物には纐纈で縞状の文様を表した袍がある。正倉院裂の纐纈には複雑な文様を表したものはなく、裏地などの目立たない部分に用いられた例が多い[39]。上代の三纈のうちでは、平安時代以降も引き続き行われた唯一のものである。[40]

臈纈

臈纈羊木屏風 正倉院宝物 8世紀

現代の「ろうけつ染」と同じ原理の蝋防染の染物である。各種の文様を表した版型に蝋を塗り、これを布面に押捺してから染液に浸すと、蝋の付着した部分のみが防染されて文様となる。型には木型のほか金属の型も用いられたとみられ、大きな文様の場合は筆で蝋を置くこともあった。正倉院の「象木臈纈屏風」「羊木臈纈屏風」などが典型的作例である。唐からの蜜蝋の輸入が止まったこともあって、平安時代にはこの技法は衰退し、やがて全く行われなくなった。近世の友禅染や型染では防染のために使われたのは蝋ではなく米糊であり、蝋による防染が再び行われるようになるのは明治以降である。[41][42]

夾纈

「夾」は「挟む」という意味で、文様を彫った2枚の板の間に布を挟み込んで染液に漬ける、板締め染である。正倉院宝物の夾纈には、「紺地花樹双鳥文様夾纈絁」( - きょうけちあしぎぬ)のように、多色の複雑な文様を表したものがある。近世の友禅染のような引き染とは異なり、この時代の染色は、浸け染であった。したがって、複数の色を染めるためには、布を何度も染液に浸す必要があり、多色の複雑な文様をずれや滲みもなく染める技法は長年謎とされていたが、1970年代になって、インドのアーメダバードで板締め染に使用する板の実物が発見されたことで、夾纈の製法がほぼ解明された。アーメダバードの文様板では、異なった色に染める部分がそれぞれ輪郭線で区画されて、隣の区画と色が混じらないようになっている。各区画には染料が流れ込むための穴があいており、防染する場合にはこの穴を栓でふさいで、その区画には染料が流れ込まないようにした。正倉院の夾纈もこのような板を用いて染められたと推定されている。夾纈には左右対称形の文様を表すものが多く、布を2つ折にして板に挟み、染めたことが明らかである。[43][44]

その他

このほか正倉院には、「摺染」あるいは「摺絵」という、より簡便な技法を用いた作品もある。これは、木の版型に柿渋などの染料を塗り、布を直接押し付けて染めたものとみられ、屏風を収納する袋などに用いられている。このほか、正倉院裂には綴織、刺繡、組紐、編物など各種の染織技法が用いられ、羊毛を用いた氈(せん)という技法を用いた作品もある。氈は各種の色に染めた羊毛を文様の形に配置し、水を掛けながら固めていく技法(縮絨という)によるもので、日本に羊毛を産しないことから輸入品であることが明らかである[45]。このように、奈良時代には、日本の染織技法の大半が出揃っており、その技術や美術性も高いものであった。[46]


注釈

  1. ^ 経三枚綾とは、経糸が緯糸2越分浮いて、1越分沈む形を繰り返す。
  2. ^ 金襴は文緯に金糸を用い、金糸で文様を表した織物。中国では織金という。金糸は金箔を貼った紙を細く裁断して糸としたもの。日本の金襴が金糸のみで文様を表したものを指すのに対し、織金は金糸を用いた織物全般を指す点で意味に相違がある。
  3. ^ 緞子とは、地を繻子織とし、文様をその裏組織の繻子織で表した織物で、経糸と緯糸に異なる色の糸を用いたものを指す。ただし、名物裂で緞子と称されるものは、必ずしも前述のような組織でなく、経糸と緯糸に異なる色糸を用いたものを指している。
  4. ^ 印金は、帛面に糊や漆などで金箔を貼って型文様を表したもの。地には羅、紗、綾などが用いられる。
  5. ^ 武士などが羽織って着たコートのような衣服。
  6. ^ 練貫とは、経糸に生糸、緯糸に練糸(精錬した絹糸)を用いて織ったもの。

出典

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